artscapeレビュー
音で観るダンスのワークインプログレス
2022年07月15日号
会期:2022/06/11~2022/06/12
京都芸術センター[京都府]
映画や映像配信で普及しつつある、視覚障害者に音声で視覚情報を補助する「音声ガイド」。「音で観るダンスのワークインプログレス」は、「音声ガイド」に着想を得て、視覚に障害のある人もない人にも「ダンスを見る多様な視点の共有」をめざすプロジェクトである。展覧会企画などを通じて、障害当事者とともに鑑賞の多様性を提案している、プロデューサーの田中みゆきが企画した。2017年からの3年間は、捩子ぴじんのソロダンスとともに実施。5年目となる今年は、ダンサーに康本雅子と鈴木美奈子を迎え、デュオ作品を創作した。上演ごとに構成や伝え方を変え、「音声ガイドの完成」自体が目的ではないため、「ワークインプログレス」と称している。
そもそもダンスは、「物語」や「一義的な意味」に還元されず、言葉による捉えがたさを抱えている。また、見えている人(晴眼者)でも「見え方」は多様だ。そうした本質的な困難さを自覚的に引き受けたうえで、「ダンス」のより豊かな射程を掘り起こしていこうとする点に意義がある。
本公演は3部構成で、①康本と鈴木によるデュオ、②そのダンスに触発された言葉の朗読がダンスに重ねられる「テキストバージョン」、③新たな試みである「サウンドバージョン」が上演された。テキスト執筆は文筆家の五所純子、朗読はダンサーの中間アヤカ、サウンドバージョンはサウンドアーティストの荒木優光が手がけ、コラボレーション的側面ももつ。上演後には、観客との対話の時間も設けられた。①のデュオでは、あえて照明を落とし、新聞紙を動かすカサカサという音や身体が床に打ち付けられる硬質な音が「動き」を想像させる余白を残した。
特に、さまざまな点で示唆的だったのが、②の「テキストバージョン」である。手から離したティッシュペーパーが空気の抵抗を受けながら落ちる様子を「ハラハラ、ハラリンコ~」と表現するなど、擬音語や擬態語の面白さ。足でくしゃくしゃに踏まれた新聞紙は「足の裏で読んでみます」、ネギを持って振り回す腕は「腕の筋肉組織が伸びてネギの繊維とつながる」など、触覚や体感、想像力を織り交ぜて描写される。ふくらませたビニール袋を蹴るダンサーと、その横で転がるダンサーは、「うさぎが惑星を蹴ると、カメも転がる」と置換される。また、始めは「CとD」として抽象化されていたダンサーは、途中から「キャメロンとディアス」と呼ばれ、「見る人が自分でキャラクターに変換してストーリーを作ってよいのだ」と語りかける。詩のような比喩や視点の自由さ、言葉のリズム感とあいまって、「ダンスの見方がわからない」という人に対して入り口を広げてくれるだろう。
同時に「テキストバージョン」は、「言語」そのものの可能性と限界、力と脆弱さの両極を改めて顕在化させる。言語化の作業は、視点や切り口の多様さを示す一方で、目の前で起こっていることのスピードと同時多発性に追いつけず、出来事は常に言語からこぼれ落ちてしまう過剰さを抱えている。また、身体に貼りついた新聞紙を「文字がどこまでもしみ込んでくる」、ネギを持って激しく回転するダンサーを「ネギに振り回される」と表現するなど、「主語や主導権」を「ダンサー/モノ」のどちらに設定するか(どちらかにしか設定できない)という問題は、言語自体の構造を逆照射してもいる。
一方、③の「サウンドバージョン」は異色とも言える試み。まず、舞台奥にカーテンで上半身を隠したダンサーが立ち、モニターの記録映像を見ながら、自分の行なった動きに合わせて、息の音、言葉にならない声、擬音、ハミングのような声を出し続ける。その声は、ノイズを混ぜつつ、舞台中央の2台の巨大なスピーカーから出力される。さらにスピーカーは台車に乗せられ、台車を押す荒木優光ともう一人のスタッフによって、行き交ったり衝突したりと「モノの運動」を繰り広げる。荒木はこれまで、「録音音声を流すスピーカーを俳優の代替物と見立て、音響とその立体的配置による、俳優不在の演劇作品」を演出してきたが、その「ダンスバージョン」とも言えるだろう。ここでは、「ダンスの身体」の不在の反面、ある種の過剰さを目撃することになる。発声に伴う、ダンサーの下半身や腕の微妙な動きや震え。舞台上を動き回るスピーカーの緩慢な運動。それを動かす荒木らの身体。一方、視覚運動と音の関係が興味深いシーンもあった。「スピーカーが定位置で止まったままぐるぐる回転する」シーンは、ダンサーの回転をスピーカーに置換したものだが、スピーカーが正面向きから後ろ向きになると音が遠ざかって感じられたように、音の出力方向の変化が「位置関係の遠近」に変換され、視覚の絶対性への疑いを提起する。
このように、「同じものを3回見た」というより、ダンスをベースにどう新たな表現や視点を派生できるかという実験だった本企画。もちろんここには、「単に『動き』を記述することと、『ダンス』を言葉にすることとの違いは何か」という、より大きな問いがある。また、今回は音楽を使用しなかったが、「音楽は、ダンスの世界観をわかりやすく伝えるための補助的手段なのか」という、ダンスと音楽の関係にまつわる問いも派生する。テキストとサウンドを組み合わせたらどうか、ダンサー2人に「1つの声」ではなく「2つの別の声」を割り当てたらどうか、「朗読もダンサー」ではなく、声の質感をより繊細に表現できる俳優などが担ったらどうかなど、さまざまな発展可能性がまだまだある。「正解はどれか」ではなく、実験と対話を重ねながら、ダンスの見方がより豊かになれば、本企画の意義は汲み尽くせないだろう。
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2022/06/11(土)(高嶋慈)