法隆寺金堂壁画の線
滋賀県の地元で昔から「遊亀さん」と親しみを込めて呼ばれていた遊亀は、子どものころより絵に関心があった。大津高等女学校の担任の図画の北垣先生からは女子美術学校への進学を勧められた。しかし日露戦争後に事業の成功を夢見て単身満州へ渡ってしまった父からの仕送りが途絶え、母とのつましい暮らしのなかでは私立へは行けず、奈良女子高等師範学校(以下、奈良女高師)を目指すことになる。
画道に進む基盤をどのように築いていったのだろうか。学生時代の様子を國賀氏は語る。「奈良女高師の国語漢文部に入った遊亀さんは、選修科目に図画をとった。その国語漢文部の教授が日本史の水木要太郎で、図画の教授は横山常五郎。この二人が遊亀の画業に大きく関わっていった。日本美術院の国内留学で奈良に来ていた若い安田靫彦を世話したのは水木だった。また、東京美術学校では菱田春草と同期だったという横山は、美術教育の教師を目指す教職コースを選択し、新しい絵画教育を実践していた。遊亀さんはこの横山から雑誌『白樺』のこと、ヨーロッパ美術などを学んだ。奈良女高師は特に実地学習を大事にしており、水木にはよく引率され奈良、大阪、伊勢、京都、滋賀といった文化財の多い近畿を中心に修学旅行に行った。あるとき横山に法隆寺に連れて行かれ、《法隆寺金堂壁画》に強く心引かれた。“こんな素晴らしい絵画はない”。そのとき“いまこの金堂壁画の線を引けるのは安田靫彦しかいない”と横山に言われる。遊亀さんの脳裏に安田靫彦の名前がインプットされた。壁画との出会いにより、絵を学ぼう、安田靫彦に付こう、院展に入ろう、そのため東へ行こう、と徐々に画家への道が開け、膨らんでいった。遊亀さんは奈良女高師4年のときに京都で開催された院展で、安田の《項羽(こうう)》に見とれて、寮の門限に遅れてしまう。この時期に画家に目覚めていったと思う」。
温かく張りつめた生気
時代の流れは、明治憲法が制定され、平和な社会のなかで自由を希求することに芽生えた大正から、戦争の影が徐々に迫る昭和前期は、シュルレアリスム運動を推進した瀧口修造や日本における現代美術の開拓者である斎藤義重らの物質性をまとう抽象が交錯しながらリアリズムが展開されていた。
激動する時代のなかで女流画家が女性を描く背景を國賀氏は「当時は『元始、女性は太陽であった』で知られる思想家、平塚雷鳥(1886-1971)や、『新宿中村屋』の女主人、相馬黒光(そうまこっこう)という芸術家のパトロンでもあった女性が出てきた。女性解放運動のみならず、人間はすべて平等だとする社会的空気が、どんな小さな命も慈しむ遊亀さんの絵に反映している」と言う。
画道と人生を重ねた遊亀の一生は、自己に厳しく、制作そのものが修行であったそうだ。結婚も修養のための結婚だった。凛とした清々しい表現は、若い頃から絵画のみならず古美術に親しみ、和歌や俳句を詠んで絵画に集約、結実させた成果でもあった。遊亀にとっては「まだ写生風で自由さに欠ける」と、自己評価は厳しいが、温かくも張りつめた生気が漂う《浴女 その一》には日本らしさを感じる。気韻生動の魅力がある。遊亀自身が《浴女 その一》を昭和43年度に東近美へ寄贈している。その経緯は不明だが、作品を後世へ残す意志が感じられるのだ。
生(き)
小倉遊亀と國賀氏が対面したときの思い出を伺った。「1990年に近代を中心とする日本画家が古画を模写した作品の展覧会「模写の魅力─巨匠が学ぶ日本の名画」を開催した。そのとき遊亀さんが来館され、師匠の安田靫彦の絵の前で車椅子を止め、非常に長い時間感慨深げに鑑賞されていた。そして私に一言「あなたいいわね」と仰しゃった。あなたはいつも見られて羨ましいわね、ということだと思う。それは聖徳太子を描いた作品《聖徳太子像》(絹本着色, 93.0×45.0cm, 法隆寺蔵)だった。遊亀さんは法隆寺での横山先生の言葉を思い起こされ、まさにご自分の原点を見られた思いなのだろうと、非常に印象に残っている」。最晩年にも、“一枚の葉”はまだまだ手に入らないと、画家としての地位を得てからも作品を安田に見せてから院展に出品していたという。
安田靫彦を師と仰ぎ、俵屋宗達、アンリ・マティス、良寛を敬慕し、敬愛する小林古径と速水御舟に学び、日本画の新たな表現に挑戦した。1980年85歳で文化勲章を受章するなど、戦後の日本画界に大きな足跡を残す。描く対象を理想化せず、ありのままに絵にする。様式化されないうぶな美、新鮮な感動を描き、自然の神秘におもねる。つまり「生(き)という語に、強く引かれていたようである」と言う國賀氏。遊亀の80年にわたる画業は、105歳で閉じられた。
2014年秋に、国内最大の小倉遊亀コレクションを所蔵する滋賀県立近代美術館では、開館30周年記念として『安田靫彦生誕130年、小倉遊亀生誕120年「遊亀と靫彦」師からのたまもの〜純粋なる美を求めて〜(仮称)』の開催を計画している。
主な日本の画家年表
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國賀由美子(くにが・ゆみこ)
滋賀県立近代美術館主任学芸員。1959年大阪府吹田市生まれ。1986年 同志社大学大学院文学研究科博士前期課程修了後、博士後期課程に在籍し、1988年 滋賀県立近代美術館学芸員、のち現職。専門:日本絵画史。主な著書(共著):『日本の近代美術 5 京都の日本画』(大月書店, 1994)、『画集 幸野楳嶺』(芸艸堂, 1995)など。主な論文:「年中行事絵巻 朝覲行幸巻の制作に関する一試論」(『古代文化 40-1』)、「メトロポリタン美術館本 天神縁起絵巻の伝来について」(『ミュージアム No.498』)、「滋賀県内個人蔵 西行物語絵巻について」(『滋賀県立近代美術館研究紀要 3』)、「高田敬輔筆 信楽院天井画」(『國華 1368』)など。
小倉遊亀(おぐら・ゆき)
日本画家。1895〜2000。1895年現在の滋賀県大津市生まれ。旧姓溝上。1905年父が単身満州へ渡り母と二人の困窮生活。1917年奈良女子師範学校卒業。京都、名古屋、横浜で教員生活を送った後、1920年安田靫彦に師事。1926年院展初入選。1932年女性として初めて日本美術院同人。1936年教職を辞し、画業に専念。1938年禅徒小倉鉄樹と結婚。戦後はマティス、ブラックなど西洋モダニズム絵画を取り入れた独自の画風を展開。1962年日本芸術院賞受賞。1980年文化勲章受章。1990年日本美術院理事長。1999年パリで初の海外個展。2000年105歳没。代表作:《浴女 その一》《磨針峠(すりはりとうげ)》《O夫人坐像》《径》《姉妹》《雪》など。
デジタル画像のメタデータ
タイトル:浴女 その一。作者:影山幸一。主題:日本の絵画。内容記述:小倉遊亀, 1938年, 絹本彩色・額, 縦210.0×横176.0cm, 東京国立近代美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者: 東京国立近代美術館。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Photoshop, 80.1MB(1,000dpi, 16bit, RGB)。資源識別子:特別観覧167〔2130_小倉遊亀_浴女 その一.tif(130207_1408)1,000dpi, 48bit, sRGB, 95.2MB〕。情報源:東京国立近代美術館。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:鉄樹, 東京国立近代美術館
【画像製作レポート】
小倉遊亀の著作権を管理する「(有)鉄樹」へ、企画概要と「小倉遊亀《浴女 その一》の画像Webサイト掲載許諾書」を郵送し、併せて電話で許可を申請した。1週間ほどで許諾書を受領。著作権使用料は10,500円。《浴女 その一》の画像は、東京国立近代美術館より入手する。東近美へ電話で作品写真借用の旨を伝える。メールにて「特別観覧許可願説明書(2枚)」「特別観覧申請書」「誓約書」「誓約書の書き方」の5枚をPDFで受信。この内の「特別観覧許可願」と「誓約書」に必要事項を記入・押印し郵送。企画書と著作権許諾書のコピーは東近美へFax。毎週木曜日が締め切りで、決裁はその1週間後。Faxにて「特別観覧許可のお知らせ」の通知が届く。受け取りに行く日時を電話で打ち合わせ、東近美へ行く。通用口でバッジをもらい4階の普及係で「特別観覧許可書」を受け取り、作品の画像代金5, 250円を支払う。その後普及係の案内により3階の美術課まで移動し、「特別観覧許可書」と持参した「CD-R」を提示。CD-Rに《浴女 その一》の画像データ(TIFF, カラーガイド・グレースケール付き, 95.2MB)を入れてもらい終了。許可条件として、①係員の指示に従う。②作家、作品名と共に「東京国立近代美術館所蔵」を明記する。③美術品などまたは写真原版に損害を与えた場合は弁償する。④許可の目的以外は使用しない。⑤掲載物2部寄贈。⑥原則トリミングはしない。返却は不要。
iMacの21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって調整後、モニター表示のカラーガイドと作品の画像に写っているカラーガイドを目安に、目視により色を合わせ作品の縁に沿って切り抜く。モニター表示のカラーガイド(Kodak Color Separation Guide and Gray Scale Q-13)は事前にスキャニング(brother MyMiO MFC-620CLN, 8bit, 600dpi)。画像データは80.1MB・Photoshop形式に保存。セキュリティーを考慮して画像には電子透かし「Digimarc」を埋め込み、高解像度画像高速表示Flashデータ「ZOOFLA」によって、コピー防止と拡大表示ができるようにしている。
[2021年4月、Flashのサポート終了にともない高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」に変換しました]
●今回の画像にはわずかだが繊維のゴミなどが散見された。クレームに該当するものなのか悩んだ。またゴミを取るための画像加工はデータの信頼性を損なう。美術館所蔵の作品画像価格は、どのような基準に沿って決定しているのだろう。デジタル画像の場合、ひとつは解像度によって価格の差がある。フォトサービス業界では各社が市場経済のなかで価格競争にもまれつつも、画質、使用目的、サービスなど、各社独自に特色を打ち出して価格を決めている。さて美術館界の適正価格とはどういうものなのか。美術館の作品画像は商品とも広報活動ともサービス事業とも言い難く、中途半端な位置に置き去りになってはいないだろうか。
現在のところ信頼できる作品画像を希望する一般ユーザーは、作品を所蔵している美術館か作品画像を専門に取り扱っている会社など、アクセス先も画質も価格も選択は限られている。デジタル社会の基盤整備が進んでいるなかで、美術館が主体となって作品画像を積極的に開放、流通する方策を考え実行することはできないものか。作品画像を資料として保管することは大事だが、美術作品の力を作品画像によって広範囲に与えていくことも同様に大事だろう。作品画像の価格はそんな問いかけでもある。美術館のホームページから無料でダウンロードできる作品画像が増えればよいのだが。ユーザーは美術館所有のデジタルコンテンツにより多く、より速く、より自由なアクセスができるよう望んでいる。
参考文献
小倉遊亀『小倉遊亀画集』1975.11.30, 朝日新聞社
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小倉遊亀・橋秀文『現代の日本画[4]小倉遊亀』1992.6.1, 学習研究社
小倉遊亀『画集小倉遊亀』1993.9.3, 日本経済新聞社
石丸正運「近代日本画の収集について」『滋賀県立近代美術館名品選・日本画』図録p.4-p.7, 1994.3.31, 滋賀県立近代美術館
法隆寺監修『法隆寺再現壁画』1995.10.10, 朝日新聞社
図録『平成8年度 国立博物館・美術館巡回展 近代日本画の秀作──日本美術院の作品を中心に』1996, 滋賀県立近代美術館
高梨純次「小倉遊亀の日本画──20世紀の日本絵画」『パリ展帰国記念 小倉遊亀展』図録p.15-p.19, 1999, 朝日新聞社
小倉寛子『小倉遊亀 天地の恵みを生きる 百四歳の介護日誌』1999.5.8, 文化出版局
小倉遊亀著, 小倉寛子編『百四の春 小倉遊亀画文集』1999.5.17, 日本経済新聞社
尾崎正明「小倉遊亀について」『小倉遊亀展』図録p.11-p.17, 2002, 朝日新聞社
Webサイト:「小倉遊亀展──人、花、こころ」『東京国立近代美術館』2002(http://www.momat.go.jp/ogura.html)東京国立近代美術館, 2013.1.30
國賀由美子「「生(き)」をめざす開拓者(パイオニア)──小倉遊亀」『日本の美術 女性画家の全貌。──疾走する美のアスリートたち』p.66-p.67, 2003.12.10, 美術年鑑社
中林和雄「絵画の100年」『東京国立近代美術館所蔵名品選 20世紀の絵画』図録p.6-p.10, 2005, 東京国立近代美術館・光村推古書院
澤渡麻里「小倉遊亀──描くことは、生きること」『小倉遊亀展』図録p.90-p.95, 2007, 茨城県天心記念五浦美術館
図録『没後10年 小倉遊亀展 とうとう絵かきになってしまった。』2010.2.18, 朝日新聞社
國賀由美子「いざ東へ─小倉遊亀の画業と故郷近江への思い─」『滋賀県立近代美術館名品選 小倉遊亀【増補版】』図録p.5-p.10, 2010.3.31, 滋賀県立近代美術館
Webサイト:「梅のように生きたい 小倉遊亀105年の画像」『日曜美術館』2010(http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0509/index.html)NHK, 2013.1.30
Webサイト:「没後10年小倉遊亀展」『兵庫県立美術館』2010(http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1002/index.html)兵庫県立美術館, 2013.1.30
Webサイト:「小倉遊亀」『滋賀県立近代美術館』(http://www.shiga-kinbi.jp/?page_id=115)滋賀県立近代美術館, 2013.1.30
2013年2月