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狩野山雪《雪汀水禽図屏風》算賀に開く隠逸の自由──「奥平俊六」

影山幸一

2013年03月15日号

ノックアウト

 奥平氏は1953年愛媛県の松山市に生まれた。1983年東京大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得退学し、大阪府立大学を経て、1991年より大阪大学に勤めている。
 奥平氏は子どもの頃育った瀬戸内海沿いの高浜町時代を振り返り、「絵とか研究とかまったく無関係だった」と言う。家で海水パンツをはいてそのまままっすぐ海へ向かっていた少年は、東京へ行きたいという強い憧れから、学費の安い国立大学を目指した。高校生の頃から本を読むのが好きで、美術史という学問があることさえ知らなかったが、ラファエロ前派などの画集を見ていたという。そして大学は希望どおり東京の国立大学へ合格したものの、二年生での進学振り分けでは内定が出ず、一年の二学期に戻る“降年”を体験することになる。
 大学の学部のときに行なわれる秋の見学演習旅行では近畿圏を回った。京都の妙心寺天球院を訪れたとき、奥平氏は山雪の障壁画を見て感動した。その足で京都国立博物館へ行き、常設展で《雪汀水禽図》を見たのが初めての出会いだった。「完全にノックアウトされた感じ。何と言うか、考えるとかいうのではなく、塊みたいなもの、物自体の力なのでしょうか。そのときの旅行で他に何を見たのかほとんど覚えていない」と言う。卒業論文は「妙心寺天球院障壁画の研究」とし、奥平氏と山雪の深い関係はいまも続いている。

学究肌の絵師

 狩野山雪は、氏を千賀、幼名を彦三という。1590(天正18)年、九州肥前(現在の佐賀県・長崎県)に父道元と松浦氏出身の母との間に生まれた。父とともに大阪へ出て来たが、1605(慶長10)年山雪が16歳のときに父が亡くなり、僧侶だった叔父の世話で豊臣家と縁の深い狩野山楽の門人となった。その後、山楽の婿養子として長女の竹と結婚し、1635(寛永12)年に山楽が没したことにより一門を率いることになる。ちなみに山楽の後嗣(こうし)修理光教は夭折している。
 山雪は清水寺、妙心寺、東福寺、泉涌寺(せんにゅうじ)、東本願寺など、京都の諸寺院の作画や、江戸幕府の儒官であった林羅山(1583-1657)が建てた聖堂に《歴聖大儒像(れきせいたいじゅぞう)》を制作するなど幅広く活躍し、伝統的な画題を独自の視点で再解釈、幾何学的な構図を特徴とする画風を生み出していった。不安な感情表現であるマニエリスティックな感覚は晩年に向かうほど強く現われている。
 1647(正保4)年には庇護者であった摂関家の九条幸家の命で、東福寺蔵の明兆筆《三十三身観音像》のうち欠失していた二幅を補作し、その功績により法橋(ほっきょう)位を与えられている。山雪は俗世間との交渉を避けて、儒学者や隠者たちと交際し、学究肌で古典への造詣が深い絵師像が伝えられている。

京狩野と江戸狩野

 山楽と山雪が生きたこの時代は、政権が豊臣から徳川へ変わる激動期であった。徳川家康が豊臣氏を滅ぼした1615(元和元)年の大坂夏の陣の戦いにより、狩野派も分裂した。豊臣家に仕えていた山楽らの命も絶たれるはずだったが、男山八幡宮(現石清水八幡宮)の学僧で書画家であった松花堂昭乗(1582-1639)を頼り、九条幸家と二代将軍徳川秀忠の恩情により九死に一生を得た。
 狩野探幽をはじめとする狩野派は、宗家として江戸へ移り、江戸を拠点に江戸幕府の御用絵師となっていった。軽く淡い画風を展開したこの江戸狩野に対し、京都に残った山楽はのちに京狩野と呼ばれ、山雪とともに江戸狩野とは異なる濃厚で力強い画趣を誕生させ、伊藤若冲、曾我蕭白ら後生の絵師たちへ影響を与えた。しかし、その画業の背景には、幕府をパトロンにもつ江戸狩野の繁栄に比べ、京狩野は民間の“浪人画家”として、また山雪にとっては同業者となる俵屋宗達(生没年不詳)や本阿弥光悦(1558-1637)、岩佐又兵衛(1578-1650)らの活躍があり、プレッシャーであったかもしれない。
 そして衝撃的なのは、晩年の山雪の投獄だ。獄中からの息子、永納(えいのう)へ宛てた手紙がある。またしても九条家の助命運動によって救出されたものの、ほどなく慶安4年、62歳で他界してしまう。しかし山雪が草稿を手がけ、永納が完成させた『本朝画史』(1691年刊)は、日本最初の画家列伝として残された。

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