アート・アーカイブ探求
宮本武蔵《枯木鳴鵙図》“生と死”逆転の命──「河田昌之」
影山幸一
2014年08月15日号
対象美術館
強い絵
和泉市久保惣記念美術館は、和泉市で約100年綿業を営んできた久保惣株式会社の初代久保惣太郎(そうたろう)に始まる久保家三代の個人コレクションや敷地などが和泉市へ寄贈され、1982年に開館した。東洋の古美術品を基軸に古地図や印象派の絵画など、作品収集の範囲を広げており、国宝2件、重要文化財29件を含む11,000点の作品を収蔵している。美術館は、最寄り駅の「和泉中央」から徒歩30分とアクセスはいいわけではないが、《枯木鳴鵙図》をはじめ、《歌仙歌合(かせんうたあわせ)》や《青磁鳳凰耳花生 銘万声(せいじほうおうみみはないけ めいばんせい)》の国宝ほか、茶道具、古筆など見るべきものが多い。
河田氏が宮本武蔵の実作品と出合ったのは、美術館に勤めて収蔵品を見たときだったそうだ。《枯木鳴鵙図》は「強い絵だなという印象だった」と言う。こんな名品とは思わなかった、と新人当時を振り返り笑う。
その印象は、《枯木鳴鵙図》を公開するたびに、隣に展示する作品との相性や間隔を十分に計らなければ、他の作品の存在感を損ねてしまう、それほど特殊な力を備えた作品だという実感に変わっていった、と話す。
河田氏は1954年京都の丹後に生まれた。伝統的な日本家屋で暮らす人々の家には床の間があり、文人画などの掛軸を掛け替えては楽しむ環境だったと言う。また、円山応挙美術館といわれる兵庫県香住の大乗寺を家族で訪れては走り回って遊んでいた子ども時代、絵を好きになる要因が日常にあったのかもしれないと河田氏は述べた。関西学院大学では日本美術史を専攻し、修士論文は室町時代の水墨画を探究して「阿弥派の研究」を書いて修了した。そして大学院時代から学芸員になることを目指し、1985年に久保惣美術館の学芸員となり27年間勤務、2004年から館長に就任。2013年からは非常勤館長となり、大阪芸術大学教授を務めている。
武人画
戦後のベストセラー、吉川英治の小説『宮本武蔵』がつくり上げた吉川武蔵のイメージはいまもって大きく、この小説を原作とした井上雄彦(たけひこ)の武蔵主人公の漫画『バガボンド(vagabond:放浪者)』は7月に単行本が37巻に達し、人気を博している。剣術の二刀流を生み出し、法号「二天」を冠した剣術の一派「二天一流」を創始した宮本武蔵は、生没年や出自など史料により説を異にしており、実態は明らかではないが、記録類を通して武蔵の経歴をうかがい知ることができる。
武蔵研究の主要な史料としては、“正保二年五月十二日 新免(しんめん)武蔵”と書き記された奥書のある『五輪書』、細川藩の藩誌『細川藩奉書』に記載の武蔵関連の記事、細川家家老の沼田延元(のぶもと)が記した『沼田家記(ぬまたかき)』に出てくる武蔵の記録、武蔵の養子宮本伊織(いおり)によって1654(承応3)年に小倉に建立された武蔵の顕彰碑文「小倉碑文」、武蔵が有馬直純(なおずみ)や松井興長(おきなが)らに宛てた書状などが残されている。
絵画研究されることの少ない武蔵だが、正筆が10点ほどと言われており、絵に押されている印章は「二天」(朱文額印)、「二天」(朱文香炉印)、「武蔵」(白文楕円頭長方印)、「宝」(朱文円印)の4種がある。今回取り上げた《枯木鳴鵙図》には「武蔵」の印章があり、また同様のタイトルの水墨画には「二天」の印章がある。
武蔵が生きた時代は、中世の封建制が崩れていくなかで、戦時における武士の活躍が重要な意味をもった室町時代末期から、社会が平静を迎え、武士の社会的地位が定まっていく江戸時代初期に当たる。
美術では、海北友松(かいほうゆうしょう,1533-1615)、長谷川等伯(1539-1610)、狩野永徳(1543-1590)、雲谷等顔(うんこくとうがん,1547-1618)などが登場し、城や寺院の障屏画に金碧や水墨を用いて勇壮な画面をつくり出していた。
武蔵の描いた絵は武士の絵として「武人画」と総称される。その特徴は、主題が道釈人物、山水、猛禽など多岐にわたるが、個々人は精神性を重んじて特定の主題を繰り返し描き、禅画の画風にも似るが流派を形成することは少ない。武蔵に特定の師がいた形跡はなく、筆数の少ない水墨画を描く海北友松との類型から、減筆体に傑出した南宋の画家、梁楷(りょうかい)あるいは牧谿(もっけい)など、寺院に伝えられた中国画を見て学んでいたことが推測される。武蔵の作画は、肉眼と心眼を研ぎ澄ませ、物事の本質を見究める兵法(へいほう、またはひょうほう) のひとつとしての画技であった。
江戸時代の絵師を「上上品」から「下下品」まで九段階に評価した1801(享和元)年発行の『画道金剛杵(がどうこんごうしょ)』では、武蔵は絵師たちに混ざり「中下品」で「気象を以て勝る者なり」との評が添えられ、海北友松の下、円山応挙 や久隅守景 より上位に位置しており、1666(寛文6)年の仏教法話集『海上(かいしょう)物語』に武蔵は「画筆の名人」として登場している。武道修行のために諸国を遍歴して、剣の技を磨き生涯不敗であったといわれる武蔵の水墨画は、絵師ではないが故の鍛え抜かれた精神と、真摯な魂の表現として現代人の心も強くとらえるものがある。
剣術と美術
河田氏は、武蔵の書いた『五輪書』を解読しながら《枯木鳴鵙図》の研究を重ねている。『五輪書』を読んで《枯木鳴鵙図》を鑑賞することで、想像力が増し、理解が深まると来館者にも薦めている。
『五輪書』には武蔵の自筆本は現存していない。武蔵が細川忠利(ただとし,1586-1641)の命によってまとめた「兵法三十五箇条」という兵法書を、二天一流の相伝者として武蔵の高弟である寺尾孫丞勝信(てらおまごのじょうかつのぶ)が敷衍(ふえん)し、『五輪書』として後世に残したと伝えられている。その『五輪書』は、細川家本や吉田家本、大塚家本など写本伝系図ができるほどにさまざまな写本があり解釈も多様、しかも武蔵の死後130年後に書かれた伝記『二天記』(著:豊田景英(かげひで))から生まれた“五輪書”関連の書籍も誕生しているようなのだ。
武蔵は播磨の田原家貞の次男として生まれ、豪族赤松氏の流れを汲む新免氏の子孫の宮本無二(むに)の養子となったとされるが定説ではなく、出身地についても播磨説(現・兵庫県加古川市・高砂市付近)のほか、美作(みまさか)説(現・岡山県英田郡大原町)などがあり、さらに誕生年についても1582(天正10)年と、1584(天正12)年の二説に大別される。
武蔵の足跡を『五輪書』をもとにたどってみると、1584(天正12)年播磨に生まれ、三十歳台初めは、剣の試合や合戦へ参加するなど剣技の鍛錬を繰り返ししていたと考えられる。1596(慶長元)年13歳で有馬喜兵衛と初試合をし、1600(慶長5)年17歳で関ヶ原合戦に参軍、1604(慶長10)年22歳で京都へ上り、吉岡清十郎らをやぶり、1612(慶長17)年29歳のとき下関の船島で佐々木小次郎と決闘。以降五十歳台前半までの経歴は定かではない。1638(寛永15)年には55歳で島原の乱へ養子伊織と共に参戦し、1640(寛永17)年には熊本の細川忠利に客分として招請された。1643(寛永20)年60歳で熊本西方の金峰山山麓にある霊巌洞(れいがんどう)で武蔵独自の兵法観や二刀兵法を、仏教でいう万物を構成する五つの要素である五大(ごだい)にかたどって地・水・火・風・空の巻からなる『五輪書』として書き始めたが、1645(正保2)年、熊本城内の居宅で死亡、享年62歳だった。
河田氏は、『五輪書』(1985, 岩波文庫)を携帯し、ピーンと張り詰めた《枯木鳴鵙図》から受ける感覚に、『五輪書』の言葉を重ね合わせると、剣術と美術をつなぐ新しい世界が見えてくる、と述べた。