アート・アーカイブ探求
船田玉樹《花の夕》──狂おしくも瑞々しい温故知新「野地耕一郎」
影山幸一
2014年11月15日号
日本画とは何か
日本画は西洋絵画と切っても切れない関係にある。日本画研究とは異なった角度から見ることで発見することも多いと野地氏は言う。ドイツの考古学者シュリーマン(1822-1890)によってギリシア、ローマの彫刻が発掘され、18世紀中頃から19世紀前半に、古代ギリシア・ローマブームを背景とした新古典主義が西洋全体に起きたが、近代の日本画もこの新古典主義が興った背景と同様の傾向があった。
日本画においての新古典主義者は、小林古径(1883-1957)、安田靫彦(1884-1978)、前田青邨(1885-1977)と言われる。その実態調査のなかで、野地氏は古径の周辺に速水御舟(1894-1935)がおり、御舟の最後の弟子として玉樹の存在を知った。玉樹を新古典主義に関わる画家と野地氏はとらえている。
玉樹の師である御舟の作品に《名樹散椿(めいじゅちりつばき)》(1929, 重要文化財, 山種美術館蔵)がある。ヨーロッパの新しい造形感覚、キュビスムや構造主義を取り込み、一方で琳派や土佐派の装飾性も加味しているといわれている。大正期から昭和前期の日本画は、西洋の絵画から造形思考を取り入れ、古くからある流派を結び付けながら、和洋を融合して独自の表現を展開していた。革新的であると同時に伝統的、西洋画を吸収しながらも日本的であり続けなければならず、これは日本画が抱えてきた最大の問題でもあった、と野地氏は述べている。
野地氏が練馬区立美術館へ移った翌年の1998年、「日本画とは何か」をテーマに「『日本画』純粋と越境」展を企画した。1989年頃「日本画とは何画論」が議論され始めた。国の名前が付いた絵画はほかにはないと野地氏は言う。「日本画」をJapanese paintingと英訳すれば、日本の絵画の総称となり、「日本画」も「洋画」も含まれ、また絹本や紙本、岩絵具、膠(にかわ)といった画材は日本に特有のものではなく、中国を源流に韓国、チベット、ネパール、インドシナ、中央アジアにも受け継がれている。美術評論家の北澤憲昭氏は「実は日本画には規定がないのでは」と提起し、研究者の間で問題視され、未だにその結論は出ていない。「日本画とは何か」を考え続けるうえでも《花の夕》は最適な作品と野地氏は語った。
異端にして正統
船田玉樹は1912(大正元)年広島県呉市に生まれた。本名は信夫、玉樹という雅号は、杜甫(712-770)の漢詩の一節に用いられた言葉で“すぐれて高潔な風采の人物の喩(たとえ)”(永井明生『広島県立美術館 研究紀要第4号』p.3)とある。父小四郎は古美術商だが仏師としても仏像や仏壇を制作し、母ヤエは玉樹7歳の頃に病没した。玉樹は中学時代に与謝野晶子(1878-1942)や吉井勇(1886-1960)などの詩を好み、自身でも創作した。同じ頃、パブロ・ピカソ(1881-1973)やマックス・エルンスト(1891-1976)にも引かれ油絵を初めた。1931年広島洋画研究所で山路商(1903-1944)に兄事して翌年上京。二十歳になった玉樹は、山路の紹介で靉光(1907-1946)を訪ね、二科会の研究所である番衆技塾に通い油彩画を学ぶ。一方で高田馬場で喫茶店「キリコ」を開業し、結婚。しかし、翌年にピカソやモーリス・ユトリロ(1883-1955)の実物作品を見て圧倒され、また同時期、琳派展で見た俵屋宗達や尾形光琳の作品に感銘を受け、日本画への転向を決意した。
1934年、23歳で速水御舟に師事。「もつと眞裸になつて、泥まみれになり、のたうちまわつてよいのではないか。どんなにしても君のものはなくならない。そうすることで生長するのだ。君は良い素質をもつて生れて来ている。このことは君の大変な幸せだと思ふ」(永井明生『独座の宴』p.9)という御舟の言葉を画家人生の支えにした。翌年御舟が急逝したため、御舟の師である小林古径のもとで謹厳な線描と端麗な色彩を駆使した表現を学んだ。そして古径には「近路をしたがる人が多いゝが遠路をしなさい」(同上p.9)と言われ、生涯忘れず、座右の銘のようにした。
1936年日本美術院展に《花の朝(あした)》が入選し、新日本画研究会に参加。世界大戦開始の前年1938年には岩橋英遠(えいえん, 1903-1999)や丸木位里(1901-1995)らと前衛的な日本画集団「歴程美術協会」を結成して、玉樹宅が事務局連絡先となった。第一回歴程美術協会展に《花の夕》を出品。シュルレアリスムや抽象主義などを取り入れ、日本画を基礎にした前衛表現、いわゆる日本画のアヴァン・ギャルドとして玉樹は名を馳せる。しかし翌年歴程美術協会を脱退。1944年に玉樹は召集されるが、同年病になり除隊となり、翌年終戦を迎えた。
戦後、郷里の広島に戻り再婚。院展や新興美術院展などに出品を続け、岩絵具や墨、油彩やガラス絵など、さまざまな画材と向き合い作品を制作した。1954年三度目の結婚をし、1965年広島の天満屋で画業30年を記念した回顧展を開催。1974年60歳を過ぎた頃、クモ膜下出血に倒れ右半身が不自由となるが、右手で筆を持つことにこだわり、水墨を転写させるデカルコマニーや、拓本のようなフロッタージュ的な作品を制作し、その後、奇跡的に回復、やがて大画面に樹木の枝を繊細に描くまでになった。
御舟や古径の芸術の精髄を受け継ぎ、精緻にして絢爛、端麗にして華美、そして豪胆な画風。小川芋銭(うせん, 1868-1938)の画に似た漫画的な河童の水墨画を昭和20年代から晩年まで描き続けるなど、異端にして正統、多彩、多作な玉樹であった。
【花の夕の見方】
(1)タイトル
花の夕(はなのゆうべ)。英名:Flowers(Image of Evening)。
(2)モチーフ
花木、月。花木は桃と言われるが、特定の花樹ではなく、情感や夕闇で咲く何かの心象風景であり、目で見えるものではない心の中のイメージを造形化したものだろう。速水御舟筆《名樹散椿》を意識したと思われる。
(3)サイズ
四曲一隻屏風、縦180.0×横359.3cm。
(4)構図
無背景画面の中央に、堂々と花木を一本配置し、細い枝の先端は花を縫うように画面の外側まで拡がっている。
(5)色
赤、ピンク、青、金、白、黒、茶、グレー。花に赤、白、ピンク色を用い、フラットでありながら奥行き感を出している。
(6)画材
紙本彩色。花は、岩絵具のほか、ドイツ製のコチニールというカイガラムシから取った動物性の鮮麗な紅色の染料を使用。おそらく玉樹は、コチニールという素材を持ったときの想像力で描いた。日本画家と見られる玉樹だが、油彩画出身のため、絵具に対するこだわりはなかったのかもしれない。素材からくる表現とも言える。
(7)技法
絵の対象はすべて並置で平面的に描く。木の幹の次に花をどんどん描き、そのあと枝を花の間に通す方法で描いた。2週間ほどで描き上がったと玉樹。
(8)落款
署名なし、朱文方印「玉樹」の印章。
(9)制作年
1938(昭和13)年。玉樹26歳。
(10)鑑賞のポイント
ピンク色の絵具を上からポタポタと落としたように、楕円形の花弁が画面全体に描かれている。日本の古典絵画と、西洋の現代絵画が融合した幻想的な絵である。木一本で流れるような装飾感を表わし、花は何に見立ててもいいように描かれている。幹を抱く満月、丸く光る白い花弁、枝には花の丸い黒い影、シナプスのような細い枝。単に木を描いているのではなく、木の霊に対する視線がある。生命の輝きというより、その生命を支えている根っこにある霊魂みたいなもの、生物の瑞々しさを感じさせる。玉樹にとっては目に見えないもの、描けないものが重要だった。1936年院展に初入選した白梅を描いた四曲一隻の《花の朝》と一対と見なすことも考えられるが、構図的には合わない。琳派や王朝やまと絵、南画など、御舟と古径から日本画のいいところを受け継ぎ、辿り着いた新しい日本絵画。古くならない、時代を超える普遍性を持っている。開戦前夜の非常時、時代に抗う玉樹は狂気じみた満開の花を描いていた。第1回歴程美術協会展に出品した玉樹の代表作。