アート・アーカイブ探求
海北友松《月下渓流図屏風》無を日本的情趣とする──「山本英男」
影山幸一
2017年05月15日号
対象美術館
清気に包まれる
「海北友松」展(2017.4.11〜5.21)を見てきた。京都国立博物館開館120周年記念特別展覧会という力の入った大回顧展だが、「うみきたともまつ」とは一体何者かという人もいるだろう。「かいほう・ゆうしょう」と読むその人は、いまから450年ほど前の桃山時代の絵師である。武士の家系に生まれたが刀を絵筆に持ち変えて、長谷川等伯や狩野永徳と並び個性的な画力で戦国の世を生き抜いた。
友松の代表作である京都・建仁寺大方丈の障壁画《雲龍図》の巨龍二頭に見られるように、剛強な墨線のエネルギーに特徴がある。しかし、今展で特に注目した作品は穏やかに包み込まれるような屏風絵《月下渓流図屏風》だ。米国カンザスシティーにあるネルソン・アトキンズ美術館所蔵の作品で、初の里帰りが60年ぶりに実現した。
展覧会会場の最後の展示室に作品はあった(通期展示)。広く暗い空間に六曲一双の《月下渓流図屏風》がやわらかく発光しているようだった。右隻と左隻の間に立つと中央には無が広がった。朝靄(もや)の立ちこめる渓流を眼前に、ボーっと谷間の中に入り込んだような気持ちになる。水の音や鳥の声、梅の香りや大気の湿度を感じさせ、右隻奥から流れ出る水は雪解け水なのか、目の前を通り、左隻奥へと川幅を広めてゆったりと流れて行く。
右隻第一扇の老梅の鋭く立ち上がる枝の勢いに生命力を感じた。木の幹の遠近や針金のような松葉のグラデーションが静寂な空間をつくり、左隻の中央には丸みをおびた石に対応するように、白梅の枝が日本刀の反りを見せ、また、葉の緑色が鮮やかな侘助のような椿に丸い朧月が浮かぶ。緊張感の加わった自然の清気に包まれる。
見るほどに奥深くなる《月下渓流図屏風》の見方を、「海北友松」展を企画担当された京都国立博物館の学芸部長である山本英男氏(以下、山本氏)に伺うことができた。山本氏は今展のために二年前から海北友松の資料を精査し、友松の知られざる一面を発見されたようだ。
柔らかく、丸く、しっとり
日本の中世および近世絵画史を専門とし、特に狩野派や小栗派、雪舟や雲谷派などが主な研究領域である山本氏は、1987年に京都国立博物館(京博)の学芸員となった。以後、大型展の企画担当が続き、なかでも「雪舟」「狩野永徳」「長谷川等伯」展ではそれぞれ20万人を超える来場者数を記録し、京博のヒットメーカーなどと呼ばれている。
展覧会を企画するうえで山本氏が大事にしていることは、「見に来た人に面白さを伝えること」だと言う。展覧会を自分の論文発表の場とするのではなく、展覧会に来られる方が何に興味を持つのかを考えるようにしているそうだ。また、展示室の多い京博では、ひと部屋ずつメリハリをつけて、部屋と部屋をつなげ全体のストーリーづくりに心掛けているという。長い学芸活動を振り返り、山本氏が特に思い出のある展覧会は、1996年に京博で初めて自主企画として携わった特別展覧会『室町時代の狩野派──画壇制覇への道』。山本氏の好きな絵師・狩野元信の《四季花鳥図》が展覧会図録の表紙を飾っている。
京博開館120周年記念展の「海北友松展」を企画するに際し、当初から《月下渓流図屏風》は展示する方針で計画をしていたという山本氏。しかし、実物を見たのは2016年の春。「印刷物で見ていたが、実物も状態がよくほっとした。友松の気質は柔らかく、何を描いても丸を基本にしている。《月下渓流図屏風》は、独特のしっとり感だった」と第一印象を述べた。このとき山本氏は、京博の平成知新館の展示室にこの一点だけを配置しようと決心した(図1)。
前半生の謎を解く
海北友松は1533年、海北善右衛門尉綱親(ぜんえもんのじょうつなちか)の五男(もしくは三男)として、近江(滋賀県)浅井(あざい)家の家臣の家に生まれた。父、綱親は「家中第一の剛の者」といわれる有能な武士だった。しかし、幼い頃の友松は京都・東福寺で喝食(かっしき。有髪の小僧)として過ごした。主家である浅井家や兄が織田信長(1534-1582)に滅ぼされ、友松は還俗(げんぞく)して、狩野派の門をたたき絵の道に進んだと伝えられている。現在残る作品のほとんどは、狩野派から独立した60歳以降の作品であり、前半生については謎が多い。
友松についてのこれまでの基本資料は、息子の友雪が描いた《海北友松夫妻像》に孫の友竹が書いた賛と、友竹が記した『海北家由緒記』であった。海北友松の不明な前半生を改めて調査したという山本氏は、調査研究のなかでいくつか判明したことがあったと述べた。「資料として出てきたのは、米沢藩の正史『歴代年譜 景勝公』巻十七、文禄3(1594)年10月28日に「御屏風一双 濃彩松鳥画/海北友松」と記載されていた。豊臣秀吉(1537-1598)を上杉景勝(1555-1623)が聚楽第城下の自邸に招いて、厳かな能や華やかな宴会を開いた。秀吉が景勝の饗応に対する返礼品として、友松の屏風を景勝にプレゼントしたという記録。秀吉からの仕事を受けていた友松は、秀吉に気に入られていたことがわかる」。
一方、東福寺に友松が在籍していたことを記す資料は発見できなかったそうだ。父の綱親は、友松が3歳のときにすでに戦死しており、長男も小谷城の合戦で討ち死にしたが、次男は生き残り、海北家の血筋は現在もつながっていることが確認されたという。今展では謎に包まれていた50代以前の友松の画業を示す作品として、狩野山楽筆と伝承されていた八曲一双の《山水図屏風》のほか、《菊慈童図屏風》(由加山蓮台寺蔵)や《柏に猿図》(サンフランシスコ・アジア美術館蔵)も出品されている。
画壇の覇者であった狩野派に学んだ友松は、永徳の下で絵を描いていたため無名の絵師だったが、永徳の死(1590)を契機に狩野派を離れたことが想像される。友松58歳。絵師としての頭角を現すのはそれからである。天正20(1592)年には、公家の中院通勝(なかのいんみちかつ。1556-1610)が源氏物語54帖の各帖から一段ずつを選んで抜き書きし、これに対応するように友松が絵を描き『源氏物語絵詞』五巻を制作、友松60歳。友松の大和絵学習は70歳以降と思われていたが、この時期に源氏絵を描いていたとは意外なことだった、と山本氏は語った。
武士として生まれた絵師
海北友松には、錚々たる人々との関わりがあった。明智光秀(1528?-1582)の重臣で、後に大奥を統率した春日局(1579-1643)の父である斎藤利三(としみつ。1534-1582)と、京都・真如堂の僧で千利休(1522-1591)の弟子である東陽坊長盛(ちょうせい。1515-1598)とは信頼を置く友人関係にあった。また、豊臣秀吉をはじめ、秀吉の命を受けた石田三成(1560-1600)とは博多へ同行し、武将で歌道の権威でもあった細川幽斎(1534-1610)など、文雅を愛する人々と親交を深めた。
東陽坊長盛の茶友に細川幽斎がおり、友松は幽斎と知り合うことになったようだ。幽斎は明智光秀と姻戚関係にあるので、明智の家臣の利三の友人に友松がいたことは早くから知っていたとも思われる。山本氏には、友松が幽斎から引き立てられていく図式が見えるという。
建仁寺の復興の気運が高まり、友松が61歳(1593)頃から建仁寺の塔頭などに絵を描き始めた。建仁寺には幽斎の甥である英甫永雄(えいほようゆう。1547-1602)が住職を務めており、幽斎が友松を推薦していた可能性が考えられる。
友松は建仁寺を舞台に、南宋の画家・梁楷(生没年未詳)の減筆体に学び、袋人物と称される丸いフォルムを持つ《竹林七賢図》や、南宋末の画僧・牧谿(生没年未詳)を学習したと見られる《雲龍図》などを描き、特に龍図の名手として名声をとどろかせ、建仁寺は「友松寺」とあだ名されるまでになった。
また、1602(慶長7)年に友松は、幽斎とその弟子である中院通勝の推挙によって、桂離宮の創建者として有名な八条宮智仁親王(としひとしんのう。1579-1629)のもとにも出入りするようになった。古典に習熟した親王や公家との交流のなかで、金碧屏風《浜松図屏風》と《網干図屏風》を生み出す。八条宮家に留まらず、天皇家の御用を務めるようになる背景にも、八条宮智仁親王へ幽斎からの古今伝授 の師弟関係があってのことだろうと、山本氏は語る。
最晩年期には活躍の場を妙心寺とし、建仁寺で見せた刀を振り下ろしたかのような激しい筆さばきは影を潜めてゴージャスな雰囲気を備えた《花卉図屏風》などを描いた。また、気負いのない筆使いと洒脱な雰囲気の押絵 が高い人気を博し、友松の絵は智仁親王をはじめ、その兄の後陽成(ごようぜい)天皇(1571-1617)や公家衆、寺院や武家、富裕町衆まで、幅広く受容されていった。武士として生まれた友松は、亡くなるまで絵筆を握り続けていた。1615年豊臣氏が滅亡した大坂夏の陣の直後、83歳でその生涯を終えた。墓所は、斎藤利三、東陽坊長盛と同じ京都の真如堂にある(図2)。
【月下渓流図屏風の見方】
(1)タイトル
月下渓流図屏風(げっかけいりゅうずびょうぶ)。英題:Pine and Plum by Moonlight
(2)モチーフ
渓流、月、岩、靄、松、竹、梅、椿、つくし、たんぽぽ。
(3)制作年
16世紀後半、桃山時代。没骨
を多用した簡潔な樹木や岩の表現、署名の書体、印の種類から見て友松最晩年期の作。(4)画材
紙本淡彩。
(5)サイズ
六曲一双。各隻縦169.0×横353.0cm。
(6)構図
右隻の第6扇と左隻の第1扇に余白を取り、右隻の第1扇と左隻の第6扇にポイントを置いた左右に視界が開ける広角の構図。
(7)色彩
白、黒、灰、緑、黄、茶。
(8)技法
全体を没骨描で、淡い墨調によりまとめている。余白を無限の背景とし、幹の下方をぼかして靄のなかに浮き立たせ、見る人の目を引きつける機智的な省略技法。
(9)落款
右隻に「友松図之」、左隻に「友松筆」の署名があり、両隻ともに「海北」の白文重郭長方印と「友松」の朱文方印の印章。
(10)鑑賞のポイント
早春の夜明け、生命が活動を始める前の渓谷の風景である。右隻には音を立てて流れる雪解け水に松と梅を、左隻には緩やかな水の流れに梅と椿を靄の中に配し、西の空に朧月を浮かべた。常磐の松、可憐な椿、清楚な梅が香しく開花し、川辺には顔を出したつくしやたんぽぽ。余白をたっぷりととり、ところどころに施された胡粉の白や緑青(ろくしょう)の緑の濃彩が爽やかな印象を与える詩情豊かな屏風絵。墨と色の調和をみせる固有の装飾画世界の中に、水墨画の日本化を達成させた。清爽であり風格のある友松最晩年の最高傑作である。
淡く照らし出された日本的水墨画
山本氏は「文化人たちとの交流のなかで、単なる画工という意味合いではなく、“絵の上手な美意識を共有できる良き友”という位置づけが友松にはふさわしい。同時代に流派を形成していた永徳や等伯の絵師としてのスタンスとはまったく違い、当時の絵師というイメージではない。友松は流派的展開をせず、自分の絵を理解してくれる、自分と心を通わせることのできる人たちの間で仕事をしていればいいというスタンス。それが武士として生まれた矜持かもしれない。絵がうまいから引き立てられていくのは当然のこととしても、和歌を詠み、茶も嗜むという友松は当時の教養人として文化人らに引き立てられていったのだろう」と述べた。
そして、《月下渓流図屏風》について山本氏は「薄明かりというか、全体がふわーっと淡く照らし出されている感じ。春の夜明け頃の光と影の微妙な交錯する瞬間、靄にけぶる一瞬の情景を見事にとらえている。中国絵画のにおいを払拭した日本の光景であり、人によってはこのなかに和歌が読み込まれているという人もいる。この感覚は長谷川等伯の《松林図屏風》と近く、描法はまったく違うが日本的水墨画という意味合いでは同じにくくれる。また、少し寂しくなりがちな水墨画を緑色が引きしめている。友松の速く、柔軟な筆使いも見るポイントである。こうした淡麗かつ瀟洒な画風は、のちに江戸狩野派の総帥・狩野探幽が名古屋城上洛殿障壁画において具現し、江戸絵画の基調ともなっていくが、その先駆例としても本図の存在意義はきわめて大きい」と語った。何もない無に有を見い出した友松。余白を日本的情趣とした。
山本英男(やまもと・ひでお)
海北友松(かいほう・ゆうしょう)
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