アート・アーカイブ探求
東東洋《花鳥押絵貼屏風》ほのぼのと味わい深い風情──「樋口智之」
影山幸一
2017年10月15日号
対象美術館
仙台四大画家
今年2017年のノーベル物理学賞は、時間と空間をゆがめる波「重力波」を初めてとらえることに多大な貢献をしたアメリカの研究者3人が選ばれた。宇宙の誕生や宇宙の未来など、宇宙の謎を解明できる大きな一歩として期待されるというのだ。「重力波」は地球の地震と関係があるのだろうか。先月、美術批評家の椹木野衣(さわらぎのい)が『震美術論』(美術出版社、2017)を出版したが、地震列島・日本で「美術」はいかにして成り立つのか、と自然災害という観点から今後の日本における美術をとらえ直し問題提起している。
日本の観測史上最大規模の地震だった「東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)」。震源に最も近い震度7を観測した「宮城県」をネット検索してみると、「伊達政宗公生誕450年」という大きな見出しが出てきた。そのなかで「仙台四大画家(しだいがか)」という文字に目が留まった。江戸時代中期から後期に活躍した仙台地方出身の四人の絵師たちのことで、東東洋(あずまとうよう、1755-1839)、小池曲江(こいけきょっこう、1758-1847)、菅井梅関(すがいばいかん、1784-1844)、菊田伊洲(きくたいしゅう、1791-1852)を指すと知る。江戸、関西、長崎などで絵を学び、各派(四条派、南蘋〔なんぴん〕派、南画、狩野派)の画風を仙台にもたらして、後進を育てた絵師らを「仙台四大画家」と呼ぶ。命名したのは、明治時代裁判官として仙台に在任した、南画家でもある川村雨谷(うこく、1838-1906)だった。地元の画家たちをプロモーションするような全国でも珍しいキャッチコピー的な呼称だ。画家たちの名はあまり知られていないと思えたが、変わった名前の東東洋の作品は、ほっこりと個性的で、かわいい絵を描く中村芳中(ほうちゅう)を思い起こさせる絵として記憶にあった。
仙台市博物館の常設展ではちょうど「屏風絵 仙台四大画家特集」(2017.9.5〜10.1)が開催されていた。東東洋の《花鳥押絵貼屏風》(仙台市博物館蔵〔伊澤家コレクション〕)が出品されており、イラスト的だと思っていた絵はモチーフが実物大で柔らかな線が本質をとらえてリアルだった。《花鳥押絵貼屏風》の見方を、2005年に『特別展 生誕250年記念 仙台の絵師 東東洋──ほのぼの絵画の世界』を企画された仙台市博物館の学芸企画室長、樋口智之氏(以下、樋口氏)に伺いたいと思った。
肖像画のリアリティ
仙台市博物館は、仙台平野を見下ろす青葉山に築かれた仙台城の三の丸跡に建っている。仙台藩に関わる歴史・文化・美術工芸資料など約9万点を収蔵。木立ちの中にある博物館を訪ねると、樋口氏が軽快な足取りで出迎えてくれた。
樋口氏は1967年群馬県前橋市生まれ。営林局に勤務する両親のもと弟と妹のいる五人家族で子どもの頃は、虫取りや魚釣り、野球など外で遊ぶことが好きだった。歴史にも関心があり、漫画で日本の歴史を繰り返し読んでいたという。高校生の修学旅行で京都・奈良のお寺巡りへ行ったとき仏像に興味を持ちはじめ、ひなびた山の辺の道の雰囲気がよく、楽しかったことをいまでも思い出す。高校の歴史か社会の教員になるつもりで東北大学文学部史学科へ進学。その頃卓球に熱中していて高校の卓球部の顧問になるのが教員になる目的だったと明かし、教員への道は開けなかったと笑う。大学院では勉強するスイッチが入り、日本美術史を学んだ。京都の神護寺で《伝源頼朝像》を見た時は衝撃的だったという。「どうして、こんなリアリティが鎌倉時代に描けたのか」。写実的な中国の表現技法を取り入れていると知り、徐々に中国の肖像画や頂相(ちんぞう。禅僧の肖像画)に樋口氏の研究テーマが落ち着いてきた。その後、大学の研究室の助手を経て、1997年より20年間仙台市博物館の学芸員を務める。
樋口氏が就職する以前に仙台市博物館では、仙台四大画家である菅井梅関、小池曲江ら2人の展覧会を終えており、菊田伊洲展と東東洋展の開催が期待されていた。樋口氏はその東東洋展を企画担当した。「素朴な絵という印象だった。よく円山四条派に学んだとかいわれるけれども、円山応挙にしても呉春にしても、筆さばきが鋭く東洋とは全然違う。東洋はマジックで描いたような独特な太い線」と樋口氏は線描に東洋の個性を見出していた。
文化の華
東東洋は、1755(宝暦5)年狩野派の絵を学んだ岩淵元方(げんぽう、1724-1808)の長男として宮城県の石越(いしこし)に生まれた。幼くして近隣の金成(かんなり)へ移住した。幼名は俊太郎のち儀蔵。実名は洋、字は大洋。号は玉河(ぎょくが)、玉峨で、やがて東洋と号することになる。漢詩や俳諧を創作する文人としては白鹿園と号した。東東洋は、姓・氏が「東」で、名・通称は「洋」。最初の師であった狩野梅笑(1728-1808)の姓「東」を継いだ。本来「東洋」であるが、1811(文化8)年頃には「東東洋」と称されていた。
東洋が本格的に絵を学んだのは、14歳頃のことである。仙台地方に逗留していた江戸の表絵師、狩野梅笑に学んだ。この梅笑は、父の師である狩野玉元(ぎょくげん)と同一人物であった。幕府の御用絵師として朝鮮通信使への進物用の屏風を描くなど活躍していたが、一族から義絶され、越後や奥州を遊歴しながら生計を立てていた。東洋は、18歳頃に梅笑の婿となり、江戸へ出て、さらに文化の華が開く京へと上った。
まず池大雅に教えを乞い、与謝蕪村らの南画や、熊斐、宋紫石(そうしせき、1715-1786)らの南蘋派、写生派の円山応挙ら多種多様な画風に接し、感覚を磨いていった。
京の一大文化サロン
26歳になった東洋は、北陸の旅へ出、金沢で森蘭斎(らんさい、1731-1801)らと交遊。福井では久隅守景の絵を見ている。29歳には長崎へ向かい、来日したばかりの方西園(ほうせいえん、1734-1789)から写実の手ほどきを受けて広島の厳島神社に《虎図》絵馬を奉納し、京都へ戻った。京画壇では応挙がめざましい活躍をみせており、東洋も強い影響を受けたが、特に蕪村と応挙を師事していた3歳年上で四条派の呉春を高く評価した。粉本主義の狩野派が停滞していく時代相のなかで東洋は狩野家と離縁し、四条派画家として独立した。
天明の大火(1788)で京はほぼ全焼し、東洋は大坂へ避難した。大坂に住む文人・本草学者の木村兼葭堂(けんかどう、1736-1802)が記した『兼葭堂日記』には、東洋の名と門人たちの名があり、三十代半ばの東洋に門人がいたことがわかる。東洋は、応挙や呉春のほか、歌人の小沢蘆庵(ろあん、1723-1801)や伴蒿蹊(こうけい、1733-1806)、学者の皆川淇園(きえん、1734-1807)らが集う一大文化サロンを形成していた妙法院宮真仁法親王(みょうほういんのみやしんにんほっしんのう)の知遇を得ていた。皇室とゆかりの深い仁和寺の奥座敷には東洋の《高士探梅図(こうしたんばいず)》襖四面が残されている。
41歳(1795)頃には法眼(ほうげん) 位に叙された。その後、仙台藩出入司(しゅつにゅうつかさ)支配の番外士の画工を命ぜられ、八代藩主斉村(なりむら)にも召されて席画を行なっている。拠点を京都に置きながら江戸上屋敷、藩校・養賢堂、仙台城二の丸の障壁画などに腕を振るった。長男の東寅(とういん、1793-1853)は独立し、仙台の菅井梅関は東洋を頼って京へ上った。71歳まで京に住み、画風を広げ門下を育て、江戸の鈴木南嶺(なんれい、1775-1844)、越後の柴田是真(ぜしん、1807-1891)ら多くの絵師が東洋の教えを受けた。柔らかな線を生かした温かみのある画風と、鹿の絵で知られる。仙台市の昌伝庵にある東家の墓所(図1)、右側に東洋の墓石「法眼東洋居士墓」が建っている。
【花鳥押絵貼屏風の見方】
(1)タイトル
花鳥押絵貼屏風(かちょうおしえばりびょうぶ)。英題:Flowers, Birds and Animals
(2)モチーフ
右隻の右から、梅、鳩、辛夷(こぶし)、松の木、猫、柑橘類の木。左隻の右から、若松に蕨(わらび)、鶴、牡丹、綿花、鹿、南天。季節性はない。
(3)制作年
江戸時代後期(19世紀前半)。
(4)画材
紙本淡彩。
(5)サイズ
各紙縦137.3cm×横47.0cm。六曲一双(各隻縦176.0cm×横359.8cm)。どちらを右隻とするか左隻とするかは自由(図2)。
(6)構図
無背景の画面に一扇ごと具体的なモチーフをひとつずつ下方に配置し、全体ではモチーフの組合せの妙味が出るように平面的な構図にしている。
(7)色彩
白、黒、灰、茶、青、黄、緑、赤。
(8)技法
抑制された穏やかな筆線。丸みを帯びた形に、色数と色調を抑えた着色。
(9)落款
各扇に「東洋」の署名と、「東洋之印」「大洋氏」の白文方印の印章。
(10)鑑賞のポイント
屏風の各扇に一枚一枚絵を選考し並べて飾るように、独立した一つひとつの絵を貼った押絵貼り。一扇ごとに表現技法のテーマをもって描いている。
梅……………線の濃淡と太さ
鳩……………色面の濃淡
辛夷…………色彩のリズム
松の木………色面と形
猫……………形と構図
柑橘類の木…形の連続と色の濃淡
若松に蕨……線の密集と形
鶴……………曲線と形のボリューム
牡丹…………線・色・形のバランス
綿花…………形の連続と線の対比
鹿……………形の写実
南天…………線の硬軟と色の濃淡
両隻の第2扇と第5扇には、動物を配置し、花や鳥など個々の姿態や、屏風一双全体としても楽しめる。左隻5扇の鹿は、鹿の名手といわれる東洋の真骨頂が発揮されており、黒々としたつぶらな目や緊張した耳が可愛らしくも凛とした空気感を漂わせている(図3)。鹿は夏毛と冬毛があり、夏は赤っぽい毛に白い斑点、冬毛は全体的に茶色っぽい毛が生える。この鹿は夏毛の鹿である。また右隻5扇の大きな耳をした眠る猫は、陽だまりでリラックスしているのか、丸くなったポーズで気持ちよさそうに目を閉じて愛らしい(図4)。シンプルなモチーフに集中して、12点の絵の関係を鑑賞者へ問いかけながらも、鑑賞者同志の会話を促している。一瞬を切り取った穏やかな動植物の形象には、何気ない日常の風情が永続するよう、東洋の願いが込められている。
単純化された形象
江戸時代後期は成熟した社会で、シリアスな主題をもユーモアに包んで表現していたと言える。絵画表現のバリエーションが増えていった当時、東洋は、北陸、関西、九州、関東と旅をし、多くの人々と出会い、流派を越えてさまざまな画風を吸収し、また多様な趣向を試み、写実性に軽妙さを加えた可笑しみの滲む独自の画風に至った。技巧に頼らない個性的な描写に芸術上の高い価値があると主張した中国明時代の画家、董其昌(とうきしょう、1555-1636)の考えが広まっていた。東京・府中市美術館の学芸員金子信久氏は「簡略で朴訥な表現の中にこそ純粋な心の内や味わいを表すことができるという理念が、感性や個性を大事にしたい文人たちの考えにも合い、大雅や蕪村ら多くの画家がこれを取り入れ、流行した」(金子信久『かわいい江戸絵画』p.14)と述べている。
樋口氏は「《花鳥押絵貼屏風》は、線が柔らかく太く、モチーフの形を単純化したところに特徴がある。それは東洋の作品全般にも言えることだが、的確なデッサンで構図が面白く、表現は素朴。現代の絵本にも挿し絵として使えるような魅力があり、一見無造作に見えてもタッチはきちんとしている。筆跡がポテポテと見えるのは東洋が書家でもあるため、書の表現からきているのかもしれない。東洋の絵はリラックスして見られる。共に楽しもうという親しみやすい作品が多いが、必ずしもほのぼのとした作品ばかりでなく、精緻な描写や豪華な画面など表現領域は幅広く、東洋は味わい深い」と語った。
仙台市博物館では現在開催中の特別展「伊達政宗──生誕450年記念」(2017.10.7〜11.27)に続き、特集展示「東東洋の絵画」(11/30〜12/27)が特集展示室で始まる。《松に山鳥図襖》や《河図(かと)図》など、仙台藩のお抱え絵師として活躍した時代の名品5点が展示される。ほのぼの東洋とはまた異なる東洋の多才な筆致を見ることができる。博物館の前庭には、「恭(うやうや)しく廃筆(はいひつ)を封(ふう)ず 白鹿園」と書かれた東洋の筆塚(図5)がポツンと建っている。
樋口智之(ひぐち・ともゆき)
東東洋(あずま・とうよう)
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【画像製作レポート】
参考文献