アート・アーカイブ探求
土方稲嶺《猛虎図屏風》密集の引力──「山下真由美」
影山幸一
2018年04月15日号
動と静の共存
本邦初公開となる作品の調査に同行する機会を得た。初めての体験に期待と不安を抱いて現場へ向かう。輪郭のはっきりとした三頭の虎の不思議な屏風絵を写真で見ていた。それでも想像していた以上に古色がかっておらず、江戸時代のままに鮮度を保った豪華さとダイナミックさであった。未知であったろう虎の毛並みの質感を、丁寧に描出しようとするリアリティとユーモアが融合していた。鳥取の絵師、土方稲嶺(ひじかたとうれい)の《猛虎図屏風》である。
美しい総金地の六曲一双屏風に、濃密な彩色によって鮮烈に描き出された三頭の虎。じゃれているのか、喧嘩しているのか躍動する二頭と、その二頭に飛び掛かろうと緊張する一頭の虎。動と静が共存する。画面に近づいて見ると、髭の一本一本まで入念に描いている。豊かな絵画の時空に見る者を包み込みながら、細部に目を引きつける吸引力がある。土方稲嶺とはどのような画家なのだろう。調査を終えたばかりの鳥取県立博物館の山下真由美氏(以下、山下氏)に《猛虎図屏風》の見方を伺った。
武士から画家へ
山下氏は、日本近世絵画史を専門とする鳥取県立博物館の主任学芸員である。同志社大学文学部で日本美術史を学び、京都大学大学院人間・環境学研究科を修了後、2003年より鳥取県立博物館で学芸員を務めている。
山下氏に調査早々《猛虎図屏風》の感想を伺った。「写真では伝わりにくいが、実物の迫力を感じた。虎の生動感が出ている。特に左隻の二頭の虎の渦巻き状の動きと、細密な顔の表現と目。画面のなかでもこの部分に集中して見てしまう。必ずしも細かく描いているわけではないが、西洋的な陰影を用いて現実味を出している。あとは屏風の立体感を利用して作画をしているところ。屏風を折ったときに虎が画面から浮出るように虎を描写・配置しており、稲嶺の得意だった空間構成が見られた」と述べた。
土方稲嶺は、1741(寛保元)年に鳥取(因幡池田)藩の家老・荒尾志摩の家臣である弥右衛門の次男として生まれた。名は廣邦、のち廣輔。字は子直。号は鳥取県の名所稲葉山にちなんでつけられたという稲嶺のほか、虎睡軒(こすいけん)とも号した。
土方家は新羅三郎(源義光の異名)を祖とする源氏の家系であり、祖父の左三太の時代に倉吉(鳥取県)に住み荒尾家に仕えていた。長男の弥門が家を継ぎ、稲嶺は同じ荒尾家の家臣・後藤家へ養子に入り、後藤廣邦として荒尾家に仕えていた。しかし、画家を志す気持ちの強かった稲嶺は後藤家に養子を迎え、職を辞し土方姓に復した。そして鮮やかな色彩で写実的花鳥画が巧みな沈南蘋(しんなんぴん、生没年不詳)の画風を好み、江戸に出て南蘋派の宋紫石(そうしせき、本名:楠本幸八郎、1715-1786)の門人になったと言われている。
沈南蘋は中国・清代の画家で、1731(享保16)年長崎に来て中国の新しい画法を日本に伝えた人であった。宋紫石は長崎に遊学し、沈南蘋に直接学んだ熊斐(ゆうひ、本名:神代彦之進)の門人となり、江戸に南蘋画を広めた画家である。細密で迫真的な写実の南蘋画風は全国へ広がっていった。
青藍の誉れ隆々として興る
稲嶺は、紫石と見紛うばかりの花鳥を描く技術を身につけ、41歳の天明初年(1781)頃に京都へ移り、円山応挙(1733-1795)や伊藤若冲(1716-1800)ら、多くの画家がひしめく京都で刺激を受け、粟田宮家(青蓮院門跡)に仕えて画道に精進した。京都画壇の中心にあった円山応挙に、稲嶺が入門を申し入れたところ、その腕前に驚いた応挙は入門を拒んだという逸話がある。「天明期の応挙の地位を考えればこの逸話は伝説の匂いが強いが、ここで想像をたくましくすれば、京都へ移住した稲嶺の使命は、宋紫石直伝の江戸前画風を当地で広めることにあったのかもしれない」(成澤勝嗣『土方稲嶺の伝記と画業』p.2)、と長崎派に詳しい早稲田大学の成澤勝嗣教授は述べる。
稲嶺は公家や木村蒹葭堂(けんかどう、1736-1802)など、一流の文化人との交流も始まり、55歳の1795(寛政7)年には、京都・北野天満宮に師の宋紫石が建立した竹画碑に倣い、稲嶺が竹画を描き門弟たちによって竹図石碑が建てられた。現在石碑は、鳥取県鹿野町の雲龍寺に移され、模刻した碑が天満宮に設置されているという。鳥取藩儒者の伊藤祐胤(すけたね、1737-1802)が書いた碑文には、「青藍の誉れ隆々として興る。一時の名流其の高絶を推す」という活躍ぶりが記されている。
1796(寛政8)年には、日本最初の本格的な展覧会とも言われる書画会「東山新書画展観」に《墨蘭》を出品。紫石を髣髴とさせる洗練された写実表現に余情を加味し、色数を抑えた品のよい花鳥画を描いた。また余白を用いた空間構成や陰影をつける西洋画法を取り入れるなど、新しい試みも行なった。一番多いのは花鳥だが人物、山水など写実の妙を極め、宋紫石門下では珍しく襖絵や屏風絵の大作も、妙心寺塔頭など禅寺寺院に多く残されている。
御用絵師は南蘋派
当時の御用絵師は、絵手本を継承する江戸幕府御用の狩野派が席巻していた時代であったが、南蘋派の稲嶺に転機が訪れた。稲嶺58歳の1798(寛政10)年、進取の気性に富んでいた鳥取藩6代藩主の池田治道(はるみち、1768-1798)と7代藩主斉邦(なりくに、1787-1807)父子の命を受け、藩絵師として召し抱えられて京を離れることになったのだ。
それまで鳥取藩の絵師は世襲制で、江戸詰めの沖家と、国元の牧野家の二家を絵師として抱えてきたが、初めて藩絵師の家柄でない人物が登用されることになった。2年後には江戸詰めを命じられ、稲嶺は名を藩主と同じ字を使うのを憚り、廣邦から廣輔と改めた。禄高は米30俵が加増され、1803(享和3)年昵近衆
(じっきんしゅう)に上がり、1807(文化4)年67歳で世を去った。枕元に鯉の絵に優れた高弟・黒田稲皐(とうこう)を呼び、多くの門人のなかで、相当の技量ある者のみ雅号に“稲”字を冠せしめよ、と伝えた。土方家が元来仕えた荒尾家の菩提寺でもある、鳥取市の曹洞宗寺院・景福寺に葬られた。もと武士であり、藩絵師であった稲嶺は、鳥取画壇
の祖と言われ、地元で顕彰されているが、主な活動場所が江戸と京であったために、鳥取の画人としてこれまで広く取り上げられることは多くなかった。
【猛虎図屏風の見方】
(1)タイトル
猛虎図屏風(もうこずびょうぶ)。
(2)モチーフ
三頭の虎、岩、竹。
(3)制作年
18世紀後期の作、1781〜1800年(江戸時代天明・寛政年間)。天明・寛政期に使っていた落款から、土方稲嶺40歳〜50歳頃。江戸にいた時期を前期、京都の時期を中期、鳥取藩の絵師になった時期を後期とすれば、京都時代に描かれた最も勢いのある中期の作品。
(4)サイズ
六曲一双。本間(ほんけん)屏風。右隻左隻共に縦155.0×横360.0cm。
(5)構図
動と静の虎を三頭配置した緊張感のある構図。左隻二扇を余白とし、右隻は左上を余白にした対角線の構図として大胆に金地の空間を取っている。
(6)画材
紙本金地著色。和紙、金箔、墨、胡粉、顔料。
(7)色彩
多色。青、黄、赤、黒、灰、茶、金など。三頭の虎は、白、茶、黄色で分けられている。
(8)技法
虎は、毛描きの無数の線によって全身が描かれている。白い髭の中に薄く着色された髭も見られる
(9)落款
左隻「稲嶺清和元廣邦写」
、右隻「稲嶺写」 の署名。各隻「稲嶺」朱文方印と「廣邦之印」白文方印の印章。
(10)鑑賞のポイント
虎の生動感、迫力が伝わってくる。左隻中央の二頭は互いの前足を噛みつき丸く躍動し、右隻の虎は左隻の二頭を直線的に伏して狙いを定め時を待つ。画面一杯に虎の尾が長く伸び、生命力を感じさせる。毛の密集した虎の顔は、青色が入ったぐるっとした目を中心に、ぐいぐいと見る者を引き込んでいくようだ
。雌雄が判然としないが、父子にも見える左隻の二頭は、足と尻尾を絡ませてユーモアを感じさせる 。金地に色彩豊かな虎、その背景に岩と竹が墨で描かれたことで、緊張した空間に重厚な渋みが出ている。虎睡軒の雅号を持つ稲嶺の華麗な虎図である。
隠逸の自由な世界
山下氏は土方稲嶺の特質について「南蘋派の画家には珍しく稲嶺は大画面を得意とし、多数の屏風のほか、京都、和歌山、兵庫の寺社の襖絵を手掛け、西洋的な陰影を取り入れて迫真的な描写を行なっている。師である宋紫石のリアリティのうえに、応挙ら京都画壇の画風を吸収しつつ、新しい表現を目指した。書を読み、作画にあたっては部屋を閉め切り、香を焚いて臨んだという逸話や、有名な中国の詩人・王維(おうい、701頃-761)の詩「竹里館(ちくりかん)」の一説「深林人不知明月来相照(深林人知らず明月来たりて相照らす)」を遊印としたことからも伺えるように、稲嶺は深い林の奥に月光が差し込んでいるかのような、静寂と幽境の世界を大事にしていた。文人気質であり、作品は稲嶺のダンディズムとも言うべき燻し銀のような奥深い味わいがある」と語った。
土方稲嶺と同時代のリアルな虎描きの名手・岸駒(1749/1756-1838)や、愛嬌のある巨大な虎を描いた長澤芦雪(1754-1799)の虎図とも趣の異なる異国情緒のある《猛虎図屏風》。この猛虎図と同時期に描かれた、5頭の虎の《猛虎図屏風》がアメリカの三大美術館のひとつに数えられるシカゴ美術館にある。
現在、府中市美術館「春の江戸絵画まつり リアル 最大の奇抜」展(2018.3.10〜5.6)と、千葉市美術館「百花繚乱列島─江戸諸国絵師めぐり」(2018.4.6〜5.20)では、土方稲嶺の作品が出品されている。特に府中市美術館では7作品(後期は2作品)が展示される。
さらに今秋(10/6〜11/11)には、100点を超える稲嶺作品が鳥取県立博物館に集う。「鳥取画壇の祖 土方稲嶺─明月来タリテ相照ラス」展が開催され、初公開となるこの《猛虎図屏風》のほか、和歌山興国寺伝来の書院の襖絵22枚が、修復を終えて初公開される。いまから約250年以上前に生まれた文人気質の画家が志していたであろう、隠逸の自由な世界が展開される。鳥取県立博物館は美術分野が独立し、2024年頃に稲嶺とゆかりの深い倉吉市に新しく鳥取県立美術館として生まれ変わる。
山下真由美(やました・まゆみ)
土方稲嶺(ひじかた・とうれい)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献