アート・アーカイブ探求
ジャック=ルイ・ダヴィッド《皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式》──高貴なる古典古代「鈴木杜幾子」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2020年10月15日号
※《皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式》の画像は2020年10月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
壁画のような絵画
フランスのマクロン大統領が日本でフランス祭「La Saison(ラ・セゾン)」を開くことを発表したのは、2018年の9月だった。芸術立国フランスの多様性や創造性が紹介され、日仏友好のイベントが日本全国で開催される予定だ(2021.10〜2022.3)。東京では、オリンピック・パラリンピック「2021」となって開かれ、次回(2024)の開催地パリへの引継ぎ役も担うという。
2021年は、フランスの皇帝ナポレオン一世(1769-1821)の没後200年にもあたる。イタリア半島の西方にあるフランス領コルシカ島に生まれたナポレオン・ボナパルト(帝位に就く前はボナパルト、皇帝としてはナポレオンの呼称が正しい)は、砲兵士官としてフランス革命(1789-99)に参加。クーデターによって統領政府を樹立し、1804年帝位に就いて第一帝政を開いた。周囲の諸国を征討したナポレオンだったが、ナポレオン法典の編纂を始め、近代的な諸制度を浸透させたという功績も大きい。
激動のフランスを勇猛果敢に生きた皇帝ナポレオンを、等身大の絵画として壮大に描いた画家がジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)だった。代表作の《皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式》(以下、《ナポレオンの戴冠式》。ルーヴル美術館蔵)である。《ナポレオンの戴冠式》は縦6メートル、横10メートルほど、壁画のように大きな一枚の絵画だ。皇帝の期待に応えようとした画家の力量が伝わってくる。荘厳な戴冠式のダイナミズムと正装する人々を写実的に描写したリアリズムが同居して、戴冠式に参加しているような臨場感を味わえる。《ナポレオンの戴冠式》が描かれた頃、日本は江戸後期で、人々は葛飾北斎(1760-1849)の浮世絵版画を楽しんでいた。巨大な《ナポレオンの戴冠式》をどのように見たらよいのだろうか。
《ナポレオンの戴冠式》の見方を、美術史家で明治学院大学名誉教授の鈴木杜幾子氏(以下、鈴木氏)に伺いたいと思った。鈴木氏は、西洋近代美術史とジェンダー論が専門で『画家ダヴィッド 革命の表現者から皇帝の首席画家へ』(晶文社、1991)や『画家たちのフランス革命 王党派ヴィジェ=ルブランと革命派ダヴィッド』(KADOKAWA、2020)など、ダヴィッドに関する著書や論文を多数書かれている。コロナ禍のなかであったが、東京・池袋でお会いすることができた。
絵画と社会との関係
終戦の年東京に生まれた鈴木氏は、小中学校から美術も好きだったが、早稲田大学の仏文科へ入学。学生の留学を支援する「サンケイスカラシップ」によって1年間フランスへ留学する機会を得た。その後進学先を美術史に変え、卒業後は東京大学大学院に入り、高階秀爾教授の下で西洋美術史を学ぶ。
当初はイタリア・ルネサンスを研究し、イギリスのウォーバーグ研究所へ留学した。その後、ヨーロッパ美術史にある古典古代(ギリシア・ローマ)の底流に興味を持ち、「新古典主義とフランス革命」という、美術と社会との関係で研究を始めた。「まず歴史学のアナール学派
が取り入れた“政治文化 ”に関心を持った。リベルテ、エガリテ(自由、平等)など、フランス語の抽象名詞は大体が女性形。同じように政治文化では、共和国の理念を女性像で表現する。表現する主体は男性なのに、描かれる客体は女性であることに気がついてジェンダー論とつながった」と鈴木氏は述べた。《ナポレオンの戴冠式》と最初に出会ったのは、フランスに留学していた1967年だった。まだ仏文科の大学生で美術史の知識はなかった。意識的に《ナポレオンの戴冠式》を見たのは、明治学院大学に就職した後の1980年代。ダヴィッドへの関心が徐々に強くなり、長期休暇でパリに滞在していた1989年は、ちょうどフランス革命200周年記念という年だった。
「高階秀爾教授が、《ナポレオンの戴冠式》は縦6.21メートル、横9.79メートルだから約60平米あると言われた。日本のマンションは、その頃50何平米くらいが多く、私が前に住んでいたマンションも50何平米で、《ナポレオンの戴冠式》の複製画を見ながら、この辺にお風呂場があるとか考えた覚えがある。ルーヴル美術館が広いので、実際に見るとそんなに大きくは感じない。描かれている等身大の一人ひとりの表情が異なり緊張感もある。近くで見ると綿密に描かれていないのに、離れて見ると明確にわかる。粗く描いているが、色価
や光沢、ハイライトの入れ方などが正確だから、リアリティがある。この絵が描かれた当時フランスは、世界美術の頂点にあって、その指導的立場にいたダヴィッドの技術は素晴らしいと思った。ひとりの人間の営為が、最高に優れた状態でここにある」と鈴木氏は語る。歴史画家への道
ジャック=ルイ・ダヴィッドは、1748年パリの市民の家に生まれた。父ルイ=モーリス・ダヴィッドは鉄商人だったが、より高い社会的地位の獲得を図り、フランス北西部にある現・カルヴァドス県の収税吏の役職を得た。しかし、ダヴィッドは生後すぐに市内の修道院へ養育に出され、ダヴィッドが9歳のとき、気性が激しい父は決闘によって30歳で亡くなった。母マリ=ジュヌヴィエーヴの実家は石工の親方の家柄で、建築家や大工の親方が多かった。父がいなくなると、ダヴィッドは母の兄弟の建築家フランソワ・ビュロンに引き取られ、母はノルマンディに隠棲してしまう。デッサンに優れたダヴィッドを建築家にしようと、ビュロンは名門校コレージュ・デ・カトル=ナシオンに入学させた。
また、15歳頃にはビュロン家の遠縁にあたるルイ15世の首席画家で、ロココ時代を代表するフランソワ・ブーシェ(1703-70)へ弟子入りしようとしたが、高齢であったブーシェから断られてしまう。1766年、17歳のダヴィッドは王立絵画彫刻アカデミーに入り、それまでの華美で装飾的な様式から簡潔で硬質な様式へと先鞭を切ったジョゼフ=マリー・ヴィアン(1716-1809)の生徒になり、歴史画
家への第一歩を歩み出した。歴史画は、画面がある程度の大きさであることが推奨され、主題となる物語は、神々中心のギリシア・ローマから人間中心のルネサンスに継承され、理想化された身体をもつ人物群によって構成することが条件であった。だが、父親の激しい気性を受け継いだのか、学生仲間との決闘で左頬を切り容貌が変わってしまい、発話を不自由にしてしまった。若い画家の登竜門で、ローマへの留学を目指す「ローマ賞」にダヴィッドは、1770、71、72、73年と4回失敗し、1774年にようやく《アンティオコスとストラトニケ》で受賞する。1772年には悲観して自殺まで企てたが、この苦い体験がダヴィッドを反王立絵画彫刻アカデミー、さらに反王政へと導くことになる。
留学によってカラヴァッジオ(1571-1610)やプッサン(1594-1665)、古代の美術作品などを目にしたダヴィッドは、新たな美意識に衝撃を受け1781年ローマから帰国した。サロンの美術展に8点以上の作品を出品し、古代の歴史主題を描いた《施しを受けるベリサリウス》が王立絵画彫刻アカデミーの準会員に認められ、サロンの出品資格を得ることができた。古代の悲しくて感動的なテーマを、ダヴィッドは初めて調和の取れた静かな表現で描き、独自の歴史画の基本方法を見出した。そして王家の注文も受ける建築業者の娘マルグリート=シャルロット・ペクールと結婚し、弟子も増え、1783年には《アンドロマケの悲嘆》によって、王立アカデミーの正会員となった。1785年36歳、ダヴィッドは妻とローマに滞在して《ホラティウス兄弟の誓い》(年記は1784年)を斬新な構図と大胆な表現で描き、歴史画家としての道を拓いていった。
画家と政治家
ダヴィッドほど政治に関与した画家はいないだろう。国民議会から1789年のフランス革命が起きるきっかけのひとつとなった「ジュ・ド・ポームの誓い」(憲法制定の誓い)を記念する絵の依頼を受け、ダヴィッドは激変する社会の革命画家になっていった。国民公会議員になったことを皮切りに、国民教育委員会委員、ジャコバン・クラブ議長、保安委員会委員、国民公会議長といった役職を務めた。
《ホラティウス兄弟の誓い》(1784)は若い三兄弟が父に向かって愛国の誓いを立てるシーンを描き、《ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち》(1789)では共和政を危うくした息子たちに処刑を命じ、息子たちの遺体が運ばれてくる場面を描いたことから、フランス革命の政治史に関わる画家になっていった。
絶対王政から、民衆による自由で平等な社会の確立を目指していたジャコバン派のロベスピエール(1758-94)と友人だったダヴィッドは、改革派としてルイ16世の処刑に賛成票を投じた。しかし、ロベスピエールは反対者を殺戮する恐怖政治を行ない糾弾され、フランス王ルイ16世の翌年1794年に同じギロチンで処刑された。革命は沈静化し、総裁政府(5人の総裁からなる政治形態)の時代になり、ダヴィッドは逮捕され、数カ月間リュクサンブール宮殿に幽閉されたのち釈放となった。
ダヴィッドは、1797年にパリで初めてナポレオン・ボナパルトと出会い、戦績を記録させるためにイタリア遠征に誘われた。だが50歳を目前としていたダヴィッドはそれを断り、将軍の肖像画制作を申し出た。1799年ボナパルト将軍のクーデターで、総裁政府は倒れた。ダヴィッドは二角帽子をかぶり、白馬にまたがる《サン・ベルナール峠を越えるボナパルト》(1801)を描き上げる。1804年5月18日に第一帝政が成立するまで執政政府(3名の執政が政権を分有する制度)となったが、実質的権力はボナパルト執政が握っていた。中央集権化が進み、ナポレオン法典やレジオンドヌール勲章の制定など、近代フランスの基礎となる諸制度が確立された。
革命期の新古典主義
厳冬の石造りの大聖堂の中で3時間を要したという1804年12月2日の戴冠式から間もない18日に、ナポレオンはダヴィッドを皇帝の首席画家に任命した。ダヴィッドはフランス皇位の即位という歴史的事件を《ナポレオンの戴冠式》(1807)と《鷲の軍旗の授与》(1810)に描き上げ、ナポレオンが求める皇帝の権威と戴冠式の現実感を永遠のものとした。
戴冠式に出席して式典の様子をスケッチしていたダヴィッドと、絵画自体の視点は実は逆であるが、ダヴィッドの経験をもってすれば、大聖堂の情景を再構成することは困難ではなかったはずである。それでも制作は順調には運ばず、原因のひとつに支払いの問題があった。口約束で一点につき10万フランのところ、当局は4万フランしか認めなかったという。
ダヴィッドの《サビニの女たち》(1799)と《テルモピュライのレオニダス》(1814)は、前者が古代ローマ史を主題にギリシア風に人物を裸体として表わし、後者がギリシア主題をギリシア美学に基づいて描いた正統的歴史画である。新古典主義
の典型的な作品と考えられ、19世紀アカデミズムの出発点となって、次の時代のロマン主義 への道を拓いた。「その意味でダヴィドは近代絵画の祖であった」と鈴木氏は言う。その背景には、火山の噴火によって西暦1世紀後半に埋没したローマ時代の町、ヘルクラネウムやポンペイの発掘開始をきっかけとして、ヨーロッパ中に広まっていた古代愛好があった。1755年にドイツの理論家ヨーハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(1717-68)が刊行した『ギリシア芸術模倣論』が理論的な支柱を与えた。ギリシア彫刻の定義として「高貴な単純と静かな偉大」の語が新古典主義の標語となり、古典古代美術の模倣や借用が体系的に行なわれるようになっていく。
レプリカ《ナポレオンの戴冠式》
ナポレオンの1812年ロシア遠征の失敗を機に帝国は傾いていったが、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンの連合軍はフランス国境に集結し、現在のベルギー領ワーテルローで会戦、ナポレオンは破れ、孤島セント・ヘレナに流され1821年に没した。再びルイ18世が王位に返り咲き、復古王政が成立。ダヴィッドは失望し、進入が予測されたプロイセン軍から作品を守るため《ナポレオンの戴冠式》と《鷲の軍旗の授与》を断裁して地方に送り、弟子のグロにアトリエの管理を託して、1816年ブリュッセルに亡命した。
ブリュッセルでは、当代一の画家として尊敬され、アカデミーの会員としても迎えられて、弟子も取り肖像画の注文もあった。祖国からの帰国の要請や弟子たちの懇願にも応じず、亡命生活を続けた。
《ナポレオンの戴冠式》のほぼ原寸大のレプリカ(原作者による精密な複写)を1808年にアメリカの実業家グループから受注していたため、ダヴィッドは原作の制作に関わった弟子ルージェを呼び寄せて、1822年にレプリカを完成させた。戴冠式の様子をアメリカ人たちに見せるもので、ロンドン、ニューヨーク、ボストンなどで興行され、現在はヴェルサイユ宮国立美術館に所蔵されている。
ダヴィッドを支えた妻が、病気治療のためにパリへ行った間に、好きな芝居を観に行っていたダヴィドは風邪をひいたことが引き金となり、1825年12月29日ブリュッセルで息を引き取った。享年77歳。ヨーロッパ画壇の最高峰に君臨した歴史画家ダヴィッドは、長らく祖国フランスへの帰還を待って教会に安置されていた。しかし、王政フランスはダヴィッドを迎え入れず、遺骸は1882年ベルギーのブリュッセルにあるエーヴェラ墓地に埋葬された。
【皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式の見方】
(1)タイトル
皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式(こうていなぽれおんいっせいとこうひじょぜふぃーぬのたいかんしき)。英題:The Consecration of the Emperor Napoleon and the Coronation of Empress Joséphine on December 2, 1804
(2)モチーフ
ノートル=ダム大聖堂、皇帝ナポレオン一世、皇妃ジョゼフィーヌ、ローマ教皇ピウス七世、皇太后(母)、皇帝の血縁者、聖職者、政界の重鎮、軍人、ダヴィッド、ダヴィッドの妻と弟子など。
(3)制作年
1807年。ダヴィッド60歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。キャンバスは業者に注文してつなぎ合わせた。
(5)サイズ
縦621×横979cm。
(6)構図
大聖堂の空間構成を、遠近法によってオペラ座の舞台装置を描く専門家ドゴッティが担い、鑑賞者の視線が皇帝からひざまずく皇妃へ、皇妃の背後のボナパルト家の人々へ、また教皇から周囲の聖職者たちへ、そして祭壇を経て画面の手前に背を見せて並んでいる政界の重鎮たちへと導かれる。緊密な集中性を欠いているように見える流動的な構成は、画面の外の現実世界と、描かれた出来事とを柔軟に結びつけている。この開かれた空間表現はロマン主義に続くものである。
(7)色彩
多色。白貂(しろてん)の毛皮、白いサテン、真紅のビロード、金糸の刺繍に見られる白、赤、金は中世以来決まっている王様の正装の色。
(8)技法
実際の大聖堂の空間に対し左右上下を縮めた縮図の下絵を描き、巨大な画布に引き伸ばす。筆跡を残さないよう写実的に、人物から描き始めた。古代風の柏と月桂樹の冠をかぶった皇帝や、ギリシア風に胸の下で締まった緩やかなドレープの帝政風ドレスで正装した女性など、主要な人物のプロポーションは大きく、人間が目立つように描かれた。衣装や装飾は質感まで感じられる。左上から壁面に映る影は、画面に広さと奥行感を出している。また戴冠式に参加していなかったナポレオンの母(皇太后)や、病気のために欠席したカプララ枢機卿を教皇のかたわらに立たせるなど、芸術上または政治上の要請による変更を行ない、画面に緊張感と秩序を与えている。顔の部分などはダヴィッドが描き、助手のジョルジュ・ルージェのほか、2、3人で制作したという。
(9)サイン
画面右下に黒で「L.David.f.」と署名。
(10)鑑賞のポイント
1804年12月2日の皇帝ナポレオン一世の戴冠式の同月18日に、ナポレオンは画家ダヴィッドを首席画家に任命。後世に君主の権威や即位に関わるさまざまな儀式を伝えるため大画面に描かせた。17世紀以降のヨーロッパで優位を誇っていたフランス文化の栄光と、古代ローマの思い出を込めて帝国誕生の叙事詩のように4点の連作《聖別式》(=《ナポレオンの戴冠式》)、《即位式》、《鷲の軍旗の授与》、《皇帝の市庁舎到着》を計画。完成したのは《ナポレオンの戴冠式》と《鷲の軍旗の授与》だった。歴史的な一場面のために、形式性と記録性を重んじながら、自由さと忠実な細部描写を基本方針として描かれている。式典の公式記録とナポレオンの称揚を意図しながらも、200人ほどの人物のうち、100人ほどは相貌をそっくりに再現している、とダヴィッドが述べたという。優れた肖像画の集大成の趣きを呈し、また参列者の心理状態までが描き出されている
。各人の個性が活きている一方で、個性が秩序をもって調和し、溶け込んでいる壮麗さが見られる。ナポレオンは「これは絵ではない。画面の中に歩いて入れるようだ」と述べ、首席画家に会釈して敬意を表わしたという。史上最初のフランス人皇帝誕生の視覚的記録であり、真実と偉大さを探究したダヴィッドの代表作。安心感を与える構成
《ナポレオンの戴冠式》の素描の段階ではナポレオンは、帝冠を自分自身に戴冠していた。変更されたのは油彩画の完成直前だったという。ダヴィッドは、ルーベンス(1577-1640)の24枚の連作のひとつ《マリー・ド・メディシスの戴冠》(1622-25、ルーヴル美術館蔵)を参考にして、ナポレオンのポーズを変更したのかもしれない、と鈴木氏。
助手ルージェの証言によれば、肖像画家であった弟子のフランソワ・ジェラールが、「皇帝が自らに戴冠する姿は皇帝のひとり芝居の不自然さを含んだものになるだろう」と忠告したことによるという。皇帝が皇妃に戴冠する場面ならば、皇帝の優位さが感じられる。また中世からの戴冠図の伝統的表現では、立った人物がひざまずいた人物に冠を与える構図が一般的で、観衆に受け入れられやすい、と鈴木氏は述べている。
《ナポレオンの戴冠式》について鈴木氏は「ナポレオン帝国の創設が論議されるようになったとき、帝国の原型として選ばれたのは、シャルルマーニュ(カール大帝。742-814)の築いた西ローマ帝国だった。ナポレオンもシャルルマーニュもたびたびイタリア遠征を行ない、半島を支配下に置いたイメージ上の類似があった。シャルルマーニュが、ローマ教皇によって帝冠と皇帝の称号を与えられたこと、つまりキリスト教の裏付けをもった古代的大帝国を、西ヨーロッパに築いた人物であったことが、その根本的な理由だったであろう。西ローマ帝国は、フランス王国の前身とみなされていた。そのことは《ナポレオンの戴冠式》の視覚的演出の面にもはっきりと表われている。ローマ教皇ピウス七世は、手を最初ひざの上に置いていたが、ナポレオンが何もしていないのは良くないと言って、祝福の身振りに描き変えられた。また教皇は『パーパ』と呼ばれるし、皇太后になったナポレオンの母、つまり『マンマ』も描かれている。事実ではないが、父と母に見守られながら栄光の座に就く息子という、観衆の深層心理に安心感を与える構成になっている」と語った。
鈴木杜幾子(すずき・ときこ)
ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献