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アメデオ・モディリアーニ《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》──心のフォルム「島本英明」

影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)

2021年05月15日号

※《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》の画像は2021年5月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。

アンバランスな魅力

昨年(2020)、没後100年を迎えたイタリア人画家アメデオ・モディリアーニの絵画は、2018年にはサザビーズで《左側に横たわる裸婦》(1917)が1億5720万ドル(約172億円)の値が付き、2015年にはクリスティーズで《赤いヌード(腕を広げて横たわる裸婦)》(1917)が1億7040万ドル(約186億円)で落札された。サザビーズではオークション史上最高額となり話題になった。歴代高額取引絵画ランキング・トップ15に、この2作品が入る人気ぶりだ(2021年2月現在)。

いずれもモディリアーニの横たわる裸婦画であるが、首の長いモディリアーニ様式ともいえる肖像画も興味深い。椅子に座っている女性像のひとつ《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》(ニューヨーク、グッゲンハイム美術館蔵)は、デフォルメされた身体と瞳のないブルーの目が印象的だ。初めて見たときは異様な姿に、アシカを思い浮かべたが、抑制された色彩と薄い絵具のタッチで生み出されたリズム、垂直線と曲線のバランスなど、考慮された構成に東洲斎写楽(生没年不詳)の大首絵《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》(東京国立博物館蔵)に通じるものを感じてきた。人間の生きた姿を凝縮したようなアンバランスな魅力。どのように見ればよいのだろう。

アーティゾン美術館の学芸員、島本英明氏(以下、島本氏)に《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》の見方を伺いたいと思った。島本氏は19世紀から20世紀のフランス美術を専門とし、2014年に展覧会「モディリアーニを探して──アヴァンギャルドから古典主義へ」(ポーラ美術館)を企画担当、今年に入ってからは著書『もっと知りたい モディリアーニ 生涯と作品』(東京美術、2021)を出版された。3度目の緊急事態宣言が出る直前に東京・京橋にあるアーティゾン美術館でお会いした。


島本英明氏


トランスナショナルな展覧会

昨年ブリヂストン美術館から生まれ変わった新しい美術館は、ウェブ予約チケットや、気流感や温湿度ムラを生じさせない新しい置換空調システムなど、人を取り巻く環境に配慮した快適な鑑賞空間を備えていた。

島本氏は、1979年香川県高松市に生まれた。四人家族で、子供の頃は兄のあとについて遊んだり、江戸川乱歩(1894-1965)や小学生向けの文学などを読むために小学校の図書室をよく利用していたという。大阪大学の文学部人文学科へ入学し、2007年には同大学大学院文学研究科の博士後期課程を単位取得退学した。古典から現代の芸術まで幅広く研究できる研究室の環境のなかで、自然と美術への関心が深まっていったそうだ。

「例えば哲学者モーリス・メルロ=ポンティ(1908-61)など、哲学者や文学者の目を通して作品を見るアプローチが好きだった。そうかと言って純粋な哲学の方に行くわけではなく、対象は美術であるけれども美術史のアプローチで作品を見ていくよりも、哲学的な扱い方の方が学生の頃はしっくりきていた」と島本氏。

2007年にポーラ美術館の学芸員となり、8年間勤めた後に、2016年パリ第10大学の大学院生として1年半ほどの留学を経て、2017年より石橋財団ブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)で学芸員として勤務し、現在に至っている。

フランス美術については、仕事のなかで身に付けていったという。将来は「世界文学」という言葉のように、「世界美術」という視座をもって、国境を超えた多くの地域の美術をパラレルにとらえるトランスナショナルな視点による展覧会を開催してみたいと語った。東洋と西洋の作品を所蔵しているアーティゾン美術館ならではの新境地が開かれていく。

イタリアからパリへ

アメデオ・クレメンテ・モディリアーニは1884年、リグリア海に面したイタリア中部のトスカーナ地方にある港町リヴォルノに、父フラミニオと母エウジェーニア・ガルシンの四人兄弟の末っ子として生まれた。父母ともにユダヤ人で、モディリアーニ家は木材・石炭・炭鉱を扱う商売をしており、母方は銀行家であったが、モディリアーニが生まれた年に一家は破産した。

幼少期より病弱だったモディリアーニは母方の影響を多く受けたようで、文学や哲学に親しんで過ごしていた。11歳で胸膜炎に14歳で腸チフスを患うが、14歳には学校に通うかたわら、地元リヴォルノの風景画家グリエルモ・ミケーリ(1866-1926)に素描を学んでいる。15歳になると学業を諦め画家になることを決心。

1901年、17歳になったモディリアーニは、母とともに療養のためナポリ、カプリ、ローマ、ヴェネツィアなどを巡り、画廊や美術館、教会を見て回る。トスカーナの中心都市であるフィレンツェの裸体美術自由学校に入り、ミケーリの師にあたるマッキア派★1を代表する画家ジョヴァンニ・ファットーリ(1825-1908)に学んだ。1902年大理石の町ピエトラサンタの採石場で石彫に挑戦し、彫刻家になる志を抱く。

1903年、国際都市の自由闊達な雰囲気のヴェネツィアに転居する。ヴェネツィア美術学院の裸体美術自由学校に入学し、ヴェネツィア派★2やシエナ派★3を学ぶ。ヴェネツィア・ビエンナーレを体験したモディリアーニは、パリでの活動を考え始めるようになる。


★1──1850年から60年頃にかけてフィレンツェを中心とするトスカーナ地方で形成された美術運動。粗い絵具のタッチを意味するマッキア(色斑)という用語からこの名が生まれた。バルビゾン派の影響を受け、遠近法的秩序をもった空間を明暗で表現しようとした。「イタリアの印象派」と呼ばれることもある。ジョヴァンニ・ファットーリやテレマコ・シニョリーニ、シルヴェストロ・レーガなど。
https://artscape.jp/artword/index.php/マッキアイオーリ

★2──東方貿易の港町ヴェネツィアに興った美術潮流。とくにルネサンス期の絵画の活動で人物と風景、光と空間の調和を特徴とする。同時代のフィレンツェ派に比べ、色彩重視、世俗美、感覚的な傾向がある。ジョヴァンニ・ベリーニやジョルジョーネ、ティツィアーノらがいる。

★3──トスカーナ地方シエナを中心に活動した画家群。優美さや装飾性と人間味がよく調和した繊細な画風が特色として挙げられる。奇蹟を主な題材とし、時空は超現実的に歪曲し、神秘的で彩色も非現実的である。ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャやシモーネ・マルティーニ、ピエトロとアンブロジオのロレンツェッティ兄弟など。

詩人の想像力の超越性

1906年22歳を迎える年、モディリアーニは、パリへ渡りモンマルトルを拠点とし、画塾アカデミー・コラロッシに登録して人体素描を継続しながら油彩画を描いた。この頃パブロ・ピカソ(1881-1973)や詩人・美術批評家ギョーム・アポリネール(1880-1918)、フォーヴィスム★4を先導したフランスの画家アンドレ・ドラン(1880-1954)、フランスの画家モーリス・ユトリロ(1883-1955)、メキシコの画家ディエゴ・リベラ(1886-1957)らと出会い、美術の最前線を前進させる前衛活動に参加していく。

パリ万国博覧会(1900)をクライマックスに第一次世界大戦(1914-18)勃発までの時期、パリは美術史上の旬を迎えていた。古代美術や民族芸術の集積地であったと同時に、さまざまな国籍の芸術家たちが行き交う、芸術をめぐるコスモポリタニズムを体現する都市であった。モディリアーニは在野の公募展サロン・ドートンヌを主戦場として、1907年に初出品した。サロンでは前年に没したポール・セザンヌ(1839-1906)の回顧展が開かれ、モディリアーニはセザンヌ作品を生涯にわたり心に残すことになる。

また、医師のポール・アレクサンドルとは出会って以来、作品を購入してもらいながら支援を受ける。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)やポール・ゴーガン(1848-1903)にも魅了される。

エコール・ド・パリの画家とも呼ばれるモディリアーニは、1909年モンパルナスに居を移し、ルーマニア出身の彫刻家コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)と親交を結び、彫刻の手ほどきを受ける。ギリシアのカリアティード(人像柱)やアフリカの原始美術の影響を受けたプリミティズムやキュビスムを背景に、フォルムの純化を追求し、長い首と単純化された頭部を持つ彫刻作品を制作した。

1910年第26回サロン・デ・ザンデパンダンに《チェロ奏者》《リヴォルノの乞食》を含む6点を出品。1911年から1913年には絵画制作を控え、彫刻に専念するようになる。この頃、彫刻家オシップ・ザッキン(1890-1967)、モイーズ・キスリング(1891-1953)、藤田嗣治(1886-1968)、シャイム・スーティン(1893-1943)と交流する。「交友録には、マックス・ジャコブ(1876-1944)をはじめ、レイモン・ラディゲ(1903-23)、ブレーズ・サンドラール(1887-1961)といった詩人が多く、モディリアーニは詩人の想像力の超越性に強く惹かれていた節がある」と、島本氏は述べている。


★4──20世紀初めの絵画運動。強烈な色彩、大振りで粗い塗りによって形態を単純化し、平面的な画面に特徴がある。野獣派。アンリ・マティス、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンクなど。
https://artscape.jp/artword/index.php/フォーヴィスム

伝統と前衛、絵画と彫刻の間

モディリアーニは20数点の彫刻作品を制作したが、石材の入手が困難になったことや体力的な問題から、1914年彫刻を辞める決心をし、主に肖像画と裸婦画を描く画家に戻る。新進の画商ポール・ギヨームが、モディリアーニの作品を扱い始め、モンマルトルにアトリエを提供する。ジャーナリストで詩人のイギリス人女性ベアトリス・ヘイスティングス(1879-1943)と会い、愛憎相半ばする2年間を共に過ごす。1914年8月第一次世界大戦が勃発。モディリアーニは兵役で志願するも健康上の理由から不適格者になる。

1916年、詩人レオポルド・ズボロフスキと出会い、ギヨームに次ぐ画商になってもらう。この年の末頃、アカデミー・コラロッシの画学生であった18歳のジャンヌ・エビュテルヌと出会う。ジャンヌの父は大きな化粧品店の主任会計士で、ジャンヌには画家の兄がいた。中産階級の家庭で育った聡明な女性のジャンヌは画才もあった。

33歳のモディリアーニは1917年、ジャンヌの両親の猛烈な反対を受けながら、一緒に暮らし始める。12月にはズボロフスキの企画による裸婦を主題にした初めての個展「モディリアーニの絵画と素描」をパリのセーヌ河右岸にあるベルト・ヴェイユ画廊で開催。ショーウインドーに飾られた裸婦画に人だかりができ、警察から猥褻罪で没収すると迫られた。作品を撤収したが、売れたのは素描2点のみだった。

パリがドイツ軍の長距離砲の攻撃にさらされるようになると、ズボロフスキは自らの家族とともに体調の悪いモディリアーニ、妊娠しているジャンヌとその母を連れて、1918年南仏ニースへ避難した。同名の娘ジャンヌが誕生。1919年にはパリに戻り、二人目の子供を妊娠したジャンヌ・エビュテルヌと結婚することを文書で誓約するが、イタリアとの手続きが複雑なためか入籍はできなかった。

ロンドンのマンサード画廊で開催された「フランス美術 1914-1919」展に出品し、サロン・ドートンヌに4点出品するなど、画家としての評価は確かなものになりつつあった。特別な関心を示すロジェ・デュティユルなどのコレクターも現われ始めていた。しかし、モディリアーニの身体は衰え切っていた。1920年1月24日、結核性髄膜炎で亡くなってしまう。享年35歳。その2日後、妊娠8カ月のジャンヌは、両親のアパルトマン6階の窓から幼い娘を残して投身自殺した。21歳だった。共にパリ東部にあるペール・ラシェーズ墓地に眠る。

引き伸ばされた長い首やうつろな目を特徴とし、官能的で倦怠感のある肖像画を描いたモディリアーニは、古典美術を基底に伝統と前衛、絵画と彫刻の間に屹立していた。アルコールと薬物に依存し、退廃的な生活を送り多くの伝説を生んだが、恵まれた容姿と気品ある振る舞いで周囲からは慕われた。痛切な終幕を迎えたが、ジャンヌ・エビュテルヌの肖像は20点以上残されている。


【黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌの見方】

(1)タイトル

黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ(きいろのせーたーをきたじゃんぬ・えびゅてるぬ)。英題:Jeanne Hébuterne with Yellow Sweater

(2)モチーフ

ジャンヌ・エビュテルヌ。モディリアーニの妻で、二人目の子を懐妊。

(3)制作年

1918〜19年。モディリアーニ33〜34歳。

(4)画材

キャンバス、油彩。

(5)サイズ

縦100.0×横64.7cm。キャンバスのM(Marine:海景)40号(フランスサイズ)を縦に用いている。

(6)構図

室内の角を背景に、椅子に腰かけた女性を4分の3正面からとらえ、肩幅は短く、胴体から腰にかけてピラミッド状に広がるように安定感をもたせた。傾いた楕円形の顔と長い首によってつくられるS字曲線という様式化された女性像を画面の中心に天に伸びるように配置し、メランコリックな雰囲気のなかにも気品と優雅さを秘めた空間を構成した。

(7)色彩

黄、青、灰、茶、水色、赤、紫、橙色、黒など。壁は一見グレーの単色に見えるが、薄い青味や赤味が混じり複雑な色となっている。

(8)技法

細い輪郭線によって丁寧に描かれた細長い頭部のほかは、薄塗りの絵具のリズミカルな筆跡が見える。色面による構成を強め、進出色の黄色(暖色系)と後退色の灰色(寒色系)を組み合わせて遠近感を出している。また線は直線と曲線が意識的に用いられ、細い太い、短い長い、弱い強い、遅い速いといった多様な線質が見られる。

(9)サイン

画面右上に「modigliani」と黒で署名。

(10)鑑賞のポイント

後ろにやや反らした細長い頭部や首が印象的な肖像は、全体にわたって曲線に貫かれている。首から丸い肩を経て背中を通り腰にかけて、緩やかなS字形を描く。その身体をねじったような立体的な造形は、1918年以降のモディリアーニ作品に顕著となるが、新たな美の規範の構築を目指した16世紀イタリアのマニエリスム★5の絵画、とりわけパルミジャニーノ(本名ジローラモ・フランチェスコ・マリア・マッツォーラ。1503-40)の《長い首の聖母》(1534-40、ウフィツィ美術館蔵)に既に見られると指摘されている。モディリアーニは、細部を省略し、シンプルな色面による構成の趣きを強めた。ジャンヌの衣装の黄色と青の対比が目を惹く一方、背後の壁を彩る薄いブルーグレーが、静謐な雰囲気で妻を包む。アフリカの仮面のように瞳孔はなく、永遠を見通したようなアーモンド型のブルーの目。ジャンヌに無垢な魂を感じた画家の限りない慈愛の表現とも言われる。モディリアーニが亡くなる前年に描かれた素朴でありながら強度に満ちた抽象的な具象造形である。人間が惻惻(そくそく)として生きた様が胸を打つモディリアーニの代表作。


★5──イタリア語の「マニエラ(手法)」から派生した語。16世紀イタリアで支配的だった芸術様式を指す。盛期ルネサンス(1490年代-1527)で重視されていた古典的調和が放棄され、非現実的な優美さ、観念性が追求された。
https://artscape.jp/artword/index.php/マニエリスム

糸で編まれた身体

島本氏は、モディリアーニの作品がほかの画家の絵に似ている点があるのかどうかを考えたとき、パルミジャニーノの造形と共通項はあるが、人物主題の作品としては性格を異にするという。モディリアーニは、室内の人物を描いてはいるが、具体的に何かをしているところの人物像でも、かしこまった肖像画でもない。室内の人物像で唯一近いと思えるのは、《赤い肘掛け椅子のセザンヌ夫人》(1877、ボストン美術館蔵)や《赤いチョッキを着た少年》(1888-90、ワシントンD.C.、ナショナル・ギャラリー蔵)に代表されるセザンヌ一連の作品ではないかという。

《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》は、「ブルーグレーの大きな色面を背景に箪笥のようなものを加えた穏やかな肖像画である。ジャンヌの人体像は、糸が編まれているようなイメージ。ジャンヌが手を交差させているところからも、曲線はひとつだけでなく、複数の糸が縒り合わさって身体を形づくっているような感じがある。細長い楕円形の頭部から旋回しつつ安定した下半身へ動感をはらみながら降下していく、豊かな人体表現である。14世紀シエナ派の彫刻家ティーノ・ディ・カマイーノ(1285頃-1337頃)の《司教アントニオ・デル・オルソ記念像》は、古拙ともいえる味わい深い彫刻で、簡素な形体を取りながらも、かしげた頭部や手の表現などのディテールに動感を宿している[図1]。それは《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》に通じるものがある。モディリアーニは、クラシカルな方に軸足があり、求めているものは抽象度が高い」と島本氏は語った。

《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》の黄色のセーターは、大原美術館所蔵の《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》と同じ色のセーターであり、現実に即している。この黄色と対比するように、ほかの色彩を決めていったと思われ、青い目は、ジャンヌの瞳がブルーだったためと言われているが、実際とは異なる色で描く場合もあるので真実はわからない。また、瞳を描かないのはアフリカやオセアニアのプリミティブ美術の影響があり、キュビスムの早い時期にピカソやアンドレ・ドランなどの作品にも見られる。

島本氏は「モディリアーニは彫刻を制作しているときに頭部の研究をしていた。自分のなかで理想となるフォルムがあり、モデルをその理想に寄せていく。その過程で頭部も首も胴体も伸びていった。人物の衣装や室内の調度など、フォルムの外の付属物は排し、人間をできるだけむき出しにしようとディテールにこだわり、フォルムはシンプルにした。モデルの存在を借りて、フォルムになっていく。描けば描くほどジャンヌの存在が透明になり、フォルムが浮き出てくる。情緒的な面はあまりうかがえず、人間としては遠くに感じる。フォルムで何かを表わすというより、フォルムそのものを描いている。それはアーティゾン美術館所蔵の《若い農夫》でも確認できる[図2]」と語った。第一次世界大戦という軍靴の響く波乱の時代に、モディリアーニは心のフォルムを純粋に描いた。

来年(2022)オープンする大阪中之島美術館では、開館記念特別展として「モディリアーニ展──愛と創作に捧げた35年」(2022.4.9-7.18)が予定されている。新しい美術館でエコール・ド・パリの動向とモディリアーニ芸術の軌跡をたどる。


図1 ティーノ・ディ・カマイーノ《司教アントニオ・デル・オルソ記念像》
1321年、大理石、高さ132cm、フィレンツェ・ドゥオーモ付属美術館蔵)
(〈Smf, tomba antonio dell'orso by tino di camaino〉By I, Sailko, CC BY 2.5,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6831643


図2 アメデオ・モディリアーニ《若い農夫》
1918年頃、キャンバス・油彩、73.4×50.3cm、石橋財団アーティゾン美術館蔵
南仏で出会った農夫の青年を描いたアーティゾン美術館所蔵の《若い農夫》は、《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》と同時期に描かれたと考えられる作品。上半身を収めた肖像は、緩やかなカーブに沿って構成されており、簡素な佇まいながら、威厳と優雅さを備えている。背景を簡略化し、色彩の数も限定したことにより、とりわけ均整のとれた頭部の精緻な描写を際立たせている。




島本英明(しまもと・ひであき)

石橋財団アーティゾン美術館学芸員。1979年香川県高松市生まれ。2002年大阪大学文学部人文学科美学芸術学専修卒業、2004年同大学大学院文学研究科文化表現論専攻修了、2007年同研究科文化表現論専攻博士後期課程単位取得退学。2007~15年ポーラ美術館学芸員、2016年パリ第10大学大学院へ留学、2017年より石橋財団ブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)学芸員。専門:19~20世紀のフランス美術。主な展覧会担当:「印象派の行方──モネ、ルノワールと次世代の画家たち」(ポーラ美術館、2012)、「モディリアーニを探して──アヴァンギャルドから古典主義へ」(ポーラ美術館、2014)、「新収蔵作品特別展示:パウル・クレー」(アーティゾン美術館、2020)。主な著書:『もっと知りたい ボナール 生涯と作品』(共著、東京美術、2018)、『もっと知りたい モディリアーニ 生涯と作品』(東京美術、2021)など。

アメデオ・モディリアーニ(Amedeo Modigliani)

イタリアの画家。1884〜1920年。イタリア・リグリア海に面したトスカーナ地方のリヴォルノで、父フラミニオと母エウジェーニアの四人兄弟の三男、末っ子として生まれる。11歳で胸膜炎、14歳で腸チフスを患うが、地元の画家グリエルモ・ミケーリに素描を学び始める。1901年療養のため母とイタリア各地を巡り、古典美術に接する。母方の叔父ガルサンの援助により、フィレンツェで裸体美術自由学校に入り、画家ファットーリの指導を受ける。1903年ヴェネツィアの裸体美術自由学校に入学。1906年パリのモンマルトルに転居し、画塾アカデミー・コラロッシで学ぶ。1907年サロン・ドートンヌに初出品する。1908年サロン・デ・ザンデパンダンに出品。1909年にはモンパルナスへ移り、ルーマニアの彫刻家ブランクーシから石彫のアドバイスを受ける。1910年困窮のなか、サロン・デ・ザンデパンダンに参加し、翌年は6点の彫刻を出品。1912年サロン・ドートンヌに7点の彫刻を出品。1914年第一次世界大戦が勃発。画商ポール・ギヨームがモディリアーニ作品を扱い始める。ロンドンのホワイトチャペル画廊「20世紀美術」展に出品。1916年、後に画商となるポーランドの詩人レオポルド・ズボロフスキと知り合い、裸婦を描き始める。ジャンヌ・エビュテルヌと出会う。1917年画商となったズボロフスキと契約を結ぶ。パリのベルト・ヴェイユ画廊での初個展「モディリアーニの絵画と素描」展を開催したが、裸体画が警察から撤収を求められる。1918年ズボロフスキ一家と疎開と療養のため、妊娠中のジャンヌと母と一緒に南仏ニースへ移る。長女ジャンヌ誕生。ポール・ギヨームの画廊「今日の画家たち」展に出品。1919年ロンドンのマンサード画廊「フランス美術 1914-1919」展に出品。サロン・ドートンヌに絵画4点を出品。1920年1月22日意識不明でラ・シャリテ病院に搬送され、24日結核性髄膜炎で死去。享年35歳。妊娠していた妻ジャンヌは2日後、実家の6階窓から投身。享年21歳。パリ・ペール=ラシェーズ墓地に眠る。主な作品:《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》《赤いヌード(横たわる裸婦)》《髪をほどいた横たわる裸婦》《大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ》《おさげ髪の少女》など。

デジタル画像のメタデータ

タイトル:黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:アメデオ・モディリアーニ《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》1918-19年、キャンバス・油彩、100.0×64.7cm、ニューヨーク,グッゲンハイム美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:グッゲンハイム美術館、Bridgeman Image、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Jpeg形式279.9MB(300dpi、8bit、RGB)。資源識別子: BAL43777.JPG(Jpeg、282.8MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。情報源:(株)DNPアートコミュニケーションズ。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:グッゲンハイム美術館、Bridgeman Image、(株)DNPアートコミュニケーションズ



【画像製作レポート】

《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》の画像は、DNPアートコミュニケーションズ(DNPAC)へメールで依頼した。後日、DNPACのメールにより画像をダウンロードして入手(Jpeg、282.8MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。作品画像の掲載は1年間。
iMac 21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって、モニターを調整する。所蔵館のWebサイト上にある作品画像や書籍の画像を参照しながら色調を調整し、画面下の端にあった額縁に付着した絵具が剥離したような一部を削除した(Jpeg、279.9MB、300dpi、8bit、RGB)。セーターの黄色と背景のグレーのバランス調整に時間がかかった。
セキュリティを考慮して、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用い、拡大表示を可能としている。



参考文献

・『別冊 アトリエ』No.23(婦人画報社、1952.11)
・宇佐見英治『現代美術9 モヂリアニ』(みすず書房、1960)
・ジャンヌ・モディリアニ著、矢内原伊作訳『モディリアニ』(みすず書房、1961)
・小川正隆著、梅原竜三郎・小林秀雄・富永惣一監修『世界美術全集 第22 モディリアーニ/ユトリロ』(河出書房新社、1967.5.15)
・島田紀夫日本語版編集、座右宝刊行会編『リッツォーリ版 世界美術全集 24 モディリアーニ』(集英社、1975)
・乾由明『ファブリ研秀 世界美術全集17巻 モディリアーニ/ユトリロ/シャガール/スーティン』(研秀出版、1976)
・安岡章太郎・粟津則雄著、座右宝刊行会編『世界美術全集 24 モディリアーニ/ユトリロ』(小学館、1977)
・酒井忠康編著『25人の画家 現代世界美術全集 第14巻 モディリアーニ』(講談社、1980)
・高階秀爾「なぜ首が長い? モディリアーニの秘密」(『芸術新潮』No.427、新潮社、1985.7、pp.4-40)
・アルフレッド・ヴェルナー著、宇佐見英治訳『BSSギャラリー 世界の巨匠 モディリアニ』(美術出版社、1990)
・坂上桂子「しられざるモディリアーニ──伝説からの帰還」(『美術手帖』No.698、美術出版社、1994.12、pp.140-153)
・宮下規久朗「特集モディリアーニの恋人 見えてきたモディリアーニ」(『芸術新潮』No.689、新潮社、2007.5.1、pp.34-75)
・図録『モディリアーニと妻ジャンヌの物語展』(東京新聞、2007)
・宮下規久朗『モディリアーニ モンパルナスの伝説』(小学館、2008)
・橋本治・宮下規久朗『モディリアーニの恋人』(新潮社、2008)
・図録『モディリアーニ展』(日本経済新聞社、2008)
・図録『モディリアーニを探して:アヴァンギャルドから古典主義へ』(ポーラ美術振興財団ポーラ美術館、2014)
・仲川与志・西永裕『図説 絵画の変革 印象主義・近代絵画入門』(秀和システム、2019)
・中野京子「中野京子が読み解く画家とモデル[第10回]モディリアーニと《ジャンヌ・エビュテルヌ》」(『芸術新潮』No.830、新潮社、2019.2、pp.144-147)
・近藤幸夫『近藤幸夫美術論集』(阿部出版、2019)
・島本英明『もっと知りたい モディリアーニ 生涯と作品』(東京美術、2021)
・Webサイト:「Amedeo Modigliani Jeanne Hébuterne with Yellow Sweater (Le sweater jaune)」(『GUGGENHEIM』)2021.5.5閲覧(https://www.guggenheim.org/artwork/2972



掲載画家出身地マップ
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2021年5月

  • アメデオ・モディリアーニ《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》──心のフォルム「島本英明」