アート・アーカイブ探求
アメデオ・モディリアーニ《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》──心のフォルム「島本英明」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2021年05月15日号
対象美術館
※《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》の画像は2021年5月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
アンバランスな魅力
昨年(2020)、没後100年を迎えたイタリア人画家アメデオ・モディリアーニの絵画は、2018年にはサザビーズで《左側に横たわる裸婦》(1917)が1億5720万ドル(約172億円)の値が付き、2015年にはクリスティーズで《赤いヌード(腕を広げて横たわる裸婦)》(1917)が1億7040万ドル(約186億円)で落札された。サザビーズではオークション史上最高額となり話題になった。歴代高額取引絵画ランキング・トップ15に、この2作品が入る人気ぶりだ(2021年2月現在)。
いずれもモディリアーニの横たわる裸婦画であるが、首の長いモディリアーニ様式ともいえる肖像画も興味深い。椅子に座っている女性像のひとつ《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》(ニューヨーク、グッゲンハイム美術館蔵)は、デフォルメされた身体と瞳のないブルーの目が印象的だ。初めて見たときは異様な姿に、アシカを思い浮かべたが、抑制された色彩と薄い絵具のタッチで生み出されたリズム、垂直線と曲線のバランスなど、考慮された構成に東洲斎写楽(生没年不詳)の大首絵《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》(東京国立博物館蔵)に通じるものを感じてきた。人間の生きた姿を凝縮したようなアンバランスな魅力。どのように見ればよいのだろう。
アーティゾン美術館の学芸員、島本英明氏(以下、島本氏)に《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》の見方を伺いたいと思った。島本氏は19世紀から20世紀のフランス美術を専門とし、2014年に展覧会「モディリアーニを探して──アヴァンギャルドから古典主義へ」(ポーラ美術館)を企画担当、今年に入ってからは著書『もっと知りたい モディリアーニ 生涯と作品』(東京美術、2021)を出版された。3度目の緊急事態宣言が出る直前に東京・京橋にあるアーティゾン美術館でお会いした。
トランスナショナルな展覧会
昨年ブリヂストン美術館から生まれ変わった新しい美術館は、ウェブ予約チケットや、気流感や温湿度ムラを生じさせない新しい置換空調システムなど、人を取り巻く環境に配慮した快適な鑑賞空間を備えていた。
島本氏は、1979年香川県高松市に生まれた。四人家族で、子供の頃は兄のあとについて遊んだり、江戸川乱歩(1894-1965)や小学生向けの文学などを読むために小学校の図書室をよく利用していたという。大阪大学の文学部人文学科へ入学し、2007年には同大学大学院文学研究科の博士後期課程を単位取得退学した。古典から現代の芸術まで幅広く研究できる研究室の環境のなかで、自然と美術への関心が深まっていったそうだ。
「例えば哲学者モーリス・メルロ=ポンティ(1908-61)など、哲学者や文学者の目を通して作品を見るアプローチが好きだった。そうかと言って純粋な哲学の方に行くわけではなく、対象は美術であるけれども美術史のアプローチで作品を見ていくよりも、哲学的な扱い方の方が学生の頃はしっくりきていた」と島本氏。
2007年にポーラ美術館の学芸員となり、8年間勤めた後に、2016年パリ第10大学の大学院生として1年半ほどの留学を経て、2017年より石橋財団ブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)で学芸員として勤務し、現在に至っている。
フランス美術については、仕事のなかで身に付けていったという。将来は「世界文学」という言葉のように、「世界美術」という視座をもって、国境を超えた多くの地域の美術をパラレルにとらえるトランスナショナルな視点による展覧会を開催してみたいと語った。東洋と西洋の作品を所蔵しているアーティゾン美術館ならではの新境地が開かれていく。
イタリアからパリへ
アメデオ・クレメンテ・モディリアーニは1884年、リグリア海に面したイタリア中部のトスカーナ地方にある港町リヴォルノに、父フラミニオと母エウジェーニア・ガルシンの四人兄弟の末っ子として生まれた。父母ともにユダヤ人で、モディリアーニ家は木材・石炭・炭鉱を扱う商売をしており、母方は銀行家であったが、モディリアーニが生まれた年に一家は破産した。
幼少期より病弱だったモディリアーニは母方の影響を多く受けたようで、文学や哲学に親しんで過ごしていた。11歳で胸膜炎に14歳で腸チフスを患うが、14歳には学校に通うかたわら、地元リヴォルノの風景画家グリエルモ・ミケーリ(1866-1926)に素描を学んでいる。15歳になると学業を諦め画家になることを決心。
1901年、17歳になったモディリアーニは、母とともに療養のためナポリ、カプリ、ローマ、ヴェネツィアなどを巡り、画廊や美術館、教会を見て回る。トスカーナの中心都市であるフィレンツェの裸体美術自由学校に入り、ミケーリの師にあたるマッキア派
を代表する画家ジョヴァンニ・ファットーリ(1825-1908)に学んだ。1902年大理石の町ピエトラサンタの採石場で石彫に挑戦し、彫刻家になる志を抱く。1903年、国際都市の自由闊達な雰囲気のヴェネツィアに転居する。ヴェネツィア美術学院の裸体美術自由学校に入学し、ヴェネツィア派
やシエナ派 を学ぶ。ヴェネツィア・ビエンナーレを体験したモディリアーニは、パリでの活動を考え始めるようになる。詩人の想像力の超越性
1906年22歳を迎える年、モディリアーニは、パリへ渡りモンマルトルを拠点とし、画塾アカデミー・コラロッシに登録して人体素描を継続しながら油彩画を描いた。この頃パブロ・ピカソ(1881-1973)や詩人・美術批評家ギョーム・アポリネール(1880-1918)、フォーヴィスム を先導したフランスの画家アンドレ・ドラン(1880-1954)、フランスの画家モーリス・ユトリロ(1883-1955)、メキシコの画家ディエゴ・リベラ(1886-1957)らと出会い、美術の最前線を前進させる前衛活動に参加していく。
パリ万国博覧会(1900)をクライマックスに第一次世界大戦(1914-18)勃発までの時期、パリは美術史上の旬を迎えていた。古代美術や民族芸術の集積地であったと同時に、さまざまな国籍の芸術家たちが行き交う、芸術をめぐるコスモポリタニズムを体現する都市であった。モディリアーニは在野の公募展サロン・ドートンヌを主戦場として、1907年に初出品した。サロンでは前年に没したポール・セザンヌ(1839-1906)の回顧展が開かれ、モディリアーニはセザンヌ作品を生涯にわたり心に残すことになる。
また、医師のポール・アレクサンドルとは出会って以来、作品を購入してもらいながら支援を受ける。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)やポール・ゴーガン(1848-1903)にも魅了される。
エコール・ド・パリの画家とも呼ばれるモディリアーニは、1909年モンパルナスに居を移し、ルーマニア出身の彫刻家コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)と親交を結び、彫刻の手ほどきを受ける。ギリシアのカリアティード(人像柱)やアフリカの原始美術の影響を受けたプリミティズムやキュビスムを背景に、フォルムの純化を追求し、長い首と単純化された頭部を持つ彫刻作品を制作した。
1910年第26回サロン・デ・ザンデパンダンに《チェロ奏者》《リヴォルノの乞食》を含む6点を出品。1911年から1913年には絵画制作を控え、彫刻に専念するようになる。この頃、彫刻家オシップ・ザッキン(1890-1967)、モイーズ・キスリング(1891-1953)、藤田嗣治(1886-1968)、シャイム・スーティン(1893-1943)と交流する。「交友録には、マックス・ジャコブ(1876-1944)をはじめ、レイモン・ラディゲ(1903-23)、ブレーズ・サンドラール(1887-1961)といった詩人が多く、モディリアーニは詩人の想像力の超越性に強く惹かれていた節がある」と、島本氏は述べている。
伝統と前衛、絵画と彫刻の間
モディリアーニは20数点の彫刻作品を制作したが、石材の入手が困難になったことや体力的な問題から、1914年彫刻を辞める決心をし、主に肖像画と裸婦画を描く画家に戻る。新進の画商ポール・ギヨームが、モディリアーニの作品を扱い始め、モンマルトルにアトリエを提供する。ジャーナリストで詩人のイギリス人女性ベアトリス・ヘイスティングス(1879-1943)と会い、愛憎相半ばする2年間を共に過ごす。1914年8月第一次世界大戦が勃発。モディリアーニは兵役で志願するも健康上の理由から不適格者になる。
1916年、詩人レオポルド・ズボロフスキと出会い、ギヨームに次ぐ画商になってもらう。この年の末頃、アカデミー・コラロッシの画学生であった18歳のジャンヌ・エビュテルヌと出会う。ジャンヌの父は大きな化粧品店の主任会計士で、ジャンヌには画家の兄がいた。中産階級の家庭で育った聡明な女性のジャンヌは画才もあった。
33歳のモディリアーニは1917年、ジャンヌの両親の猛烈な反対を受けながら、一緒に暮らし始める。12月にはズボロフスキの企画による裸婦を主題にした初めての個展「モディリアーニの絵画と素描」をパリのセーヌ河右岸にあるベルト・ヴェイユ画廊で開催。ショーウインドーに飾られた裸婦画に人だかりができ、警察から猥褻罪で没収すると迫られた。作品を撤収したが、売れたのは素描2点のみだった。
パリがドイツ軍の長距離砲の攻撃にさらされるようになると、ズボロフスキは自らの家族とともに体調の悪いモディリアーニ、妊娠しているジャンヌとその母を連れて、1918年南仏ニースへ避難した。同名の娘ジャンヌが誕生。1919年にはパリに戻り、二人目の子供を妊娠したジャンヌ・エビュテルヌと結婚することを文書で誓約するが、イタリアとの手続きが複雑なためか入籍はできなかった。
ロンドンのマンサード画廊で開催された「フランス美術 1914-1919」展に出品し、サロン・ドートンヌに4点出品するなど、画家としての評価は確かなものになりつつあった。特別な関心を示すロジェ・デュティユルなどのコレクターも現われ始めていた。しかし、モディリアーニの身体は衰え切っていた。1920年1月24日、結核性髄膜炎で亡くなってしまう。享年35歳。その2日後、妊娠8カ月のジャンヌは、両親のアパルトマン6階の窓から幼い娘を残して投身自殺した。21歳だった。共にパリ東部にあるペール・ラシェーズ墓地に眠る。
引き伸ばされた長い首やうつろな目を特徴とし、官能的で倦怠感のある肖像画を描いたモディリアーニは、古典美術を基底に伝統と前衛、絵画と彫刻の間に屹立していた。アルコールと薬物に依存し、退廃的な生活を送り多くの伝説を生んだが、恵まれた容姿と気品ある振る舞いで周囲からは慕われた。痛切な終幕を迎えたが、ジャンヌ・エビュテルヌの肖像は20点以上残されている。
【黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌの見方】
(1)タイトル
黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ(きいろのせーたーをきたじゃんぬ・えびゅてるぬ)。英題:Jeanne Hébuterne with Yellow Sweater
(2)モチーフ
ジャンヌ・エビュテルヌ。モディリアーニの妻で、二人目の子を懐妊。
(3)制作年
1918〜19年。モディリアーニ33〜34歳。
(4)画材
キャンバス、油彩。
(5)サイズ
縦100.0×横64.7cm。キャンバスのM(Marine:海景)40号(フランスサイズ)を縦に用いている。
(6)構図
室内の角を背景に、椅子に腰かけた女性を4分の3正面からとらえ、肩幅は短く、胴体から腰にかけてピラミッド状に広がるように安定感をもたせた。傾いた楕円形の顔と長い首によってつくられるS字曲線という様式化された女性像を画面の中心に天に伸びるように配置し、メランコリックな雰囲気のなかにも気品と優雅さを秘めた空間を構成した。
(7)色彩
黄、青、灰、茶、水色、赤、紫、橙色、黒など。壁は一見グレーの単色に見えるが、薄い青味や赤味が混じり複雑な色となっている。
(8)技法
細い輪郭線によって丁寧に描かれた細長い頭部のほかは、薄塗りの絵具のリズミカルな筆跡が見える。色面による構成を強め、進出色の黄色(暖色系)と後退色の灰色(寒色系)を組み合わせて遠近感を出している。また線は直線と曲線が意識的に用いられ、細い太い、短い長い、弱い強い、遅い速いといった多様な線質が見られる。
(9)サイン
画面右上に「modigliani」と黒で署名。
(10)鑑賞のポイント
後ろにやや反らした細長い頭部や首が印象的な肖像は、全体にわたって曲線に貫かれている。首から丸い肩を経て背中を通り腰にかけて、緩やかなS字形を描く。その身体をねじったような立体的な造形は、1918年以降のモディリアーニ作品に顕著となるが、新たな美の規範の構築を目指した16世紀イタリアのマニエリスム長い首の聖母》(1534-40、ウフィツィ美術館蔵)に既に見られると指摘されている。モディリアーニは、細部を省略し、シンプルな色面による構成の趣きを強めた。ジャンヌの衣装の黄色と青の対比が目を惹く一方、背後の壁を彩る薄いブルーグレーが、静謐な雰囲気で妻を包む。アフリカの仮面のように瞳孔はなく、永遠を見通したようなアーモンド型のブルーの目。ジャンヌに無垢な魂を感じた画家の限りない慈愛の表現とも言われる。モディリアーニが亡くなる前年に描かれた素朴でありながら強度に満ちた抽象的な具象造形である。人間が惻惻(そくそく)として生きた様が胸を打つモディリアーニの代表作。
の絵画、とりわけパルミジャニーノ(本名ジローラモ・フランチェスコ・マリア・マッツォーラ。1503-40)の《糸で編まれた身体
島本氏は、モディリアーニの作品がほかの画家の絵に似ている点があるのかどうかを考えたとき、パルミジャニーノの造形と共通項はあるが、人物主題の作品としては性格を異にするという。モディリアーニは、室内の人物を描いてはいるが、具体的に何かをしているところの人物像でも、かしこまった肖像画でもない。室内の人物像で唯一近いと思えるのは、《赤い肘掛け椅子のセザンヌ夫人》(1877、ボストン美術館蔵)や《赤いチョッキを着た少年》(1888-90、ワシントンD.C.、ナショナル・ギャラリー蔵)に代表されるセザンヌ一連の作品ではないかという。
《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》は、「ブルーグレーの大きな色面を背景に箪笥のようなものを加えた穏やかな肖像画である。ジャンヌの人体像は、糸が編まれているようなイメージ。ジャンヌが手を交差させているところからも、曲線はひとつだけでなく、複数の糸が縒り合わさって身体を形づくっているような感じがある。細長い楕円形の頭部から旋回しつつ安定した下半身へ動感をはらみながら降下していく、豊かな人体表現である。14世紀シエナ派の彫刻家ティーノ・ディ・カマイーノ(1285頃-1337頃)の《司教アントニオ・デル・オルソ記念像》は、古拙ともいえる味わい深い彫刻で、簡素な形体を取りながらも、かしげた頭部や手の表現などのディテールに動感を宿している
。それは《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》に通じるものがある。モディリアーニは、クラシカルな方に軸足があり、求めているものは抽象度が高い」と島本氏は語った。《黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》の黄色のセーターは、大原美術館所蔵の《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》と同じ色のセーターであり、現実に即している。この黄色と対比するように、ほかの色彩を決めていったと思われ、青い目は、ジャンヌの瞳がブルーだったためと言われているが、実際とは異なる色で描く場合もあるので真実はわからない。また、瞳を描かないのはアフリカやオセアニアのプリミティブ美術の影響があり、キュビスムの早い時期にピカソやアンドレ・ドランなどの作品にも見られる。
島本氏は「モディリアーニは彫刻を制作しているときに頭部の研究をしていた。自分のなかで理想となるフォルムがあり、モデルをその理想に寄せていく。その過程で頭部も首も胴体も伸びていった。人物の衣装や室内の調度など、フォルムの外の付属物は排し、人間をできるだけむき出しにしようとディテールにこだわり、フォルムはシンプルにした。モデルの存在を借りて、フォルムになっていく。描けば描くほどジャンヌの存在が透明になり、フォルムが浮き出てくる。情緒的な面はあまりうかがえず、人間としては遠くに感じる。フォルムで何かを表わすというより、フォルムそのものを描いている。それはアーティゾン美術館所蔵の《若い農夫》でも確認できる
」と語った。第一次世界大戦という軍靴の響く波乱の時代に、モディリアーニは心のフォルムを純粋に描いた。来年(2022)オープンする大阪中之島美術館では、開館記念特別展として「モディリアーニ展──愛と創作に捧げた35年」(2022.4.9-7.18)が予定されている。新しい美術館でエコール・ド・パリの動向とモディリアーニ芸術の軌跡をたどる。
島本英明(しまもと・ひであき)
アメデオ・モディリアーニ(Amedeo Modigliani)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献