アート・アーカイブ探求
ギュスターヴ・クールベ《画家のアトリエ》──レアリスムの多面性「太田泰人」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2021年09月15日号
※《画家のアトリエ》の画像は2021年9月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
光射す裸婦
東京2020パラリンピック競技大会(2021年8月24日〜9月5日)では、初めて障がいのあるトップアスリートの闘いを長時間見ることができた。人間は両腕がなくても泳げるし、両足がなくても跳べる。ブラインドサッカーは静かに熱戦が展開され、車いすラグビーは男女混合で激しいぶつかり合い、脳性まひ者のボッチャは神業だった。常識を揺さぶるパラリンピックは、人間の可能性を具体化した祭典であった。印象的だったのは、目の見えない金メダル選手のコメントだ。金メダルの実感が湧くのは、表彰式でメダルを授与されたときではなく、国旗掲揚とともに演奏される国歌を聴いたときだという。目の不自由な人にとってのリアリティは、手にしたメダルよりも音楽にあった。
リアリティとは何か。「レアリスムの画家」と呼ばれるギュスターヴ・クールベの代表作《画家のアトリエ:私の芸術的人生の7年間を要約する現実的寓意》(以下、《画家のアトリエ》。オルセー美術館蔵)を探求してみたい。天井の高い薄暗い画家のアトリエに大勢の人がいる。何をしに人々が集まっているのかわからないが、暗闇に浮かぶ月のようなメダイヨン(石膏の円形浮彫)の下、画家に寄り添うように立つ裸婦がひときわ明るい。高さ約3.5メートル、横約6メートルという壁画のような巨大絵画の下半分ほどに、等身大の群像が描かれている。この絵は何のために描かれたのだろうか。西洋美術史家の太田泰人氏(以下、太田氏)に《画家のアトリエ》の見方を伺いたいと思った。
太田氏は、西洋近現代美術史を専門とし、長年、神奈川県立近代美術館の学芸員として数多くの展覧会に携わり、『ルーヴルとパリの美術 V』(小学館、1985)や、『世界美術大全集 第21巻 レアリスム』(小学館、1993)などのなかに、クールベについての著作がある。高層ビルが目を引く神奈川県川崎市のご自宅で話を伺うことができた。
パリへ行きなさい
太田氏は1951年東京に生まれた。父親は化学の研究者。子供の頃から父の勤める研究所に遊びに行くのが好きだったという。中学・高校は東京・港区にある男子校麻布学園に入り、理科系の道に進むと思っていた。しかし高校時代に学生運動に関心を持ち、こうした志望に疑問が湧いてきた。その頃、のめりこんでいったのが美術である。もともと手を動かして、模型をつくったり、絵を描くのが好きだった。高校生になると、学校帰りに友達と、ギャラリーが点在する銀座や京橋などの画廊をめぐり、時代の先端の美術作品を観に行くことが楽しかった。60年代後半の当時、斬新なグラフィックデザインや実験的な映像作品など、新しい美術の動きが盛り上がっていた。過去の美術についても、国立西洋美術館で開催された「ボナール展:生誕百年記念」(1968)や、神奈川県立近代美術館での「パウル・クレー展──近代絵画の巨匠」(1969)を観た感動はいまでも鮮明に覚えている。
こうして高校3年生になって、理科系から芸術系へ志望を急転換することになった太田氏。しかし芸術系志望といっても、それが何をすることかはわかっていなかったという。曖昧なまま受験した東京大学には合格したが、美大への未練は残った。そこで、なんとか親を説得して、美大受験の予備校「御茶ノ水美術学院」の夜学に通い始め、一度だけ東京藝術大学油画科も受験するが、あえなく一次試験の石膏デッサンで落ちてしまう。当時、藝大油画科の競争率は50倍近く、合格まで5浪、6浪は当たり前と言われていた。途方に暮れたがそんなとき、藝大の油画科教授だった画家の野見山曉治先生(1920-)に、予備校の先生がアドバイスを伺ってくれた。「日本の美大に入っても学ぶことなんて何もないよ、それよりはパリへ行きなさい」。この助言が目標となった。
太田氏は、パリへ行くために美術史それもフランス美術を学ぼうと考えた。1976年に東大文学部美術史学科を卒業。東大の大学院へ進み、西洋美術史の泰斗高階秀爾先生に導かれ、フランス政府給費留学生として渡仏。3年間、パリ大学付属美術考古学研究所でベルナール・ドリヴァル教授に近現代美術史を学んだ後、1983年東京大学大学院修士課程を修了した。主たる研究テーマはキュビスム。卒論は、パブロ・ピカソ(1881-1973)の《アヴィニョンの娘たち》について書き、修士論文はキュビスムのなかでも理論的な活動を展開した「ピュトー派 」のグループを研究した。
1983年に神奈川県立近代美術館の学芸員となり、最初に担当した展覧会は「モローと象徴主義の画家たち」(1984)だった。その後「マン・レイ展」(1985)、「ジェリコー展」(1987)、「ダダと構成主義展」(1988−89)、「ニコラ・ド・スタール展」(1993)など、展覧会を通して少しずつ学芸員の仕事を覚えていったという。2003年10月に開館した海に面した葉山館の新設事業を担当していた太田氏は、2004年に普及課長になった。2011年に同館を退職後は、女子美術大学大学院の特任教授を務めて2017年に定年退職した。現在は西洋美術史家として活動している。
巨大な装置
太田氏がクールベに興味を持ったのは大学生の終わり頃だった。当時は19世紀の文学、芸術を見直そうという動きが高まっていて面白い研究が次々に出ていた。なかでも、詩人で批評家のシャルル=ピエール・ボードレール(1821-67)の研究者として国際的にも名高い阿部良雄の著書『群衆の中の芸術家──ボードレールと19世紀フランス絵画』(中央公論社、1975)は衝撃的だったという。「群衆」という新しい社会の現実のなかで、19世紀の芸術を見直す視点で書かれており、クールベについても言及していた。「いまでもクールベについて日本語で書かれた本の中で一番いい」と太田氏。海外のメイヤー・シャピロ(1904-96)、エレーヌ・トゥサン(1921-2006)、リンダ・ノックリン(1931-2017)、T.J.クラーク(1943-)などの研究も刺激的だったそうだ。
パリ留学中に、ルーヴル美術館やオルセー美術館の準備室の資料部門に通うようになって美術館の舞台裏に触れたことも、19世紀美術への関心を深めた。日本の先生方の紹介により、パリの美術館の「ドキュマンタシオン」 と呼ばれる資料部門で、19世紀の作家や作品の歴史的資料を調査するという出版社からのアルバイトがあった。それで、まだ開館していなかったオルセー美術館(旧オルセー駅)の裏口から館内に入ると、夥しい量の文献や図版などの関連資料が蓄積され、ファイリングされ、整理されて、専門の「ドキュメンタリスト」たちが忙しく働いていた。新しい「19世紀美術館」開館を目指して始動していたこの現場との出会いは開眼となった。阿部良雄の本や高階先生の授業で問題意識を持っていたところに、クールベやエドゥアール・マネ(1832-83)、印象派などについての「ドキュマンタシオン」部門での美術館体験。問題意識と体験が重なり合い、絵の見え方が変わっていったという。
《画家のアトリエ》を最初に観たのは、初めてパリへ行った1974年のことだった。「当時はルーヴル美術館にあり、ポンペイ風の赤い壁面の19世紀絵画室に、ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)、ドミニク・アングル(1780-1867)、ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)などの大作と並んでクールベがあった。黒服の群像が圧倒的なマチエールで迫る《オルナンの埋葬》と比べて、《画家のアトリエ》は暗く読み取りにくい画面でよくわからなかったが、19世紀前半の絵画は、まるで巨大な舞台装置のようだと思った」と太田氏は述べた。
歴史画の否定
19世紀は、民主主義や社会主義といった政治的、思想的な潮流が誕生した変革の時代だった。ジャン=デジレ=ギュスターヴ・クールベは、1819年フランス東部スイスとの国境に近いフランシュ・コンテ地方の小都市オルナンに、富裕な地主の長男として生まれた。父のエレオノール=レジス=ジャン=ジョジゼフ=スタニスラス・クールベは、農業技術の改良に情熱を燃やす進取の気性に富み、母シュザンヌ=シルヴィ・ウードは、オルナンの地主の娘で、クールベには4人の妹たちがいた。長女のクラリスは早世したが家族は仲が良く、とりわけ末っ子のジュリエットはクールベに信頼を寄せ続けた。
14歳のクールベは寄宿学校へ通い、新古典主義の画家アントワーヌ=ジャン・グロ(1771-1835)の弟子であったというボー神父が指導する絵画の授業が忘れられない記憶になった。1837年、18歳になったクールベは父の希望により法律を学ぶため、東部の都市ブザンソンの王立高等中学校に寄宿したが、規律に耐えられず寮を出て下宿し、学校と並行してダヴィッドの弟子を自称する画家フラジュロ(1774-1840)のアトリエに通う。二十歳でパリへ出て、新古典派の歴史画家シャルル・ストゥーベン(1788-1856)のもとで修行を始めた。
1844年25歳、《黒い犬を連れたクールベ》(パリ市立プティ・パレ美術館蔵)がサロンに初入選する。それ以前も裸婦や神話画を描いてサロンへ出品していたが、方向性が定まらなかった。この頃のクールベは、「大作を描いて」サロンで認めてもらうという野心を抱くとともに、ルネサンス風の芸術家や傷ついた男など、さまざまな役割に扮した自画像を繰り返し描いて、自分の顔を売り込む戦略を取った。
1848年二月革命オルナンの食休み》(リール宮殿美術館蔵)が二等賞を受賞し、国家買い上げとなる。以後クールベは無鑑査の特権を得た。こうしてクールベのレアリスムの破竹の進撃が始まる。
が勃発。サロンは開催され、制作に熱中したクールベは、10点を出品した。前年には愛人ヴィルジニー・ビネとの間に息子が生まれたが、クールベは認知しなかった。同世代の詩人ボードレールと美術評論家のシャンフルーリ(1821-89)が刊行する革命的な小新聞『サリュ・ピュブリック』に挿図を寄せて支援した。1849年サロンに出品した大作《クールベは1851年のサロンには、縦3メートル、横6メートルを超える大作《オルナンの埋葬》(オルセー美術館蔵)や《石割り人夫》(第二次世界大戦で消失)、《市から帰るフラジェイの農民たち》(ブザンソン美術考古博物館蔵)を出品。画面の武骨な力強さ、迫力に批評界は騒然となった。大画面に農民や労働者などを堂々と描いたそのあり方は、伝統的な歴史画の否定で、絵画の主題の平等化を実現した。
生きた芸術をつくる
大作《画家のアトリエ》は、1855年のパリ万国博覧会美術展に向けて制作してきたが、審査委員会に出品を拒絶されてしまう。クールベは個展開催を決意し、万博会場に近いモンテーニュ通りに自費で「レアリスム館」と名づけた仮設小屋を設ける。《画家のアトリエ》を中央に設置した会場には「レアリスム──G.クールベ、その作品のうち40点のタブローを展覧」と書かれた掲示が出され、カタログには「一言でいって生きた芸術を作ること、それが私の目的である」(『世界美術大全集 第21巻 レアリスム』p.130)という「レアリスム宣言」というべき序文が付された。入場料は当初の1フランから10スーに引き下げられ、興行的には失敗に終わった。
この頃からクールベの作風には変化が表われる。1857年のサロンには、貧しい労働者や農民を主題にした作品の出品はなく、大衆に受け入れやすい狩猟や都市風俗、風景画を描くように転身した。それでもレアリスムの画家として若い画家たちの支持を集めていたクールベは、評論家のジュール=アントワーヌ・カスタニャリ(1830-88)と友人となり、また芸術愛好家のエティエンヌ・ボードリー(1830-1908)が新しいパトロンになった。1860年代に入ると、第二帝政時代の自由帝政の時期に入り、享楽的な気分に引き寄せられながら、エロティックな裸婦を描いた。帝政末期の1870年にレジオン・ドヌール勲章がクールベに授けられることになるが、これを拒否し、クールベはその文面を新聞紙上に発表して、芸術に政府が関与すべきではないと主張した。7月普仏戦争が勃発。帝政は瓦解し、ドイツ軍のパリ包囲が続いた。クールベは祖国の危機に立ち上がり、美術委員会の委員に指名され、美術品の保護とともに、新しい美術制度の確立に奔走、帝政の象徴であったヴァンドーム広場のナポレオン記念柱を解体する提案をした。
1871年、パリの小市民や労働者による急進的な国民軍であるパリ・コミューンに参加するも72日間で崩壊。クールベは逮捕され、罰金500フランを言い渡されて6カ月刑務所に収監された。1873年54歳、国民議会はナポレオン記念柱を再建することを決議し、記念柱破壊の責任者クールベの財産差し押さえを執行。クールベはスイスに亡命する。1874年には円柱再建の全費用の支払い判決が出た。ワインに溺れる生活となり、クールベは3人の弟子と風景画を流れ作業のように制作したため、質の悪い作品が世に出回ることになった。肥満が進み急速に健康を損なっていった1877年、父と妹のジュリエットに看取られながら、故国の土を踏むことなく亡くなった。享年58歳。フランスとの国境にあるレマン湖のほとりのラ・トゥール・ド・ペールズの墓地に葬られ、故郷オルナンへ帰ったのは、生誕100年にあたる1919年であった。
【画家のアトリエの見方】
(1)タイトル
画家のアトリエ〈私の芸術的人生の7年間を要約する現実的寓意〉(がかのあとりえ〈わたしのげいじゅつてきじんせいのななねんかんをようやくするげんじつてきぐうい〉)。副題に「現実的寓意」という矛盾するような言葉を加えている。「寓意(アレゴリー)」とは、目に見えない抽象的な観念や理念などを、目に見える現実の形象を通して、表現しようとする形式であって、「現実的寓意」という言葉には根本的な矛盾が含まれている。英題:The Painter's Workshop, a real allegory determining a seven-year phase of my artistic life
(2)モチーフ
クールベ、絵画、裸婦、子供、人々、猫、犬、メダイヨン、カーテン、人体模型、頭蓋骨、新聞、羽飾り付き帽子、ギター、短剣。
クールベが友人の評論家シャンフルーリに宛てた書簡に、登場人物についての説明がある。絵の傍らにある人体模型の前に、座りながら赤ん坊に乳を飲ますアイルランドの女は、社会の悲惨を表わしている。骸骨が置かれている新聞は、ナポレオン3世の御用新聞となってしまいジャーナリズムが生命を失ったことを意味する。山高帽の男(ブルジョワジー)に生地を売るユダヤ人商人は、商業活動を意味し、彼らの周囲には、墓堀り人夫、娼婦、道化師、農民、失業者など、社会で生活している人々が見える。左端にユダヤ教の博士と奥にはカソリックの神父が宗教を、手前の犬を連れた狩人は余暇を表わす。床の上の黒い羽飾り付帽子やギター、短剣は、ロマン派芸術の退廃を表わしている。当時の生々しい社会が左側に表現され、人々が寓意像となっている。一方、右側の手前で椅子に座るのは美術評論家シャンフルーリ、高価な服装を着て立っているのは芸術愛好家の夫婦、窓辺の2人は自由恋愛を表わし、あごひげを生やしているのはパトロンのアルフレッド・ブリュイヤス(1821-76)、その後ろには同郷の社会主義者ピエール・ジョゼフ・プルードン(1809-65)、同郷の口ひげの詩人マックス・ビュション(1818-69)、机に腰掛けて本を読んでいるのは詩人で批評家のボードレールで、クールベにとって大切な人々が集まり、画家の背中を見守っている。しかしながら、その登場人物たちの意味や関係は何かというと謎であり、さまざまな解釈が生まれてきた。クールベ自身は同じ手紙のなかで「謎解きしたい奴は好きに謎解きすればよい」と言っているように謎もまたこの作品の一部である。
(3)制作年
1854-55年にパリのアトリエで描かれる。クールベ35-36歳。タイトルに謳われている「7年間」とは、クールベがそれまでのロマン主義を離れ、自然や卑近な日常生活の民衆の尊厳を主題として取り組んだ1848年の二月革命から1855年のパリ万博開催までの「レアリスム」の時代を指す。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦361.0×横598.0cm。
(6)構図
対角線構図と明暗の効果によって、クールベと裸婦にすべてが収斂する。聖なるイメージをつくるときの正面性のある3部構成。中央は風景を描く画家クールベと真実やミューズを表わす裸婦、汚れた衣服の無垢な少年と自由に動く白い猫。左側には社会のさまざまな人々、右側にはクールベを支えた人たちがいる。画家のアトリエという伝統的なテーマだが、画面を横断して20数人の人物を配置し、クールベの自画像を含む集団肖像画としても見られる。
(7)色彩
青、赤、黄、緑、灰、茶、白、黒、金など多色。画面全体は暗い色調で覆われている。
(8)技法
暗い色彩を使って大まかにデッサンをし、その上にパレットナイフを使いたっぷりと絵具を重ねた厚塗りのところと、背景にみられる薄塗りの部分があり、赤褐色の地塗りがのぞいてしまっているところもある。あらゆる色彩が暗い色調のなかに溶け込んでいくような効果がもたされ、人間の内面までもが現われそうなドラマチックな場面がつくられた。
(9)サイン
左下に「55 G.Courbet」と濃い茶色で署名。
(10)鑑賞のポイント
歴史画を頂点とする西洋絵画の伝統的=位階的な表象体系と、その秩序に奉仕する芸術家という役割を、二重の意味で大きく揺るがし打ち破った名作である。それまでは描かれなかったありのままの現実社会を描く「レアリスム」という主張と、その現実(リアリティ)をどのように見るかについて絶対的な自由が芸術家にはあるという「アヴァンギャルド」芸術家の主張。現代にまで通じるこの二つの主張が、ここでは壮大なかたちでひとつの画面に結びつけられている。クールベの社会的関心の表現が左側に描かれ、右側にはクールベの個人的関心事が表現されている。これらの人物の組み合わせは、副題と相まって、この作品の謎を深め、その解読にさまざまな人々を招き入れてきた。例えば、クールベが描いている絵の傍らに立つ裸婦と、絵の後ろにある人体模型は、クールベの「自然」とアカデミー絵画の「人工」を象徴する。また床に腹ばいになってなぐり描きする子供は、ボードレールの「素朴」の美学を表わすなど、早くから語り継がれ広く知られている。そして背景は、壁に掛けてある絵なのか、それとも向こうの風景を望む窓の風景なのか。意図的に曖昧にしているとも解釈できる(この背景は2014年から2016年に行なわれた大規模な修復作業で以前よりはっきりと見分けることができるようになっている)。確かなことは「絵を描いている画家」という画面の中心的な出来事である。女性モデルの暖かい視線と少年の讃嘆の眼差しに見守られながら、クールベは悠然と故郷フランシュ・コンテ地方の風景画を描いている。それは、等身大のひとりの画家としてすべてに立ち向かう、自由な芸術家像を主張する。この絵を見たドラクロワは「日記」のなかで「(……)唯一の欠点は、彼が描いている最中のタブローがどっちつかずの意味を帯びることだ──まるでタブローの真ん中の本物の空のように見える」(『ルーヴルとパリの美術 V』p.280)と評している。レアリストと自ら名乗り、レアリストを「まことの真実の誠実なる友」と定義していたクールベだが、「寓意」を用いて目に見えないものまでも捉えて「現実」を表わそうとした。真実のみのもつ広がりと普遍性を備えたクールベの代表作であり、ひとつの時代、ひとつの社会を象徴する絵画的記念碑である。
現実の幻想と虚構のリアリティ
《画家のアトリエ》について、太田氏は「19世紀のこの頃には、サン=シモン(1760-1825)やシャルル・フーリエ(1772-1837)、プルードンやカール・マルクス(1818-83)、フリードリヒ・エンゲルス(1820-95)など、社会を人間が解釈し変革できるとする社会思想が活発に議論されていた。また新聞などメディアも発展して、社会のさまざまな事象に誰もが関心を持ち、自分の意見を持てるようになる。そういう個人が生まれることが民主的な社会の基盤、社会主義などの思想を支えている。クールベはこの時代の潮流を自分の問題として感じていた。そして芸術家こそが、その流れの先頭に立って世界の見方を導く“前衛(アヴァンギャルド)”の役割を果たすという理念を新しい社会思想から受け取っていた。《画家のアトリエ》は、社会を描きながら、クールベが社会のなかで自立して、独立独歩で輝かしい創造活動に従事している、その全体を総合的に描き出した。自分が見ている社会、自分を支える理想的な世界、それを描いている自分自身。それらを総体として描いた作品」と言う。
また、「強く印象付けられるのは、中央の描いている絵と、裸婦と子供とクールベ自身だ。この部分が持っているリアリティというか、存在感に比べて周りは陰のなかに沈み込んでいる。リアリティという言葉を使っては安易だが、絵が浮き出てきて、肉薄してくる輝かしさが《画家のアトリエ》のメッセージ、現実性と言ってもいい。背景に描かれているのはおそらく《市から帰るフラジェイの農民》だと思うが、ほとんど見えない。現実性のレベルで考えてみれば、ここは画家のアトリエで、画家と周囲の人物たちがいて、イーゼルの上の絵は画中画で、人物たちより、もう一段遠い虚構の世界のはず。その虚構の絵画が、絵のなかの現実たる人物たちよりも現実感がある。ひっくり返っている、画面左に描かれた社会の現実、右側の現存した友人たちの肖像群も、この中央のビビッドな部分よりはリアリティがない。まるで夢のように幻想的。現実が幻想のようであり、そして虚構の世界がもっともリアリティがある。複雑な構造を絵として持っている」と太田氏は語った。
レアリスムはキュビスムの出発点
太田氏がクールベに関心を持つようになったもうひとつの理由は、修士論文で書いたキュビスムにあった。「キュビスムは、レアリスムの芸術である」と言う。アルベール・グレーズとジャン・メッツァンジェ著になる最初のキュビスムの理論書というべき『キュビスムについて』(1912)を見ると、冒頭から「キュビスムの重要性を真に評価するためにはギュスターヴ・クールベにまで遡らねばならない」という言葉で始まる。クールベからピカソまで何がどのようにつながっていくのか、不思議だと思った太田氏。
三浦篤東京大学教授は「フランス19世紀半ばのレアリスム絵画といっても、その理解は意外に難しい。ここで「レアリスム」を「写実主義」と訳さないのは、単に目に見る現実の形象をカンヴァスに絵具で再現することだけが、レアリスム絵画の目的ではないからだ」(三浦篤「訳者のことば」『岩波 世界の美術 クールベ』)と記している。
太田氏は「写実的と呼ばれる絵画はルネサンス以来、西洋絵画の根幹にあるが、でもそれをレアリスムとは言わない。日本でも高橋由一(1828-94)以来、いわゆる写実の系譜があるが、それもクールベ的なレアリスムとは異なる。社会主義リアリズムというのとも区別される。レアリスムは、見えている現実を描く絵画だけれど、それは受動的に見えたものだけではなく、画家が考え、感じたもの全部を総合して、そして強い自分の感情や感動、あるいは社会思想などの刻印を押す能動的な行為になってくる。そういう受け止め方で現実を捉えた見える世界がレアリスム。レアリスムとクールベが言ったときに、自分が社会のなかにひとりの人間として生き、自然を前にして自分がひとりの人間として感じることを描くと言っている」と述べた。
さらに「キュビスムでは描く対象を複数の視点で捉える。1カ所から見るだけではなく、あっちやこっちから多角的に見て、触覚的な硬さや重さも感じ、全部を絵画として表わしたいという性格を持っている。それを追求していくと、いわゆる写実性が壊れてしまうが、論理は理解できると思う。レアリスムを深めていくとき浮かび上がるこの矛盾がキュビスムの出発点にある」と太田氏は語った。レアリスムの多面性が現われてきた。
太田泰人(おおた・やすひと)
ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献