アート・アーカイブ探求
アルブレヒト・デューラー《アダムとイヴ》──理性の落とし穴「下村耕史」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2021年12月15日号
※《アダムとイヴ》の画像は2021年12月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
最初の人間
「トーハク」として親しまれている東京・上野の東京国立博物館は、1872(明治5)年に日本初の博覧会を開催したことに始まり、来年2022年3月で創立150周年を迎える。我が国最大級の文化財コレクションを擁し、長い歴史を誇る。1923年の関東大震災や、1941年の太平洋戦争の空襲激化にも疎開によって持ちこたえ、受け継がれてきた収蔵品は約12万件、うち国宝が89件、重要文化財が648件と厳しい時代にも淘汰されず大切に残されてきた。創立150周年を記念した特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」(2022.10.18~12.11)では、国宝89件がすべて展示され、トーハク史上初、誰も見たことがない展示風景が見られるだろう。
また、トーハク本館の正面壁面の大きな垂れ幕にもなって、イメージキャラクターのように親しまれている菱川師宣の一人立ち美人図《見返り美人図》は、国宝でも重要文化財でもないが不思議な存在感を放っており、関連企画の総合文化展「未来の国宝」で出会えるチャンスがある。一人立ち美人図といえば《イヴ》が思い浮かぶ。500年ほど前にドイツで描かれた人類最初の女性である。こちらは着衣ではなく全裸、ヴィーナスのような美と愛の女神ではなく人間だ。一点の絵画作品だが、夫《アダム》と一対になって《アダムとイヴ》として展示されることが多い。ユダヤ教やキリスト教とほとんど無縁に生きる者でも知る、神が創造した初めての人間の男女。「人間とは何か」と問われているようだ。ドイツ・ルネサンスを代表する画家・版画家アルブレヒト・デューラーの油彩画《アダムとイヴ》(プラド美術館蔵)を探求してみたい。
デューラーは版画家として有名だが、油彩画もある。デューラーが《アダムとイヴ》を描いた背景には何があったのだろう。デューラーの研究者として名高い九州産業大学名誉教授の下村耕史氏(以下、下村氏)に《アダムとイヴ》の見方を伺いたいと思った。下村氏は著書『アルブレヒト・デューラーの芸術』(中央公論美術出版、1997)のほか、デューラーに関する論文や翻訳書など多数の著書を出版され、一貫してデューラーを研究している。福岡県にある九州産業大学へ向かった。
「君いま何を読んでいるか」
広い大学図書館の閲覧室で下村氏は席にひとり座って待っていてくださった。1942年福岡県福岡市に6人兄弟(男4人、女2人)の末っ子として生まれた。会社員だった父と一番上の19歳年上の兄は本好きで、家には物理学者で文学者でもあった寺田寅彦や、英米文学者の厨川白村(くりやがわ・はくそん)の全集、世界美術全集があったという。下村氏は、小学生のときに被差別部落出身の小学校教師の苦悩を描いた島崎藤村の『破戒』を読み、中学生時代には姉が買ってくれたフランスの小説家ロジェ・マルタン・デュ・ガールの大河小説『チボー家の人々』を読んだそうだ。また、作曲家シューベルトや美的で技巧的な『ツィゴイネルワイゼン』などを作曲したバイオリニスト・サラサーテのレコードがあり、クラシック音楽を聴くのも好きだったという。
文学、芸術に惹かれた下村氏は、1962年九州大学文学部美学美術史学科に入学し、1968年同大学大学院哲学研究科美学美術史専攻を修了。卒論はヤン・ファン・エイク(1390頃-1441)、修論がアルブレヒト・デューラーだった。大学院を修了した年に九州産業大学の芸術学部助手となり、27歳で講師となる。1975年32歳のとき特別研修員として1年間ミュンヘン大学美術史研究室へ留学し、35歳で九州産業大学助教授、46歳で教授となった。
下村氏とデューラーとの長く深遠な付き合いは、九州大学の学部生のとき、デューラー研究者の前川誠郎(1920-2010)先生から「君いま何を読んでいるか」と問われたことに始まる。そのとき、下村氏はヨーロッパを代表する美術史家ハインリッヒ・ヴェルフリン(1864-1945)の著書を読んでいた。『Die Kunst Albrecht Dürers(クンスト・アルブレヒト・デューラース〔アルブレヒト・デューラーの芸術〕)』という本の「ヨハネ黙示録」です、と答えると「君よく見つけたね」と驚いたようにおっしゃった。ヴェルフリンの本を読んで下村氏は、造形作品の本質は形にあることを知り、新しい世界へ入ったような気持ちになり、デューラー研究への歩みを始めたという。のちに、前川先生も学生の頃に同じ本を古本屋で見つけ、デューラー研究に入られたということを知った。
ドイツ・ルネサンスの創造
下村氏が《アダムとイヴ》を初めて見たのは、九州産業大学へ助手として就職した後にスペインのプラド美術館へ行ったときだったという。等身大の《アダムとイヴ》を前に「これがあれか」という感じで、特に感動することはなかったそうだ。デューラーの最大の功績は「シュペートゴーテック(ゴシック末期)の美術を変革して、それを古典古代の美術理論を反映する美術にしたことだ」と下村氏は語る。ゴシックの伝統のなかに育ったドイツ生まれのデューラーは、イタリアに旅し、ルネサンスを体感して、古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『問題集』や古代ギリシアの医師ヒポクラテスの体液論などを参照しながら、解剖学的な知識に裏づけられた身体のプロポーション理論や、透視図法による整理された空間、あるいは自然観察によって、新しいドイツ・ルネサンス(北方ルネサンス)の創造を目指した。職人だった画家や彫刻家は、古典的教養を背景とした知的創造者として芸術家と認められるようになっていった。
「ゴシックという言葉は、イタリアの美術家がアルプスを越えた北の建築や、造形作品の様式を見下げたもので、『ゴート人の野蛮な様式』を意味する“ゴシック風(maniera gotica)”と呼んだことに始まる。もちろんいまはこの言葉に軽蔑の意味はなく、イタリア美術の均斉の取れた形体美に対して、均斉美を無視して上昇感を強調する北方美術の様式的特徴を指す言葉として“ゴシック”は使われている。中世ドイツの大聖堂建築であるウィーンのシュテファン大聖堂はその代表で、デューラーについてもこのイメージを基に、その影響と克服について考えている。デューラーに私が惹かれているのは謎解きの面白さがあるからだ。デューラーは謎を問いかけてくる。単なる謎解きではなく、西洋の何千年にもわたる精神文化がデューラー作品に凝縮されていて、その意味を解いている。ヴェルフリンは形の上から作品を見ることを教えたけれども、ヴェルフリンに足りないものをエルヴィン・パノフスキー(1892-1968)をはじめとするほかの学者が研究している。パノフスキーは意味の面から探求していく。私はできるだけ、形と意味を組み合わせるように心がけてきた」と下村氏は述べた。
kunstはnaturに潜む
アルブレヒト・デューラーは、1471年にドイツ南部のニュルンベルクに、金細工職人であった同名の父アルブレヒト・デューラーと母バルバラの第3子として生まれた。6歳でラテン語学校に入学。1485年、父のもとで金細工師になる修業をする。翌年、地元の画家ミヒャエル・ヴォルゲムート(1434-1519)に絵画を学んだのち、当時の習慣にしたがって、1490年から4年間ライン河上流地方(コルマール、バーゼル、シュトラスブルク)を遍歴し、木版下絵作家として働いた。帰郷後の1494年、23歳のとき、父が決めたアグネス・フライと結婚。その直後、単独でアルプスを越えてヴェネツィアへ旅行した。1495年ニュルンベルクに戻って自身のアトリエを持ち、木版画作品を制作する。作品のサインに「A」と「D」を組み合わせたモノグラムを使い始める。1497年、最初の銅版画《4人の魔女》を制作。翌年には木版画の連作《ヨハネ黙示録》全15点を自費で出版し、版画家としての名声を確立した。油彩画に水彩画、デッサンに木版画、銅版画と制作の幅を広げ、1500年には「人体均衡論」の研究を始め、油彩画《1500年の自画像》を描いた。1504年、銅版画《アダムとイヴ》に取り組む。1505年に再びヴェネツィアに向かい1年半滞在し、1507年春に帰国。その年、油彩画《アダムとイヴ》を制作した。
デューラーの後半生は宗教改革の暗い時代で、社会は不安と閉塞感に満ちていた。1509年ニュルンベルク城の門前に屋敷を購入(現在のデューラー・ハウス)し、油彩画《ヘラー祭壇画》を制作(のちに焼失)。1510年代に入り版画制作が増えていく。絵画よりも儲けが多く、絵画に劣らない芸術とデューラーは考えていた。1512年41歳、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世がニュルンベルクを行幸され、これより帝室関係の仕事が始まる。1513年、銅版画《騎士と死と悪魔》を制作。1514年母が死去。銅版画《書斎の聖ヒエロニムス》《メレンコリアⅠ》を創作する。1525年最初の著書『測定法教則』を刊行する。1526年油彩画《4人の使徒》を制作し、ニュルンベルク市参事会に贈る。1527年、著書『築城論』を刊行し、翌1528年4月6日、ニュルンベルクで没す。享年56歳。聖ヨハネ教会墓地に埋葬された後、『人体均衡論四書』が出版された。
デューラーは画家を志す若者たちのために書いた芸術理論書『絵画論』の草稿で、美術にもっとも重要なことは「宗教・肖像・自然」であると書いており、下村氏は「美術家は所与の自然から自然らしい表現の基準となる原理を認識しなければならない。デューラーは美術家のこの理論的な認識作用を“kunst”という言葉で表わす。彼の有名な『kunstはnaturに潜む。それを抽(ひ)き出す者がそれを有(も)つ』という文は、理論的認識が自然から遊離したものに終わらず、自然の形態と質感の無限の多様さに、どこまでも対応しうるものでなければならないということを意味する」(下村耕史『世界美術大全集 第14巻』p.220)と述べている。
【アダムとイヴの見方】
(1)タイトル
アダムとイヴ(あだむといぶ)。英題:Adam and Eve
(2)モチーフ
アダム、イヴ、禁断(知恵)の木と実(りんご)と葉、蛇(悪魔)、地面、石。
(3)制作年
1507年。デューラー36歳。
(4)画材
板、油彩。
(5)サイズ
アダム:縦209×横81cm。イヴ:縦209×横80cm。等身大の裸体画としては、ドイツ絵画史上初めての作品。アダムとイヴを2枚に分けて描いた理由はわからない。一組と考えていい。
(6)構図
対幅の黒地を背景にした縦長画面で、斜め正面を向いたアダムと、鑑賞者へ向かってくるようなイヴが画面一杯に描かれた正面性の強い構図。上昇感を強調するドイツのゴシック様式とイタリアルネサンスによるギリシア・ローマの復興との均衡を保ちながら、全体とリアルな細部描写を統合するように組み合わせている。
(7)色彩
肌色、黒、茶、赤、緑、白、灰色、黄土色など多色。背景を黒く塗り、裸体像が輝くばかりの艶やかさで描かれ、動植物の彩りが生命感を加えている。アダムに青味を与え、イヴには白を多くして、二人の体の差異を微妙に表現している。
(8)技法
油彩。表情豊かな写実描写。髪の毛や瞳、手と足の指、蛇の頭など細部の表現が重視されている。
(9)サイン
アダムの画面右下とイヴが右手をのせる木の枝に下がる札に、画家名「Albrecht Dürer」の頭文字から取った「A」と「D」を組み合わせたモノグラムが記載されている。アダムとイヴの足元の大地の上に書かれた数字の意味は不明。
(10)鑑賞のポイント
紀元前8世紀頃に成文化されたとされるユダヤ教とキリスト教の正典である『旧約聖書』の冒頭「創世記」には神が地の土くれから人を造り、男から取った肋骨をひとりの女に造り上げ、二人とも裸で互いに羞じなかったとある。人類最初の男女の裸体像。デューラーは紀元前1世紀頃のローマ時代の建築家ウィトルウィウスの著書『建築十書』にある人体比例の規則(カノン)をもとに、人類の始祖を8頭身とし、ヴァティカン美術館の彫刻《ベルヴェデーレのアポロ》や、ウフィツィ美術館の彫刻《メディチ家のヴィーナス》のような古代人物像の姿勢に類似した一枚の銅版画《アダムとイヴ》(1504、24.8×19.0cm)を表わした。イタリア古典主義芸術に学んだ理想的な男子像、女子像の結果であった。その3年後に描いたのがこの油彩画である。アダムとイヴをともに9頭身に変え、アダムは両脚の間を狭め、イヴは両脚を交差させ、顔は宙を向いている。均衡の取れた銅版画の人体表現をデューラーはゴシック的に変化させ、細身の人体の不安定な姿勢に上昇感を加えて、生動感のある人体美を表現した。巻毛の金髪が風にひるがえるアダムの口が開くモチーフは、ドゥカーレ宮殿のアントニオ・リッツォ(1430-99)の大理石彫刻《アダム》(1485)からの借用と考えられ、イヴの右手下の札には「ドイツ人アルブレヒト・デューラー、聖母御出産後の1507年に作れり」と記されている。描かれた理由や版画を油彩画にした動機、制作依頼者などは不明。ゴシックの形態への回帰とも、盛期ルネサンス以後のマニエリスムの予告とも解される。スウェーデンのクリスティーナ女王が所有し、スペインのフェリペ4世に贈られたのち、諸王室を転々として、プラド美術館に所蔵された。後世の人体表現に大きな影響を及ぼしたデューラーの代表作である。
人類滅亡の危機の可能性
《アダムとイヴ》について、下村氏は「イヴは禁断の木の実であるりんごを手に持ち、禁断の木の実を食べてはならないという神の警告を無視して、アダムにりんごを食べるように誘う。『旧約聖書』によれば、それは原罪である。アダムとイヴは、これを食べたため自分たちが裸でいることが恥ずかしくなった。禁断の木の実というのは、別名知識の木の実という。知識が付いて物が見えるようになり、恥ずかしくなってイチジクの葉で性器を隠す。すると神は禁断の木の実を食べたと知り、二人をエデンの楽園から追放する。この油彩画はりんごを食べたあと、罪に陥った後の堕罪(だざい)の光景を表わす。それゆえ背景は暗く描写される。そこには、神から離れて自分の知だけを頼りとすれば、人類破滅の危機に陥るという可能性が示唆されている。『旧約聖書』に書かれていることは、合理的社会生活を求めて機械文明に頼りがちの現代的状況にも当てはまる」と述べた。
《アダムとイヴ》はパブロ・ピカソ(1881-1973)の《ゲルニカ》と比較すると、インパクトが弱いように見えるが、両作品の比較からわれわれは何を理解できるだろうか。「《ゲルニカ》以前には、二次元の画面に三次元的世界を錯覚させるいわば仮象の描写法が用いられていた。絵画は平面上にいかに立体感を出すかに苦心してきた。ではなぜ《ゲルニカ》ではキュビスムという新しい手法が用いられたのか。《ゲルニカ》は、人間性が破壊されつつあった1937年という時期に描かれた。ピカソは人間性のこのような破滅的状況を、三次元といういわば仮象空間の描写では表現できないと考えてキュビスムの手法を採用した。ピカソは仮象の描写法より、リアルな真実の表現の可能性をキュビスムに見たわけである。それに対してデューラーはドイツの中世末という、当時のイタリアに比べればいまだ薄暗い時代に生まれた。デューラーは教会によってがんじがらめに抑圧されていた当時の暗い社会を、理性の光に照らされた芸術の力で変えようとした。デューラーの油彩画《アダムとイヴ》は、ギリシア的な愛(エロス)を精神化して、それを人体美として表現することを目指している。そのためこの作品では美しいと見なされている比例が用いられている。しかし、この際考えなければならないのは、なぜデューラーは銅版画《アダムとイヴ》の8頭身から油彩画のそれでは9頭身へと比例を変えたのか、ということである。というのも比例の変更により、銅版画に比べて油彩画に感じられる人体の不安定な姿勢には、どこか示唆的なところがあるからである。私にはそれは創世記の上記の記述に関係するように思われる。つまり禁断の木の実の意味する、知識への抑制、換言すれば信仰から離れて人間の知性・知力にのみ頼れば、人類はやがて破滅に瀕するかもしれないというメッセージがそこに潜まされているように解される。極言すればこのメッセージは、ピカソの上記の作品で表現される人類の悲劇に通じるとも言えよう」と、下村氏は時代を反映した普遍的絵画作品の価値を語った。
下村耕史(しもむら・こうじ)
アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)
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【画像製作レポート】
参考文献