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「現代美術用語辞典 ver 1.0」から「Artwords(アートワード)」までの10年を振り返る
暮沢剛巳/足立元/沢山遼/成相肇
2013年01月15日号
2. 国際展とキュレーション/編集の問題
暮沢──この10年でいわゆる国際展も非常に増えました。旧バージョンではヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタ、ミュンスター彫刻プロジェクトなど外国の項目に限られていましたが、今ではすっかり日本でもおなじみになっています。「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」★24が2000年、「横浜トリエンナーレ」が2001年にスタートしていますが、最近では「あいちトリエンナーレ」など巨額の予算がついて海外のスターアーティストが来るようなものも出てきています。一方、「所沢ビエンナーレ」★25のような小規模な独自企画も出てきています。
成相──僕は「まちおこし」といわれるものに危うさも感じます。それが何よりも新鮮さや外部からの短期的な人・モノの流入を意味する以上、一過性を志向します。本来のお祭りが生活のエントロピーをひととき下げる機能を持つ文化活動であるとして、それはあくまで内部の持続を前提として一定のリズムで生まれるもので、現在まちおこしと呼ばれるようなものとは真逆の性質を持っている気がします。国際展自体が悪いとは思いませんが。ここ数年キュレーターとかキュレ─ションという言葉がはやるようになったのも、国際展の隆盛と同根の現象ですね。
足立──学芸員が国際展に関わることももちろんあります。ただ、継続的なものではない、その場限りの、通販のカタログ的な展示が増えていると思います。一握りのアーティストが世界中どこにでも顔を出し、あとは世界各国それぞれの国のカタログをつくり、それを入れ替えたりするような国際展になっています。実際に国際展のWebサイトではカタログになります。そのような状況によって得られるものと失われるものがありますし、やはりカタログに載りやすいアーティストと載りにくいアーティストの二極化も起きてきます。
成相──キュレーターになりたいという学生が出てきていることは時代の変化を感じさせます。言葉が先行している一方で方法論の蓄積がまだありませんが、気にかかるのはキュレーターという場合、往々にしてその仕事は「編集」であるとしばしばみなされることです。情報を選択し、レイアウトする、といったような意味で。極端な場合、作家を連れてきて展示させさえすればキュレーター、というか。けれど継続的な収蔵とアーカイヴのシステムと切り離せない学芸員には、ひとつの事象をひたすら追い続けたり、網羅的に資料を収集する能力が必要です。何も言い方にこだわったり根性論を言いたいわけではなく、もちろん個々人の仕事はどうであれ、バズワードとしてのキュレーターという言葉の裏に、ある軽視を感じるわけです。例えば図録の巻末にあるような資料部分は不要であると思われているような気がして。
沢山──成相さんを含めた学芸員の仕事というのは本来、ある研究の蓄積があって、それを展覧会によってアウトプットする、つまり何かを収集・陳列するだけではなく、書籍をつくったり論文も執筆するという、多角的なものです。だからこそ、学芸員は極めてマルチタスクで大変な仕事だし、展覧会というのはそもそも複数の表現形態を媒介・横断するそれ自体とても可能性のあるすごいフォーマットだということ。文章だけでは説得力を持たない議論も、展示作品を具体的なオブジェクトとして提示することで実証することができてしまう。つまり、展覧会とはそもそもマルチメディアです。多くの準備を重ね、資料の裏付けを得て、具体的なオブジェクト群によって論証もできるという意味では単に文章を書いているだけの僕からすればうらやましくもあります。けれどもそのような学芸員の仕事の雛形が近年失われつつあるように思われてしまうのですね。最近の美術展では本来であれば巻頭に掲載されるはずの研究論文がない、したがって誰が企画したのかも分からないカタログがつくられたり、企画者の選択の基準が曖昧なまま、作品だけが集められたような展覧会もあります。しかし、本当の意味での学芸員の仕事や編集の仕事は、そういうものではないのではないか。裏方であれば責任の所在、クレジットを明記しないで実務だけやればよろしいということにはならないのではないでしょうか。
暮沢──キュレーターという言葉は日本では1990年代に入ってから出てきたと思います。恥ずかしい話ですが、学生の時には知りませんでした。そのひとつのきっかけは、1991年に慶応大学で南條史生さん★26とかが講師として登壇するようになったことがあると思います。潜りで聴講する社会人も多かったと聞きます。学芸員というと、以前は大学で博物館学などを学び国家資格を取得して就職する堅実な職業というイメージがありました。制度上は今でもそうなんですが、それとは別に、1990年代初めに「アート・マネジメント」という言葉が出てきてキュレーターという学芸員と似て非なる仕事にスポットライトが当たるようになった。ハラルト・ゼーマン★27的な意味というのか、クリエーターとしてのキュレーターというニュアンスが入ってきて、美術系の雑誌でも特集が組まれたりあちこちの大学でそういったプログラムが開設されました。たとえば武蔵野美術大学には芸術文化学科ができましたね。
成相──英語でもキュレーション、キュレーティングといった動詞的用法は新しいようです。アート・マネジメントという言葉とキュレーターという語への注目はたしかにパラレルですね。美術館の「冬の時代」なんて言われるわけですが、その冬に対してどういう春や夏が想定されているのか。こうして断続的に各所に美術館ができている状況からすれば、いつだって「芸術の秋」かもしれない(笑) 美術館の経営状況の悪化というのは、日本のアート・マネジメント研究が作り出した概念ではないかとも思っています。企業に当てはめたら倒産状態だと言われたところで、それは過去から大きく変化しているとは思えません。
暮沢──そういった話題が多く出てきた頃に日本ミュージアム・マネージメント学会★28ができました。あれは乃村工藝社の主導だったかな。
成相──広島県立美術館で学芸員が監視員を兼ねるという最近のニュースには愕然としました。事情はわかりませんが、学芸員が生き残りのためにそこまでのアピールをしなければならないとは。昨年、目黒区美術館で予定されていた『原爆を視る1945-1970』展★29は、結局予算の削減によってお蔵入りになりました。あれだけの重要な企画が頓挫してしまったことは非常に悔やまれます。加えておけば、しばしば物差しに使われる入場者数は、比率もなしに単独で用いる限りまったく無意味な指標です。府中市美術館から東京ステーションギャラリーに移って、身を以てそれを実感している次第です。
沢山──なんというか、アート・マネジメントと呼ばれている概念は、芸術が経済的に自立できるよう働きかけなければいけないという誤解を伴って輸入されて定着してしまったと思います。しかし、アメリカに演劇関係の研究をしているウィリアム・J・ボウモル&ウィリアム・G・ボウエンの『舞台芸術・芸術と経済のジレンマ』★30という本があって、そこではまったく逆のことが主張されている。たとえば彼らは舞台芸術は経済的に自立し得ないと数字で実証し、それを前提とした上でアート・マネジメントの概念が成立すると言っているんですね。
暮沢──美術館は企業とは違って、エンターテインメント会場であると同時に、教育機関であり保存機関という前提があります。
成相──大阪市の橋下徹市長と文楽の問題がありました。「敷居が高い」と言われた大夫が「敷居削っとくから予算削らんといておくれやす」と返したのは傑作でした(笑) いや笑いごとじゃなく、もとより美術館などの文化施設には勝てっこない問題を突きつけられているわけで、数字としての実績を上げることよりも、そこをどう切り抜けるかの知恵が求められています。
暮沢──橋本市長といえば、大阪市立近代美術館はどうなるんでしょうね。何年もずっと準備室のままで、心斎橋の展示室も閉館してしまいました。佐伯祐三とか色々持っているのに。
成相──近現代の国内外の美術作品だけでなくデザインもカバーしていて、一級品ばかりのものすごいコレクションです。あれだけ集めたんだから一刻も早い建設が望まれます。準備期間のうちに定年を迎えて準備室を辞めてしまう人がいるような状況は切ないです。
沢山──現在の憲法では文化的な生活を享受することは基本的人権に含まれているわけですね。ですから、国家はそのような生活を保護する義務がある。文化的な享受といっても、そもそも味覚などの嗜好と同じように、文化的な嗜好を一元化できるわけがないのです。たしかに経済的に文楽の存在意義を測ることは可能でしょうが、そのような言説によって人の嗜好や味覚を変えることはできない。したがって、文楽の存在意義を測るということは、たとえばカレーライスの存在意義を改めて問うくらいに、滑稽なことのように思われるのですが。たしかにカレーライスもある人にとっては敷居の高いものかもしれませんけど。そもそもすべての事象が社会制度のなかで積極的な存在意義を見いださなければならないという強迫観念こそ倒錯しています。カレーライスが存在するように、文楽もただ存在する。文楽に限らず、料理や生活様式などを含めた文化など所詮は、ある特定の場所や人にとって存在して当然のものだから文化なのです。つまり、文楽があるということは、局所的に見えるかもしれませんが、文楽が存在して当然の場所や人間関係があるということ。ですから、文楽の敷居が高いと言うことは、逆説的に、それを言った当人もまた、文楽の敷居が高いと感じる局所的な、偏った場所にいるということを証明していることになる。であればその人自身が存在する場所も同様に「敷居が高い」ということです。そもそもある特定の文化的事象があっていいか悪いかという議論がおかしくて、なくていい理由がないからあるだけです。積極的にそれがあらねばならないという理由などありません。
暮沢──橋本市長は劇団四季を例に挙げて、文楽の集客努力の足りなさをツイートしていましたが、この件について、朝日新聞で赤川次郎さんが「客の数だけで優劣を比べるのはベートーヴェンとAKBを同列にするのと同じだ」と批判していました。あれだけ数字で結果を出している作家が「数字だけがすべてじゃない」と言うと説得力が段違いですね(笑)