1歳の子供と二人揃って流行り病に感染し、10月前半は5日間ほど看護と療養を兼ねた生活を送った。子供と親密に過ごす間は、自分の思い立ったタイミングで街に出て買い物をしたり、考えをまとめたりする時間をもつことはできない。子供が衝動的にやりたくなる遊びに付き合ったり、昼寝をさせたり、食事や風呂の段取りをしなければならないからだ。
1日の大半を家の中で過ごしていると、生活の細部がよく見えるようになってくる。食事の内容、睡眠時間、冷蔵庫の中身、洗濯物の量、昼寝のタイミング、いろいろな状況が頭の中に入り、すべての歯車が噛み合い、1日1日は綺麗に回っていく。その回っている歯車から心地良いリズムが聞こえ、満ち足りた感覚を味わうことができるようになってくる。
それでもなお、生活することと、仕事をすることは、どちらかを優先したければ、どちらかを犠牲にしなければならない、と打ちひしがれるような感覚にしばしば襲われた。「生活してばっかりで、世の中と向き合えていないのかも」と感じるきっかけはいくらでも転がっている。何度も蘇るこの憂鬱をそっと支えてくれたのは、この秋に開催された二つの展示の鑑賞体験だった。
時間を耕す牛島智子──「ホクソ笑む葉緑素」展
九州産業大学美術館で開催された牛島智子(1958-)の個展「ホクソ笑む葉緑素」(2024年9月14日〜11月4日)。牛島は、自身が生まれた福岡県八女市を拠点に、和紙や布・蒟蒻糊などを素材に絵画・インスタレーションなどを展開する作家だ。90年代末に関東から故郷・福岡へ拠点を移してから現在まで、長きにわたり発表を続けている牛島の活動に、近年ますます注目が集まっている。
「ホクソ笑む葉緑素」展は、牛島の母校である九州産業大学を会場とする凱旋展であり、過去から現在に至る牛島が作ってきた多種多様な作品とともに、牛島の活動最初期である高校〜大学時代の作品・資料をたっぷりと見せている。高校時代に手がけた版画や、大学在学中のデッサンや実験的な習作がいくつかの壁を埋め尽くし、表現の姿勢が50年以上変わらないことが垣間見えた。いずれも、今回初公開されたものである。展覧会に先立ち、本展の企画者で同館館長を務める大日方欣一氏は1カ月半ほど八女に滞在したという。企画者と作家とが濃い時間を共有し、信頼関係を築いたからこそ得られた収穫だろう。
「ホクソ笑む葉緑素」会場風景[筆者撮影]
展覧会名とメインビジュアルになっている絵画作品「ホクソ笑む葉緑素(別名「ヤ」シリーズ)」には、三角形と四角形が合わさった「ヤ」=家の形が描かれている。「家」は、牛島の制作や生活と分かちがたく結びついている。八女にある牛島のアトリエは彼女が産声を上げた場所であり、大学卒業後に上京し、東京や神奈川で活動していた牛島が、家庭の事情により引き戻された場所でもあり、現在の生活拠点でもある。牛島は、ときに自身を「家つき女」と呼び、作品には畑を耕す、食事をするといった暮らしの細部が溶け込んでいる。本展示会場においても、天井に届くほどの高さの箒で床を掃く女の人形が牛島の分身のように来場者を出迎える。女性と家事労働を結びつける伝統的な性役割に沿うのではなく、「手を動かしていないと腐ってしまう 」★1といったトークでの発言からも伺えるとおり、彼女が労働そのものから生まれてくるリズムを自身のクリエイティブの養分にしていることを随所で感じさせられた。本展示で筆者が目を見張ったのは、「ハクリファイル」という新作シリーズである。これは、経年劣化により絵具が剥離している過去の作品を、ひと回り大きな新たな額縁に入れ、その作品に呼応する描画やコラージュを加えるものだ。支持体から絵具の層などが時間の経過と共にめくれた「剥離」の状態は、一般的には鑑賞に耐えないと判断する指標となり、美術館の所蔵品であれば修復処置の対象となる。しかしながら、「ハクリファイル」におけるこの要素はフレームの中に包み込まれることによって、過去から現在に突き抜ける地響きのように、予定調和を崩す愉快なノイズのように映った。
「ハクリファイル」シリーズ(「ホクソ笑む葉緑素」会場風景)[筆者撮影]
同様にして、美術館のガラスケースを用いた過去の作品と多角形のオブジェなどが層をなしているゾーンがある。これらは納屋のイメージで設置されたものだ。雑多な布や紙が折り重なるさまは、お世辞にも美しいとは言えない。しかしながら、自らの足取りを豊かな土壌として何度も耕し、また新たな創作が芽吹くという牛島の活動の姿勢がそこには具現化されていた。
自身の足取りや経過した時間を、単線的なものではなく、どこからでも語り直す=耕すことができる土壌のようなものとして取り扱うアプローチは、これまでの展示★2にも見て取れたが、本展においては、フレームやケースのように本来であればノイズを除去し作品を整然と見せるための装置が用いられることによりその姿勢が際立っていたように思う。長年の活動の厚みは、蚕が糸を吐き出し作り上げた繭玉のごとく、複雑な構造体として姿を現わし、「こうやって手を動かしながら考えて作るのが、私にとって自然なんだよ」と、訪れた人の手を取りながら語りかけてくるかのようだった。
「フレーミングと集積」(「ホクソ笑む葉緑素」会場風景)[筆者撮影]
知るために潜る山内光枝──「泡ひとつより生まれきし」展
博多港からジェットフォイルに乗り、3時間30分ほどで対馬・厳原港に着く。高速移動に伴う船酔いに口元を押さえ、ふらふらとしながら10分ほど歩くと、2022年に開館した対馬博物館のモダンな建物が見えてくる。対馬博物館で開催された山内光枝(1982-)の展示「泡ひとつより生まれきし」(2024年7月13日〜9月23日)にも、どこか牛島の展示と響き合うものがあった。
山内は、2010年ごろに対馬・厳原町の東にある、漁業を専業とする集落・曲(まがり)地区の海女の写真に出会い、現在に至るまで、海女とその文化に深く関心をもち、制作の主題としてきた。自ら済州の海女学校に通って潜水の技術を身につけ、福岡・鐘崎、長崎・対馬、韓国の釜山といった黒潮・津島暖流域の浦々でそこを拠点とする海女たちとの関係を築きながら、作品を制作してきた。作品に共通して響いているのは、海が人と人をつなぎ、文化をつなぎ、歴史をつないできたという事実である。近年の映像作品《信号波》(2023)は、祖父母が日本統治下に釜山に住み、そして海を渡り日本に引き揚げてきたという自身のルーツを追究するものであり、自身の生が海をつなぐ物語の一部であったことに触れた内容が静かな反響を呼んでいる。
今回の展覧会では、曲地区の海女に焦点を当てる。曲の海女を母にもつ住民が復元制作した船の模型、実際の漁で用いる道具や資料、山内が2010年ごろに見たという民俗写真家・芳賀日出男による海女の写真などが、山内の近作・新作の絵画・映像作品とともに展示されている。一般的に、博物館に展示される資料は保存や安全のため来場者が触れることを禁じるものだが、船の模型と漁の道具類には「もって、さわって、かんじてみんね。」というキャプションが貼り付けられており、思い思いに手に取ることができる。来場者は、海女文化や、海をめぐる曲の人々の暮らしに、おっかなびっくりと接することになる。例えば、腰に直接締めて道具をさすための「ハツコ縄」。それらは硬くなわれ、しめ縄のような厳粛ささえ感じられるものだった。
曲の漁村で用いられる道具の数々(「泡ひとつより生まれきし」会場風景)[筆者撮影]
山内による新作《泡ひとつよりうまれきし》は、素肌に先の縄をはじめとする道具を身につけた、伝統的な裸海女の姿で海に潜る作家自身の姿を収めた5分ほどの映像作品である。身ひとつで海に潜る山内の姿とともに、十数年来の思いが語られ、また、海女の母をもつ住民から言われた言葉が字幕で示される。「どんなに調査しても研究しても想像しても、理解できるもんが違う。内に持っとうもんが違う」。山内はこれを受け止め、どうやっても海女そのものにはなれないという事実を痛感しながら、深く、深く潜っていく。潜ること、呼吸とともに生じる泡のつらなりは、それでも近づきたいのだという山内の想いであり、人間の儚さ、さらには海が生み出してきた命の象徴にまでも感じられる。
会期中に行なわれたトークイベント★3は、博物学、民俗学の研究対象、観光資源としての海女文化という話題を通して、山内のスタンスが浮き彫りになる興味深いものであった。なぜ海女を主題とするのか問われ、山内は「命の単純さ、複雑さ、豊かさがあるから」と言っていた。また、作品の主題であるとはいえ、海女とひと言で括ることはしたくない。一人ひとりが生きた人間であり、人生があることを無視してはならない、ということを述べていた。
「秀子おばあちゃん」と、若い頃の海女姿の写真(「泡ひとつより生まれきし」会場風景)[筆者撮影]
先に紹介したように、本展では、会場にある模型や道具が触れられるようになっており、来場者も、この作品を自分ごととして感じることを促されている。鑑賞後、私は海女のように、山内のように、単純に、複雑に、豊かに生きているだろうか、と自問した。海に潜り、豊かに生きる海女たちに心を動かされ、自分も少しでも近づきたいと行動しつづける作家の姿勢は、海女たちと同じくらいに眩しく見えた。
曲で漁を営む梅野家に伝わる、300年前の素潜りで採ったアワビ貝(「泡ひとつより生まれきし」会場風景)[筆者撮影]
二つの展示から
牛島智子と山内光枝の最新の個展は、ともに、何かを拒否しながら、日々のしごとを営む生活者の態度に重心を置いている。
牛島の場合、単線的なストーリーや時系列順の整理でまとめられることを拒否している。複雑な時間軸が織り込まれたものとして作品やアーカイブを提示し、有機的に手を動かしながら、畑から芽吹いたものに身を任せて作品を作るという、生活とひと続きの態度を取っている。
山内は、客観的な観察者の立場に身を置くことを拒否している。「海女の子」からみればよそ者でしかないという一定の事実を受け止めながら、道具を身につけ、潜り、身体感覚でもって海を生業の場とし、日々を生活することへの尊敬の念が作品のなかに表われている。展示においても、訪れた者が並べられた作品をただ見るのではなく、一人ひとりが触れ、感じることを促していた。
ここまで書いてきて、何か胸の奥がざわざわとするのを感じている。美術館で働いていると、時系列に沿った整理や、客観的な記述が基礎的な業務として求められることが多い。曲がりなりにも自分のなかに染みついている原理原則と、二人のアプローチは相反しているから、引き裂かれるような感覚になるのかもしれない。しかしながら、二人の作品や活動は、その原則を突き破るゆえに、ミュージアムがどのように表現に寄り添うのかというヒントを与えてくれるのと同時に、再生産労働と職場での業務との両立に悩む、一個人に希望の光を見せてくれるものでもある。皿を洗う、洗濯物を取り込む、古くなっている食材がないか確認する、そうした暮らしのリズムを大切にすることが、よい仕事につながらないわけはないのだ。
★1──「講演+鼎談 牛島智子を語る」(2024年10月4日、九州産業大学にて開催)
★2──近年開催された回顧展に、「牛島智子 2重らせんはからまない」(福岡県立美術館、2022)がある。
★3──「泡ひとつよりうまれきし 山内光枝展関連イベントクロストーク」(2024年9月22日、対馬博物館ギャラリーにて開催)。登壇者:山内光枝氏、石原真伊氏(鳥羽市立海の博物館)、棚木晴子氏(株式会社芳賀ライブラリー)
九州産業大学美術館 卒業生プロの世界vol.9:牛島智子 ホクソ笑む 葉緑素
会期:2024年9月14日(土)〜11月4日(月)
会場:九州産業大学美術館(福岡県福岡市東区松香台2-3-1 九州産業大学芸術学部15号館1階)
公式サイト:https://www.kyusan-u.ac.jp/ksumuseum/tennji/#tenji1524
泡ひとつよりうまれきし 山内光枝展
会期:2024年7月13日(土)〜9月23日(月)
会場:対馬博物館(長崎県対馬市厳原町今屋敷668-2)
公式サイト:https://tsushimamuseum.jp/exhibition/1770/
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