
アーティスト:小林企画(小林遼、志村翔太、涌田悠、有吉宣人)
会期:2025/03/08〜2025/03/09
会場:さいたま市内各所
公式サイト:https://artscouncil-saitama.jp/programs/yaki-kaifu/
1994年にアメリカで発行された『CARS-R-COFFINS』(以下、CRC)というZINEがある。CRCのシンボルは、車輪がついた十字の描かれた棺桶で、ナンバープレートには666。BMXやスケートボード、パンクロックといったアクティビズムでもあるカルチャーに影響されたCRCの面々は、緊急事態や長距離移動における自動車の便利さは認めつつも、数キロの距離にすら自動車を使うことが当然になってしまった社会にNOを突き付ける。
“TO THEM, CYCLISTS ARE SO MUCH ROAD KILL. TO ME, CARS-R-COFFINS. DON’T GET BURIED ALIVE.”★1 THEMは自動車利用者たちを指す。道路を分け合う者として、相手も自分たちを疎ましく思っていることはわかっている。だがそれでも、そこは棺桶だ! 生き埋めにされるぞ! とCRCは呼びかけている。ボールペンで書かれたすべて大文字の序文は、まるで話しているかのようなテキストだ★2。30年前のテキストに、私は誰かの顔を、彼や彼女がどこかの街を自転車で進む姿を思わず想像している。自転車に乗る身体は、剥き身で都市に対峙してきた。それぞれに上げてきた声がある。
アーティスト・イン・レジデンスさいたまに採択された小林企画による最新作《“夜騎開封” さいたま←→鄭州》は、参加者の自転車移動により進行するツアーパフォーマンスである。さいたま市の姉妹都市である中国・鄭州で流行した自転車ツーリングの夜騎開封と、中国残留孤児の記録が、自転車移動の先々で出会う風景を前にオーディオガイドとARによって語られる。参加者は①自転車をレンタルするHello Cycling/②オーディオガイドが埋め込まれたSafari/③ARで風景にCGを重ねて見せる重逢機CFJ/④中国国内をストリートビューする百度地图/⑤掲示板形式のSNSであるWeiboといった5つのスマートフォンアプリを停車時に用いる。複数のアプリを用いるのが当たり前になっている私(たち)であっても、本作の複数アプリの利用には手間取る。普段の私(たち)は、友人と話していて気になったお店をウェブブラウザで検索し、お店のレビューやレポートを読みながら、そういえばこれはどこにあるんだろうと地図アプリを開いて立地を確認し、ブックマークに入れたり、スクリーンショットを撮ったり、その間も会話を続ける。一方の本作は、オーディオガイドを再生するごとに、起動すべきアプリが指定されている。そのうえでするべきことは、オーディオガイドから聞こえてくる。普段は無意識に行なうような操作を、ここでは促され、先取りされた指示を追うように進める。スマートフォンもイヤホンも、借りたものだ。決められた台詞を読んだり、身振りを行なうような、演技とも呼べることを私(たち)はしていたように思う。
オーディオガイドから、例えばこのようなささやきが聞こえてくる。
「あなたは、畦道に仰向けに
指示されたり、頼まれたりしたわけでもない。「仰向けになった」と決めつけられたわけでもない。わずかに未来の身振りが自然と起きることかのように述べられる、演劇台本におけるト書きのようだ。だが、インストラクションに沿っても沿わなくてもよいのだと、ささやくような声と語りの文体で私(たち)は理解する。貸与されたイヤホンの特性も相まって、声の主はつねに耳元にいるようだ。その言葉に沿えば、私の身体が別の身体に変わっていこうとするし、沿わなければ、声と私の解離がむしろいまここにいることを鮮やかに感じさせる。
このインストラクションは、集合場所を出発し、最初にやってくる地点のシーン1で聞くものだ。ほかの数名の参加者とスタッフの姿は見えなくなり、私の目は青空に流れる雲を追い、遠く鄭州を想像した。オーディオの配信ページには、どのアプリをどのタイミングで起動するかの指示がある(これは明確に指示として受け止められる)。指示はあったが、畦道の真ん中で、遠くの土地のストリートビューを覗くのはすぐやめてしまったことは書いておこう。こことそこが似ているかもしれないことは、比べなくてもわかってしまった、と私(たち)には思えたからだ。かつて訪れたいくつかの国のいくつかの道でかいた汗や感じた暑さを私(たち)はすでに思い出していた。いまいるこの場所も初めて訪れた。それでも、聞こえてくる声で、ここはすでにどこかに変わってもいた。一団の先頭を走るガイドの背負ったスピーカーからは、道中たまに四つ打ちの音楽が流れる。ただ自転車を漕いでいただけであったのに、いくつかの国ですれ違った、音楽とともに自転車を走らせていたいろいろな人々の姿が思い出される。刺すような寒さのなか、導かれるままに走り続ける。川を渡る有料道路の上から眺めた一帯の、不安になるようなどこでもなさ!★3
前述したシーン1でナレーションを聞きながら目にする百度地图に映る鄭州の畦道と、実際にいる浦和美園の畦道[筆者撮影]
本作ではARが複数シーンで用いられている。シーン0と5では、画面に映る身体に私(たち)の身体を重ねるという特徴的なインストラクションがある。小さくも深い森で暗い歴史へ潜っていくようなシーン4では、(スマートフォンというデバイスに伴う身振りや機材そのものの意味が未消化ではあるが)ARに映る人影と身体を重ね、やがて離れるインストラクションが、聞こえてくる語りとともに強い印象を残す★4。一方、シーン2においては鄭州の群衆を、シーン3においては前述した中国残留孤児の像を、私(たち)は見る。たしかに、川面に浮かぶひとりの女性の姿は、思い出すことを補強する。だが、正直に言うなら、おそらくスマートフォンの画面越しにその像を見なくとも、聞こえてくる「私はまだ、帰れない。」という声だけで、私は十分彼女のことを忘れられなくなっている。むしろ、あの姿を見てしまったことで、彼女も、あの話も、あそこへ置いてきてしまったような気がする。声はずっと耳元でしていたにもかかわらず、だ。
ところで、始まりは4人の大学生たちの思い出作り──鄭州から50キロ離れた開封へ湯包を自転車で食べに行く──であった夜騎開封は、最終的には数万人規模になったという。この規模感で起きる自転車による路上封鎖は、クリティカル・マスと呼ばれることがある★5。クリティカル・マスがは1992年にアメリカで始まったとされており、以降も世界各地の主に大都市で「発生」している。機会ごとに、全体としてあるいはさまざまな主張を掲げて走ることもあるが、根本的には、大勢で集まって自転車を走らせていることそれ自体がすでに社会的な主張である。自動車中心の大都市で、自分たちの思うように集まり過ごすことを求める実践と言える。
クリティカル・マスの特徴は、階層化された集団ではなく、自然発生的に広がっていった大勢であることだ。こうして発生した大勢は、互いの安全を互いに守り合う。例えば交差点を通過するとき、大勢であれば進入してくる車両を抑えて自分たちが通行しきることができる。この、大勢たりえる閾値がどのような数字であるのかは明確ではない。数十人、数百人、数千人、数万人。それぞれの都市に対して閾値たりえる数があるのだろう。クリティカル・マスの始まりも、映画の上映を見に行く呼びかけが膨らんだものだとされている。始まりはいつもささやかなものだ。大勢になったからといって同じ熱狂のなかにいるわけでもないし、個々を尊重することと大勢であることは両立するはずだ。
だが、だからこそ、二つの話を引き受けて、あるいは引き連れていたこの試演では、そこにいる人と“一緒に”走ることがなにより難しかったと、正直に書いておこう。二つの話が重なっていくのはいまここであるのに、数人ばかりの同行していた人の姿を思い出せない。
私たちは集まっていた。互いに語らいえたのかもしれない。「ただし、肉饅は食べません」という作品説明を反故にしてでも、食べましょう、と次は言ってみたい。まず、口を開かなければ。
新見沼大橋の入り口。橋の中央でシーン2を鑑賞する[筆者撮影]
★1──rはareのスラング。CARS-R-COFFINS.はCars are coffins.の意。
★2──すべて大文字で書くのは、一般的には強調の意味合いとされる。また文章の内容によっては怒気として伝わる。読む速度を遅らせる効果もある。
★3──新見沼大橋(有料道路上のため自転車通行料は20円)より眺めた見沼。現代の鄭州や、中国残留孤児の物語を聴く背景とするにはあまりに強烈な風景だった。自転車で移動してまわる一帯について作中では言及されていない。
★4──シーン0はすでに集合してはいるものの、本編は始まっていないという位置づけでチュートリアルにあたる。デバイスの操作や、オーディオガイドに導かれ、ARに身体を重ねる練習を参加者は行なう。
★5-1──クリティカル・マスは主に政治で用いられる用語でもある。例えば何か意見があって声を挙げている人がある人数を超えてきたとき、その声は無視できないものとしてマス massとして扱われるようになる。だが留意したいのは、それをクリティカルだと判断するのは、つねに力を持つ側であるという点だ。自転車カルチャーにおけるクリティカル・マスでも閾値を超えることの政治性は重要だが、それがクリティカルかつマスであることの判断のあり方は異なる。自転車カルチャーにおいては、それを自分たちで決めている。
★5-2──クリティカル・マスの原型となる大勢での自転車移動は1970年代にすでに起きていたという話もある。また、デモ行進のような徒歩移動を起源に見ればはるかに遡れるのは言うまでもない。
参加日:2025/03/09(日)