上演:2026/04/19
会場:六行会ホール[東京都]
公式サイト:https://www.kemuri-ga-tatsu.com/2026


前編より)

さてさて、舞台はいっそう混沌として。ひたすら「さるかに合戦をしています」と口にし、近隣のポートから借りてきたLUUPで舞台上を走り回り、ルームランナーの上で走り続け、ジャンピングシューズを履いてよろよろと蠢き、大便をスキャンした3Dモデルをアバターに踊り、ウィル・スミスがスパゲティを頬張り★3 、狂ったようにY.M.C.A.の手振りを繰り返し、レーザーが肛門を照らす。おそらく「さるかに合戦」で子ガニの復讐を助けるハチ、クリ、牛糞、臼たちが現われて、すったもんだを繰り広げているのだろうが、実際のところ誰が何をしているのかはほとんど判別できない。そもそも舞台序盤から、カニを演じているはずのJACKSON kakiの動きにサルが同期する瞬間が何度もあり、テクノロジーと身体の分かち難さは暗示されていたわけだけど、これは物語的には一大事で、サルとカニ──加害者と被害者──が分離できないのなら、復讐の矛先は行方不明になるしかない。

というわけで、必然的に舞台を統御する物語の時空は壊れ、無時間的で無目的な肉体のショウが垂れ流され始める。それは一見派手なだけのアクションシーンがかえって眠気を誘うのにも似て、なるほど「手垢のついたスカム的な表現に堕している」「自由さなどなく退屈」と批判したくなるのももっともだろう。とはいえ、そうした紋切り型の退屈さを、かけがえのない身体が背負ってしまったことの持つ迫力については、立ち止まって考えてもいい。人間は蓄積しない。積み上げて積み上げて積み上げても、個体が死んだら一からやり直し。もちろんそうした問題への抵抗が歴史や物語ではあるのだけれど、根本的に避け難い部分はあるし、そうした避け難さを寿いできたのが舞台芸術だったはずで。誰かの生が一回あればよかったのなら、キリストが生まれて死ぬだけで充分だった。しかしそうではなかったから、キリストは蘇って、その子らにあたる僕らもずっと生きたり死んだりを繰り返している。ハナからすべて焼き直しだと分かりつつ、それを実際に身体において引き受けるところから、人生は始まっている。その意味においてはむしろ、時代や条件も異なる身体が、それでも同じものを自ら焼き直しているということ自体を、ある種の希望だというのは流石にナイーブか。でも例えば、本作で文字通りの通奏低音を成しているHAIZAI AUDIO(Instagram)のノイズを見てみたらどうだろう。ノイズはテクノロジーの音楽であると同時に、偶然性と一回性の音楽だ。というよりも、ノイズはテクノロジーにも一回的な身体が宿っており、それは──空気の震えを通じて──僕らに重なるんだということを叫ぶためにこそ鳴るんだな。

同時に僕は、そういった焼き直しの退屈の中で何かが形骸化していくということこそが、外部的なものを招くとも思っているわけです──例えば儀式とか。もともとは何らかの必然性に基づいてつくられた身振り手振りが、繰り返される中で形骸化し、物語から乖離していく。そうしてソフトとハードが切り離されたとき、ハードは初めてソフトを交換可能な依代になれる。さっき列挙したLUUPやルームランナーといった道具立てはJACKSON kakiの過去作からセルフ引用されたもので、それはさながら自分の表現史でセトリを組んでいるようだ。

死んだはずのJACKSON kakiの肉体はダンサーたちに担ぎ上げられ、舞台下手から射す劇的な光の中で、まさしくキリストのように復活を遂げる。それはもはや、親ガニとしての身体ではない。そしてサルもまたその姿を見せることはなく、ただ1台のドローンだけが上手から飛来する。ドローンはJACKSON kakiの腹にぶつかり、弾き落とされる。再び飛び上がったドローンが近づき──今度はJACKSON kakiの唇にそっと触れる。終劇。序盤においてテクノロジーに屈服させられた身体が、復活の末にテクノロジーを弾き返す。しかしそれは単なる主従の逆転ではなく、最後に身体とテクノロジーは幸せなキスをして新たな関係性へと至る──なるほど綺麗です。だが、腹への接触が「弾き返し」に見え、口への接触が「キス」に見えるというのもまた、ひとつの文化的コードにすぎない。どちらも単なる「接触」の話だったのに、なんで僕らが受け取る印象はこうも異なるのだろう?

赤いシミをつけた巨大な布が日の丸のように掲げられ、その上でドナルド・トランプが踊る。アフタートーク★4 の中で、「かつてなく自由にダンスを名乗るための煙が立つ会」ディレクターのひとりである志賀理江子は、本作のこうした「スカムさ」にひとつの疑問を投げかけた──そもそもスカムとは、清潔な近代都市文化へのカウンター表現であり、清潔さがあればこそスカムは反逆たりえた。じゃあ、近代都市文明の限界が露わになった現代において、古代の物語である「さるかに合戦」を引きながら表現されるべき本作の「スカム」とは、もっと異なる姿をしていてもいいのじゃないかと。

劣悪な衛生環境が招く感染症に悩まされていた19世紀パリにおいて、ジョルジュ・オスマンによる大改造★5 は新たな都市をひらいた。無菌状態の希求を「清潔」と表現する近代都市のオブセッションはここに由来するわけだけど、当然、近代都市が生み出した問題は他にも無数にある。個人的な直観にもとづいて、それらを大きく「テクノロジーと接触をめぐる問題」として捉えてみたい。例えば、人間と人間が徒歩ですれ違うぶんには何の問題もなかったのに、これが自動車と自動車になった途端、そこでの接触は死を伴う事故へと変わった。あるいは、移動のスケールの拡張が世界的な感染症を増加させ、従来ある特定の集団内で完結していた感染と免疫獲得のサイクルは、世界を巻き込んだ接触の物語として語られることとなる。テクノロジーと接触。それともテクノロジーと「の」接触? ドローンとJACKSON kakiの接触を僕らが固唾を飲んで見守るのは、そこに無数の可能性が重ね合わされているからだ。例えばドローンのプロペラによって切り裂かれたJACKSON kakiの腹から臓物がまろび出る瞬間を、あるいは切り裂かれた口から真っ赤な歯茎と白い歯が覗く瞬間を。

同じくアフタートークでJACKSON kakiは、舞台の枠を飛び出して観客とインタラクションするような演出を採用しなかった理由について触れている。JACKSON kakiはクラブをはじめとした「オルタナティブな表現空間」──はじめから演者と観客が自由にインタラクションする、何でもありの空間──で表現を培ってきた。だからその一見した掟破りこそがJACKSON kakiにとっての王道であり、いまや世代の王道でもある。だからこそ、その王道がプロセニアムの内側に収められるときに何が起こるか、その反応に向き合いたかったのだと。

哲学者・千葉雅也は「フレーミングとオブジェクト──長坂常のリノベーション作品について」(『B面がA面にかわるとき』[増補版]、2016、鹿島出版会)で、こうした作品とフレーミングをめぐるアンビバレンスを語ってる。長坂常といえば、僕らが見慣れたダサい日常風景や、過剰に意味が付着したかっこよくない家具──本稿に引き寄せて、スカムなオブジェクトといってもいい──を、クールに提案し直すことに長けた建築家だけど、千葉はそんな長坂の表現がなぜかっこよく感じられるのかを追っていく。つまりスカムなオブジェクトたちは、半ばホワイトキューブ的な適度にのっぺりとした空間によってフレーミングされ、その上に並び立っているからこそ、異質さをかっこよさとして立ち上げられているのではないか、と。ここで千葉が意識しているのは哲学者グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論★6 と、マイケル・フリードが言うところの「演劇性」だ。汲み尽くせない質を湛えたオブジェクトたちがバラバラに隣り合う状態が効果的に成立するには、演劇的なフレーミングの洗礼を受けなくてはいけない。型があるから型破り、型がなければ……というわけで。フレーミングはオブジェクトのつかみどころのなさを際立たせると同時に、そのつかみどころのなさの範囲を限定する。

フレーミングのためののっぺりとしたフィールド。これは、モデルが配置される前の3DCG空間のイメージにも近いでしょう──とここにおいて、本作の舞台空間とJACKSON kakiの表現のふるさととしての映像空間は重ね合わされる。あるいは何でもありのクラブ的空間とは、単にフレームの内側に鑑賞者も含めた全員が入り込んでいるというだけであって、フレーム自体が壊されていたわけじゃなかったんじゃないか? フレームのあちらとこちらを争うのは、サルとカニが争うくらいには歴史的かつどうでもいいことだ。そこに残されているものがあるとすれば、それは例えば、フレームの中にあってなお、何かがだらしなく漏れ出てしまうということではなかろうか。インタラクションならざるインタラクション。互いが徹底的に無関係なまま、それでもすれ違いざまに肩が触れた気がしてしまうということ。妄想の交通事故。木場公園のテントで、僕の肉体を押すでもなく押したあの手。そのようなかたちでの表現はいったい、意図的に成立しうるのか。と、ひとまず僕はそんなことを思ったりしたのでした。

ずいぶんだらだらと話してしまった。えーっと、何の話だったか。そうして、自由になるべき身体とやらの到来は、いつまで経っても先延ばしにされている。でも同時に、退屈なほど反復されながらつきまとってきてもいる。僕らは示申(ゴドー) を待ちながら、自分の腹をドローンのプロペラが切り裂くさまを画面越しに見ている。そこに痛みはなく、溢れかえる臓物はアプリのエフェクトで宝石のように輝いて、数秒のうちにリールの上を滑り去っていく。気づけばあたりを満たしていた血は消え失せて、僕らの指はメッセージも書けずにスワイプを繰り返す。残ったのは吐き散らされたカニカマくらいのもので、縦横に絡まったその筋はいかにもメッセージめいているけど、まだ読めない。

⚫︎STOP

 

★3──AI Will Smith eating spaghetti pasta (AI footage and audio), https://youtu.be/XQr4Xklqzw8?si=YE7INLNKfZQ9KrRU
★4──かつてなく自由にダンスを名乗るための煙が立つ会|アフタートーク|JACKSON kak・志賀理江子・やんツー・塚原悠也、https://youtu.be/Hi1GaddmvFU?si=9G762f9Zn7hHwhoX
★5──「オスマンのパリ大改造」(2021、一般社団法人大都市政策研究機構)、https://imp.or.jp/wp-content/uploads/2021/10/special-1.pdf
★6──『四方対象:オブジェクト指向存在論入門』(2017、人文書院)

鑑賞日:2026/04/19(日)