会期:2025/04/12
会場:兵庫県立芸術文化センター 阪急 中ホール[兵庫県]
公式サイト:https://www1.gcenter-hyogo.jp/contents_parts/ConcertDetail.aspx?kid=5056110406&sid=0000000001
ウィリアム・シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は、単に家どうしの政治抗争に巻き込まれた悲劇のラブロマンスではない。モンタギュー家とキャピュレット家という「個人の上位に位置する審級」によって、各家に所属する者の「結婚」の可否が判定され、「悲劇」を生み出す駆動力となる。サイトウマコトが構成・振付・演出し、総勢27名のダンサーが迫力ある群舞を繰り広げる本作の要諦は、単に台詞のない身体表現で物語をなぞって消費するのではなく、古典をいかにクリティカルに読み替えられるかという問いにある。本作の意義は、『ロミオとジュリエット』という異性愛主義と家父長制についての古典的物語を、クィアなものとして読み替え、「ジェンダーとセクシュアリティについての支配的な物語そのものの死」として奪取する解釈を示した点にある。
本作は2021年に初演され、第76回文化庁芸術祭優秀賞を受賞した。演出のポイントは2点ある。①女性=赤/男性=青というステレオタイプなジェンダーカラーの強調。②再演にあたり、「ロミオとジュリエットのペア」をもう1組用意し、かつ2組のペアに複数の対照性を与えたことだ。
舞台上では、それぞれ下手側に赤いライン、上手側に青いラインが奥へ伸びる。ジュリエット側のキャピュレット家に属する者たちは赤い衣装をまとって赤いライン上に並び、ロミオ側のモンタギュー家に属する者たちは青い衣装をまとって青いライン上に並び、対立する勢力どうしの兵士の隊列を思わせる。チラシのデザインでも赤と青の線がもつれ合い、乱闘の軌跡や容易には解きほぐせない構造の複雑さを示唆する。「赤/青」に厳格に振り分けられた色彩の象徴性は、ジュリエット/ロミオ、女性/男性、キャピュレット家/モンタギュー家という二項対立と重ねられることで、強固なシスノーマティヴィティの謂いでもある(シスノーマティヴィティとは、出生時に割り当てられた性別と性自認が一致するシスジェンダーを、唯一で正しいノーマル[規範]とする思想を指す)。つまり、キャピュレット家に生まれたジュリエットは「女性」という敷かれたライン上で生きることを要請され、モンタギュー家に生まれたロミオも同様に、「男性」のラインに従って生きることを定められている。
[撮影:井上大志 ]
[撮影:松本豪 ]
ただし、本作の肝は、ロミオ役を女性ダンサーが演じる点にある。台詞は一切ないものの、指先まで神経が行き届いた繊細さと、生き生きと全身で感情を表現して踊り、お互いに強く惹かれ合う様子を表現するのが、ロミオ(斉藤綾子)とジュリエット(池田由希子)だ。特に、デュオにおいて、左右対称のシンメトリカルな構造でユニゾンが多用される振付は、2人が感情的に強く共鳴していることを身体表現として明確に伝える。
[撮影:井上大志 ]
一方、舞台上には、もう1組の「ロミオとジュリエット」が影や亡霊のような存在として登場する。沈んだグレーの衣装をまとい、表情も動きも硬いこの2人は、男性ダンサーと女性ダンサーの「男女カップル」であり、動きのユニゾンが一切ない点が重要である。デュオでは、後ろに立ったロミオが、「リードする」というより、背後から操り人形のようにジュリエットの身体を動かし、異性愛主義における支配者としての男性を示唆する。この「もう1組のロミオとジュリエット」は、「規範的な異性愛の男女カップル」であり、「異性愛主義と家父長制」という強制的なシステムに「適合」している人間である。だが、感情を硬直・喪失させた2人は、暗いグレーの色彩もあいまって、システム内部に囚われ、抑圧されていることを暗示する。
[撮影:井上大志 ]
今回の再演では、この「もう1組のロミオとジュリエット」が追加され、対照性が際立つことで、女性ダンサー2人が演じる「ロミオとジュリエット」が、感情的に共鳴し、互いに強く惹かれ合いつつも、異性愛主義やシスノーマティヴィティといった規範が支配する世界で引き裂かれる存在であることが浮かび上がった。秘密裡に「結婚」を誓うも、両家の構成員=規範的な性の支配構造に従う者たちによって引き離され、システム内部に居場所がなく、自死に追いやられる2人は、クィアの謂いとして読むことができる。
斉藤の演じるロミオの性自認やセクシュアリティは明言されないが、身体的な暴力という形で迫害を受ける。また、ジュリエットに降りかかるのが、家父長制における「性の管理の対象」「所有物」として女性の身体が扱われるという暴力だ。ジュリエットは、父親や乳母とのデュオでは、意思のない操り人形のように動かされる。また、ロミオと一目惚れする舞踏会のシーンでは、女性としての性的な目覚めを暗示する「赤」の衣装で踊るが、舞踏会の後、乳母によって「ほぼ白に近いピンク」の衣装に強制的に着替えさせられてしまう。家父長制の支配下では、「結婚」するまで純潔な処女性を維持することが「至上の価値」とされるからだ。両親に無理やり別の男性と結婚させられそうになったジュリエットは、服毒自殺に見せかけ、仮死状態になる。仮死から目覚め、遺体を包む白い袋から外に出ようともがくジュリエットは、繭の外に出ようともがき苦しむサナギを思わせる。それは、「処女性という性の管理」を自ら打ち破ろうとする格闘だ。
終盤の「両家合同の葬式」は、「ロミオとジュリエット」という個人の追悼であると同時に、異性愛主義、家父長制、シスノーマティヴィティという密接に結びついた支配的構造それ自体を葬り去る決別の儀式でもある。舞台の両端にずっと存在し、各家に所属する者たちを戦列のように支配していた「赤」と「青」のラインが、一枚ずつパネルがひっくり返され、「黒」のラインに変わるのだ。それは、赤=女性/青=男性というシスノーマティヴィティや異性愛主義の「消滅」「破壊」である。
そして、斉藤と池田の演じるロミオとジュリエットが、「墓」から復活するラストシーン。2人は、単に「あの世で結ばれた」のではなく、ジェンダーやセクシュアリティの規範が破壊された後の新しい世界に生まれ変わったのだ。天上を見上げる2人を包む神々しい光は、クィアへの祝福である。
[撮影:井上大志 ]
鑑賞日:2025/04/12(土)