この度府中市美術館で開幕する「橋口五葉のデザイン世界」展は、装幀、ポスター、絵画、さらには新板画★1とジャンルを超えて多彩に活躍した橋口五葉の世界を、特に装幀デザインに注目してご紹介する展覧会である。
橋口五葉の装幀は美しい。今日の我々が目にしてもその美しさは色褪せない。華やかな色彩で描かれた動植物のモチーフが用いられた表紙や見返し、扉などのグラフィカルな要素が美しいのはもちろんのこと、紙や革といった材料も吟味され、箔押しなどの加工も経て完成された装幀は、手の中で楽しむ贅沢な立体作品である。五葉がこの美しい本を生み出していった時代、彼が試みたのはどのようなことであったのか、少し考えてみたい。

「『おぞけをふる』って買うことができなかった」美本

「一體先生は装幀に好みのあつた方で、『吾輩は猫である』にしろ、『漾虚集』にしろ、『鶉籠』にしろ、初版は菊判の頗る美本で、先生の文章が一世を驚かしたと同様、装幀も亦人々の度膽をぬいたものであつたであらう。明治三十九年、四十年といふ頃に、こんな美本が現はれたのだから、これらは今見ても立派な、むしろ贅澤版とでもいひたい部類に屬して居る。(略)私自身の舊い経験をいふならば、先生の『虞美人草』が市に現はれた時には、まだ田舎の中學生であつたが、あの帙入りの華麗な書を店頭に見た時、買ひたいには買ひたいが、さりとて餘りに綺麗で勿體なく、たうとうおぞけをふるつて買はずにしまつた事を覚えて居るが、意氣地のない田舎中學生をおどかした先生の装幀も罪な事だ」

これは、松岡譲による漱石にまつわる随想録からの一節である★2。のちに漱石の娘婿となる松岡は、新潟で過ごした中学生時代に『虞美人草』の装幀に「おぞけをふる」って買うことができなかったという。松岡の言葉からは、五葉の装幀の先駆性とその美しさを同時代に生きた人々が感じていたことが窺われる。

『虞美人草』は、明治41(1908)年に出版された、五葉が手がけた6冊目の漱石の著作である。その名の通り虞美人草、すなわちヒナゲシの花、蕾、そして茎が模様としてあしらわれている。朱色のヒナゲシの花と緑色の茎や葉とが、上部の水色、下部の灰色の色帯と鮮やかな対比をなしている。中央やや上寄りには朱色の帯が配され、このなかには灰色のトンボがあしらわれている。そして背表紙にはタイトルである「虞美人草」の文字が金で箔押しされている。表紙には和紙が用いられており、表面には細かな凹凸が見て取れる。

『虞美人草』(夏目漱石著)(明治41[1908])、個人蔵(千葉市美術館寄託)

そしてこの鮮やかで美しい表紙を保護するための外装として用いられているのが 書帙 しょちつ である。朱色が目を引く華やかな表紙とは対照的に、書帙の地色には濃紺が用いられている。そしてタイトル部分と縁取りには、濃紺と対比をなす黄色が用いられている。この書帙は本来和綴の本を複数冊まとめて保管するための覆いで、2本の平紐を結んで閉じるかたちとなっている。

『虞美人草』(夏目漱石著)書帙 明治41(1908)年 、個人蔵[撮影:上野則宏]

書物のある空間──和綴本から洋装本へ

五葉による漱石の著作の装幀のなかで、書帙が用いられているのは『虞美人草』と同じ年に出版された『草合』の2点。書帙を用いた装幀は、ほかにもこの年に出版された『浮草』にも見られる。五葉の装幀において表紙保護の目的では大部分の単行本にはジャケット(カバー)か函が用いられており、書帙に収められているものの数は少ない。そもそも書帙は先述の通り和綴本に用いるものであり、書帙に収められた状態では本棚に立てて収めにくい。平置きを前提とした装幀なのである。五葉の装幀における書帙からは、ある意味この時期の書物装幀、ひいては書斎風景が浮かび上がってくる。

『浮草』(ツルゲーネフ著・長谷川二葉亭訳)(明治41[1908])の書帙、個人蔵(千葉市美術館寄託ほか)

『浮草』(ツルゲーネフ著・長谷川二葉亭訳)(明治41[1908])、個人蔵(千葉市美術館寄託ほか)

五葉は明治14(1881)年に生まれ、大正10(1921)年に数え41歳で没している。明治38(1905)年に『吾輩ハ猫デアル』の装幀でデビューしてから没する前年までの15年間断続的に装幀を手掛け続けており、生涯で手掛けた数は80点ほど。装幀については年間14点の装幀を手掛けた大正2(1913)年がピークとなっており、大正5(1916)年以降は版画制作に活動の軸足を移している★3

五葉がブックデザイナーとして数々の美しい本を生み出していったこの明治後期から大正初期は印刷、製本技術も変化し続けた時期である。洋紙の生産、活字の鋳造をはじめ、さまざまな技術が導入され、大部数の印刷も可能になりつつあった。明治20(1887)年を境に、流通の中心がそれまでの和綴本から洋装本へと移行していった★4。同時にそれは書物を購う場である書店もその姿を大きく変えつつある時代でもあった。それまでの坐売りと呼ばれる、店員に欲しい本を伝え土間まで持ってきてもらうスタイルから、客が自由に書棚の間を行き来して自分で本を選ぶ、今日我々が慣れ親しんだ開架式へと変わっていった。当時最大の洋書輸入元であった丸善が開架式の書店をオープンさせたのが明治36(1903)年、『吾輩ハ猫デアル』が刊行される2年前である。

室内を彩る洋装本

書物をめぐる景色が目まぐるしく変化していく一方で一般家庭において、洋装本を立てて並べる書棚が普及したのは大正後期といわれている。洋式家具が注文生産であった時代においては、本は平置きして積み上げられるか、あるいは箱や櫃といったケースに収められるか、という状態であったことだろう★5。今日書斎といえば誰もが思い浮かべる、洋書を立てて並べる書棚が備えられた書斎は決して多くはなかったのである。書棚のある書斎でも、一部の本は平置きされていたと考えられる。例えば、夏目漱石の書斎の様子を写した写真などでも、一部の本は平置きされている★6。これは書棚の問題もあるだろうが、机も洋風のものではなく、文机を使用していることにも起因しているだろう。五葉が活躍した時代が、和綴本の文化が残りつつも洋装本が主流となっていく、書斎空間においても和室の調度と洋式の家具とが混在している過渡期であったことが窺われるのである。

五葉が自らの装幀の仕事を振り返った数少ない著述のひとつに『美術新報』に掲載された「思ひ出したことども」という一文がある★7。五葉自身の装幀観を伺うことができる非常に貴重な文章である。ここで五葉は雑誌と単行本の装幀とを比較し、雑誌では表紙を平面的に捉えればよいのに対し、単行本では表・背・裏表紙を含め立体的に考える必要があり、室内の装飾品という性質を帯びることについて言及している。

この「思い出すことども」と同年に五葉は『時事新報』に四回にわたり「秋の書斎を飾る可き表装の数々」という談話を発表している★8。自身がこれまで手掛けてきた数々の装幀を振り返り、苦労したことなどを述べている。先述の通り国内での技術導入が進展しつつある時期において材料や技法、加工を吟味しつつ装幀を行なっていた五葉がその状況で重ねていた苦心がうかがわれる、非常に興味深い内容である。この談話の最後に、五葉は日本における装幀の専門人材がいないことについて触れている。画家が装幀を行なうと絵に、図案家が装幀を行なうと図案になり過ぎてしまうために、いずれでもない装幀家が求められると述べているのだ。さらに自らについても「画と図案と両天秤に掛けて」いると述べている。つまり自身の認識では、五葉は画家と図案家の中間的な立ち位置にあると認識していたことになる。

五葉は学生時代から、美術学校の学生を対象とした図案の公募に応募していたことが知られており、その関心はタブローを専門とする画家というより、図案的な方向に向いていた。また、日本家屋の調度として用いられてきた扁額の形式に、油彩や水彩といった技法を用いた絵画作品を残しており、さらに明治40(1907)年に開催された東京勧業博覧会においては油彩を用いた二枚折衝立《孔雀と印度女》を図案部に出品して二等賞牌を受賞している。こうした作品からは、五葉が自らが習得した西洋由来の絵画技法を用いて、日本家屋の室内をどう装飾していくか、という点にも関心を寄せていたことがうかがわれる。

そのことを踏まえて、室内装飾としての装幀というものを再度考えるとき、五葉は単に室内に彩りを添えるための書籍を作ろうとしていたのではなく、当時まだ新しい空間であった日本の書斎空間を、自らの装幀によって彩ろうと尽力していたように思われる。書籍は一点一点では小さいものであるが、それがずらりと並ぶことによって空間に影響を与えるものになりうる。五葉はそうした装幀の力を熟知していたのではないだろうか。

橋口五葉による夏目漱石著作の装幀、個人蔵(千葉市美術館寄託ほか)[撮影:上野則宏]

今日、我々の周りにあるのはほとんどが洋装本であり、その製本技術もさまざまである。文学作品の装幀も、五葉の手掛けた漱石の装幀のような菊判角背の上製本はいまや珍しいものとなっている。しかしさまざまに姿を変えながらも、書物は我々にとって身近なもの、当たり前な存在となっているのは事実である。五葉の装幀を、断絶してしまった過去の遺物としてのみ捉えるのではなく、今日の装幀につながる先駆的な存在として捉える、この展覧会がそんな機会となることを願っている。

★1──本展においては、「木板」による版画表現に力点を置く意味で「新板画」との表現を用いている。
★2──松岡譲「全集の装幀」(『漱石先生』岩波書店、昭和9[1934]年、268~269頁)
★3──岩切信一郎「五葉の装幀論」(『橋口五葉の装丁本』、沖積舎、1980、64頁)
★4──大沼宜規「明治期における和装・洋装本の比率調査──帝国図書館蔵書を中心に──」(『日本出版史料』8号、日本出版学会・出版教育研究所編、2003、pp.126~153)。印刷技術の進展等については、「年表で見る100年前の本づくり」(『書物学』第24巻、勉誠社、2023、pp.10~17)
★5──書斎空間の変遷については柴野京子『書棚と平台-出版流通というメディア』(弘文堂、2009)に詳しい。
★6──牛込区早稲田南町(現・新宿区)の「漱石山房」と呼ばれた当時の書斎の様子は現在、新宿区立漱石山房記念館にて復元されており、当時の様子を偲ぶことができる。https://soseki-museum.jp/exhibition-room/
★7──橋口五葉「思ひ出した事ども」(『美術新報』第12巻5号、画報社、大正2[1913]年3月)
★8──橋口五葉「秋の書斎を飾る可き表装の数々(一)~(四)」(『時事新報』、大正2[1913]年9月8、9、12、13日)

橋口五葉のデザイン世界
会期:2025年5月25日(日)~7月13日(日)
   前期=5月25日(日)~6月15日(日) 後期=6月17日(火)~7月13日(日)
会場:府中市美術館 2階企画展示室(東京都府中市浅間町1丁目3番地 都立府中の森公園内)
公式サイト:https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/tenrankai/kikakuten/Hashiguchi_Goyo.html