平面と立体を行き来しながら、都市や建築空間における視覚表現を拓いてきたグラフィックデザイナーたち。その実践の源流を探る鍵が、1966年に松屋銀座で開催された伝説的な展覧会「空間から環境へ」にある。デザイン・建築・美術の境界を越えて多数の作家が集ったこの展覧会は、環境グラフィックの原点としても記憶される。本稿では、金沢工業大学五十嵐威暢アーカイブに属する鯉沼晴悠氏が、グラフィックデザイン史の一角を成すこの出来事を再訪し、現在に連なる思考と実践の連続性を読み解く。(artscape編集部)

環境グラフィックとはなにか

筆者が勤務する金沢工業大学五十嵐威暢アーカイブには、グラフィックデザイナー/彫刻家の五十嵐威暢から寄贈を受けたおよそ5000点に及ぶ作品や資料が収蔵されている。1970年代から活動を開始した五十嵐のグラフィックデザインを特徴づけるのは、アクソノメトリック図法による立体的な文字表現の数々である[図1]。紙という平面的な支持体の上に三次元的な世界を作り出した五十嵐は、1981年オープンの「渋谷PARCO PART3」での一連の仕事をはじめ、1970年代後半以降、谷口吉生や槇文彦、竹山実といった建築家との協働によってグラフィックデザインを実際に立体化させていく[図2]

平面と立体を自由に往来する五十嵐が主たる実践の場とした、建築や都市に関わるグラフィックデザインは一般に環境グラフィックと呼ばれる。「コミュニケーション機能」を持つ看板やサイン、「装飾機能」を持つ建物の色彩やスーパーグラフィックという五十嵐の整理を借りれば★1、その語が指し示す範囲が具体的に理解できるだろう。

そんな五十嵐が芸術家としての原体験に位置付け、生涯にわたり言及し続けた展覧会がある。1966年11月11日から16日にかけて松屋銀座で開催された「空間から環境へ」展だ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校への留学を控え、グラフィックデザイナーを志していた五十嵐はこの展覧会で何を見たのか。本稿では、「空間から環境へ」展をグラフィックデザインの観点から改めて概観することで、環境グラフィックの源流を辿ることにする。


図1:五十嵐威暢《EXPO’85 公式ポスター》1982[提供:金沢工業大学五十嵐威暢アーカイブ]

図2:五十嵐威暢《渋谷PARCO PART3 立体アルファベット看板》1981[提供:金沢工業大学五十嵐威暢アーカイブ]

「環境」との出会い

「空間から環境へ」展は、「絵画+彫刻+デザイン+建築+写真+音楽」という副題の通り、分野を横断した総勢38名に及ぶ芸術家らによって開催された。参加者によって組織された「エンバイラメントの会」は、趣旨文において、「見る者と作品との間の静止した調和的な関係がこわれ、旧套的な『空間』から、見る者と作品とのすべてをふくんだ動的な混沌とした『環境』へと、場の概念が変ってきたといえましょう」と述べ、「人間と四囲との、現に起きつつある動的な関係そのもの」として「環境」を規定する★2

周知の通り、この展覧会は1970年の日本万国博覧会で展開された「環境芸術」の起点のひとつとして日本美術史の重要な位置を占める。しかし、松屋銀座催事課の小林敦美の記録によれば、その発端は、福田繁雄から寄せられた「ペルソナ」展の第二回構想にあったという★3

1965年11月に同じく松屋銀座で開催された「ペルソナ」展は、これまで匿名的な存在だったグラフィックデザイナーの個性を表面化した展覧会である。6日間で延べ35,000人が訪れたというこの展覧会の二度目の開催を目指した福田からの持ちかけに対し、小林は瀧口修造にコミッショナーとしての参画を打診した。その了承とともに、瀧口がサブコミッショナーとして招聘した美術批評家の一人に東野芳明がいた。

1966年9月から10月にかけて南画廊で開催された「色彩と空間」展において、アメリカで隆盛したミニマルアートやプライマリーストラクチャーの受容を試みた東野は、揺れ動くことで存在感を不安定に変質させるプラスチック製モビールや周辺を歪に映し出す鏡面仕上げの彫刻に、日本における「環境」概念の萌芽を見た。同展に参加していた磯崎新が、「環境」に関わる芸術動向を「空間から環境へ」展の企画会議で紹介したことをきっかけに、コンセプトが定まることになっていく。

こうした記録を読む限り、グラフィックデザイナーは企画過程において、半ば偶発的に他分野の芸術家たちと合流したようだ。美術や建築分野に適用され始めていた、あらゆるものとの動的な関係性において自らが生きる場を捉える「環境」概念に彼らが出会ったとき、視覚的なコミュニケーションを主たる機能とするグラフィックデザインもまた、変質を始めることになる。

連続するグラフィックデザインの思考

「空間から環境へ」展に参加したグラフィックデザイナーは、福田のほか、粟津潔、勝井三雄、木村恒久、田中一光、永井一正、横尾忠則である。7人全員が「ペルソナ」展参加者であることも上記の経緯を裏付けているが、彼らはこの展覧会に何を出品したのか。実のところ、出品作すべてはいまだ明らかになっていない。現時点で判明している情報を手掛かりに彼らの実践を見て行こう。

田中、永井、横尾の三名が出品したのは、グラフィックデザインの代表格であるポスターだった。たとえば、永井の「ライフサイエンスライブラリーシリーズ」は、線やドットからなるパターンによってオプアート的視覚効果を作り出そうとするものである。そのほか、「状況劇場」の公演のために制作された横尾の《腰巻お仙》、図形の関係によって伝統芸能の精神性を表現する田中の《人形浄瑠璃・文楽》など、各デザイナーが6点ずつ出品した。このポスターは、会場構成を手がけた磯崎によって、鑑賞者の主体的関与を促すスライドパネルのかたちで展示された[図3]

一方で、福田、粟津、勝井、木村の4名は立体作品を発表した。一見すれば、それぞれの作品はグラフィックデザインという領域の外部にあるようにも見える。しかし、当時、展評を記した栗田勇がこれらのうちに「線的イメージ」を見て取り、「どのように環境だオブジェだといっても、そこには自から習得した発想以外にアプローチする道のないことを確認したのである」と述べているように★4、彼らの立体作品は決して平面世界での手つきと無縁ではない。

たとえば、勝井の《オプティカルBOX》は、円や三角、四角などの組み合わせから構成される幾何学パターンが施された立方体である[図4]。勝井は、プラスチックという素材によって物質感を非在化させることで、プリントメディアで取り組んできた視覚的効果がそれ自体単独で存在する可能性を模索した。吊るしという展示方法も相まって、各面のパターンの重なりによって発生するモアレ現象は、「見る」という行為に内在する動性を強調する。

また、「這うグラフィック」と呼ばれる粟津の出品作は、水が張られたステンレス容器の上にモーターが吊るされた装置で、容器の中には50個ほどの活字が無造作に置かれていた[図5]。具体的な機構は不明だが、人々が周囲を歩くことで水面に波紋が起きるという。

波紋は、指紋とともに非言語的世界への接近の手掛かりとして粟津がポスターやイラストレーションに多用したモチーフであり、最初の立体作品である1963年の《出雲大社宝物殿庁ノ舎 鉄の扉》も波紋を想起させる流線の重なりから構成されていた。「空間から環境へ」展出品作において支持体から解放された波紋は、周囲の状況と作品、ひいては自然界のエネルギーと人間の営みとの融和を象徴する視覚的要素として存在している。


図3:スライドパネル化されたポスター[出典:『ジャパン・インテリア』1967年1月号]

図4:勝井三雄《オプティカルBOX》1966[出典:『デザイン』1967年1月号]

図5:粟津潔、作品名不詳、1966[出典:『アイデア』1967年3月号]

グラフィックデザインの変容

「環境」という新たな空間認識との出会いは、人間と、人間を取り囲む世界とを繋ぐイメージの実験へとグラフィックデザインの根源的意味を変容させていく。実際的な機能を越え出た地平でなされるその営みにおいて、グラフィックデザイナーは、平面や立体という旧来の形態区分すらも容易に取り去ってしまった。その先に、現在までの環境グラフィックの実践があるとすれば、未だポスターやパッケージ、エディトリアルといったフレームのなかで展開されるグラフィックデザイン史研究もまた、自らのグラフィックデザイン概念を見直す必要があるだろう。

いまやプリントメディアだけがグラフィックデザイナーの舞台ではないことは明らかである。工事塀の装飾やプロジェクションマッピングまで、私たちが生きる都市はさまざまなイメージで埋め尽くされている。経済性優先の都市開発が増加する現代において、視覚を手掛かりに、あらゆるものとの関係のなかに人間を位置付けようとした彼らの試みは、ますますその意義を高めているのではないだろうか。

 

★1──五十嵐威暢「環境のグラフィック」『広告』第222号、博報堂、1980.9、45-49頁
★2──エンバイラメントの会「〈空間から環境へ〉展趣旨」『美術手帖』第275号、美術出版社、1966.11、118頁
★3──小林敦美『展覧会の壁の穴』日本エディタースクール出版部、1996、110-120頁
★4──栗田勇「『空間から環境へ』展=環境から空間へ?」『アイデア』第14巻第81号、誠文堂新光社、1967.03、95頁