心地の良い春と呼べる季節は一瞬で過ぎ去り、梅雨入りも近そうな今日この頃ですが、2026年の上半期、開催前からも特に注目が集まっていた展覧会のひとつが、先日まで国立新美術館で開催されていた「テート美術館 ― YBA & BEYOND 世界を変えた90s英国アート」展(会期:2026年2月11日~5月11日)でした。現代美術史においても、ダミアン・ハーストやヴォルフガング・ティルマンスといった代表的な作家/作品とともにたびたび言及される「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト(YBA/YBAs)」という潮流。筆者を含め、リアルタイムでは当時をよく知らない世代からすると、半ば伝説的に、ときに熱っぽく語られる存在としてその残滓を受け取りながらも、表面的な知識に留まっていることがなんだか後ろめたいようなもどかしいような感覚を長らく抱いてきました。

折角ならこの機会にYBAのことをもう少しわかりたいな、という思いで会場に。膨大な展示点数のなかで初めて出会う作品の割合は予想以上に多くを占め、従来のYBAにまつわる一般的な説明からは漏れていたであろう作家や、彼/彼女らが青春を過ごした時代、そしてその空気感を伝える雑誌文化など、当時のメディア環境や政治状況のことなどが以前よりも立体的に想像できるようになりました。同時代の日本国内の雑誌文化の様子は(多少後追いな部分もありつつ)知っていても、欧州のことまでには意識が及んでいなかったな、といった気づきもたくさん。

特に記憶に残ったのは、トレイシー・エミン(Tracey Emin/1963-)の半生の語りから始まる《なぜ私はダンサーにならなかったのか(Why I Never Became a Dancer)》(1995)や、ショッピングモールの雑踏のなかでジリアン・ウェアリング(Gillian Wearing/1963-)が脳内の(つまり他者からすれば無音の)ダンスナンバーに身を委ねる《ダンシング・イン・ペッカム(Dancing in Peckham)》(1994)など、踊る作家本人の身体と、社会との間にある緊張関係のようなものを感じさせる映像作品。同じダンスという文脈では、70〜90年代のイギリスのダンスホールの風景を、当時の記録映像をサンプリングし構成したマーク・レッキー(Mark Leckey/1964-)の《フィオルッチは私をハードコアにした》(1999)などもありました(各作家の生年を調べると三者はほぼ同世代で、そこにも層の厚みと活況を感じます)。


90年代のざわめきに圧倒されながら展示室を後にしました[筆者撮影]

会期終了まで2週間を切った展示会場は平日にもかかわらず賑わっていて、当時生まれてすらいなかったであろう若い世代の来場者が思いのほか多かったのも印象的でした。ここ数年のファッションやカルチャーシーンにおける90年代リバイバルの影響もあってなのか、作品や記録写真のなかに写り込んでいる当時の群衆そのままのようなファッションの来場者の姿もところどころに。熱心に作品を覗き込むさまを見るにつけ、そのような流行の反復は内面的なシンパシーを呼び起こすことも多々あるのかもしれない、とも思うのでした。

その一方で、YBAリアルタイム世代の人々が本展を観て呼び起こされた当時の記憶、あるいは本展が触れていなかったものについての言及やツッコミ、抱いた違和感のようなものを、後からSNSなどで読んだり聞いたりする時間がそれはそれでとても楽しいのです。歴史が編まれていくうえでは慎重さ・厳密さが求められる部分は当然ありつつも、当時を知る人がまだ世の中に多くいる対象だからこそ、時を経て一定の視点から近過去を語り直すことによって生まれる齟齬やズレ、その語りの集合体のなかに含まれる豊かさについて考える機会をもらった展覧会でした。その多層性がまた未来を作っていくのだろう、そう思いたい。自分がかつて多感な時期に心酔したものに関する展示やイベントに対しても、新しく触れる人たちの感覚も含め前向きに楽しめたらいいなと思います。(g)


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