会期:2025/04/05〜2025/04/28
会場:庭文庫[岐阜県]
公式サイト:https://niwabunko.com/2827/

詩人/アーティスト・小内光の、安全な孤独についてと題された個展が、岐阜県恵那市の木曽川沿いの古民家で営まれる本屋・庭文庫で行なわれた。庭文庫には泊まれる。泊まらない場合は本屋の営業日である金土日しか訪れられないが、泊まる場合はその限りではない。チェックイン/チェックアウトの区切りもあいまいにしてもらえるので、なんとなくそこに居続けて、本を読んだり、作品を見たり、外を眺めていられる。庭文庫は木曽川沿いの渓谷の斜面の途中に位置しており、縁側からは木曽川を眺め下ろすことができる。春の緑、といっても色合いはさまざまな緑の木々が水面のすぐ上から生えていて、霧にところどころを覆われている。水面は本当にわずかに揺らいでいるだけで、木々はそのまま反転して下へと続く。対岸のカーブした道を曲がって白い軽トラが降りてくるのが見える。見えるだけで、聞こえているのは鶯の鳴く声だけだった。

ぼうっとしているうちに、はたと思い出す。木曽川って、暴れ川じゃなかったっけ?

木曽川は、長野県、岐阜県、愛知県と来て、最後に県境を少しまたいだあとに、三重県で伊勢湾へと流れ込む。輪中(わじゅう)と呼ばれる堤防に囲まれた集落が流域の平野部にあることとセットで、木曽川の名前を覚えた人は私だけではないだろう。平野部の氾濫は凄まじく、中世から近世にかけてたびたび土木工事が行なわれてきた。日本の地理のひとつの例として、教科書によく取り上げられてきたその川の上流に、11の水力発電所がある。それらは、電力需要の高まりとともに大正から昭和にかけての約30年間に建設されたもので、発電方式はさまざまだが、効率的かつ大容量の発電を目指すなかでダムが設けられるようになった。河川はある高低差を結ぶように斜めに下っているが、発電用の水車の回転量は川の傾きに左右されてしまう。ダムによって水を一旦貯めると、その高低差を放水で一気に落とせるし、自然な川の流れより大きな重力エネルギーを受け止められる。

そういうわけで1924年に利用開始となった大井ダムは、当時日本最大のコンクリート製のダムだった。大量の水をせき止めたことで、上流側の一帯には恵那峡と呼ばれる景勝地を生み出した★1。下流においては、ダムの放水の有無が水量を不安定にし、農作への影響が少なくない。だから建設前から反対運動があったし、操業以降は懸念された事態が発生した。対策として、水を一定に流し続けるための逆調整という役割を担うダムが平野の手前へ作られることになった。ところが、予定していたダムより早く、1936年に笠置ダムが作られると、電力会社は人々との交渉を打ち切ろうとした。笠置ダムも大井ダム同様に発電用のダムであり、逆調整の機能を担っておらず、しかも平野から見ればだいぶ上流にあるにもかかわらず、である。結局、1939年に逆調整用のダムが完成したことで事態はなんとか沈静化したという。そして、どのダムも現在に至るまで使われ続けている。

大井ダムを下流側から眺める。コンクリートの向こうに恵那峡が広がっている。右に映る柱は上空を走る東雲大橋の橋脚。この地点ではまだ水が貯まっていないため、岩床が露出している[筆者撮影]

そんな木曽川の全長229キロのうち、大井ダムと笠置ダムの間に挟まれた13キロほどが笠置峡と呼ばれていて、ほとんど止まりそうな水の流れの下流寄り、渓谷の斜面に沿って庭文庫が建っている。ダムができる以前からここは静かだったのだろうと想像するが、水面まで静かになったのも、木々と水面がここまで近づいたのも、およそ90年前からの話にすぎない。築100年を超える庭文庫の建物は、大井ダムと笠置ダムのそれぞれができた頃の、ただ一度しか起きなかった水の変化に立ち会っている。その様を眺めていた人もきっといただろう。そんな人がいたはずの縁側がいまも残っている。ここは展望台のようだ。

そう、個展に先だって最初に置かれた小内の作品は、詩集『宝石の展望台から湖が見える』(2022)だった。2023年から庭文庫での取り扱いが始まり、今回の展示に至る。庭文庫で過ごして作られた写真とテキストからなる新作もあるし、小内が自身のアトリエで日常的に作っている陶器の作品群、ファブリックの作品もある。だがここはまずは書店なので、宿泊用の部屋を除いては、さまざまな種類・形の本棚や箱に本が詰め込まれている。手前の小机や棚の上面に置かれた雑貨もあるが、それでもまず目に飛び込んでくるのは、並んだ本の背表紙だ。古書もあるし新書もあるし、厚みも材質も異なっている。日が暮れてくると、そこかしこに取り付けられた電球によって、光の濃淡と影が現われてくる。本の奥行きと本棚の奥行きのずれが生み出す空間に焼き物が置かれている。ときに、本を奥に押し込んだり、どかすことによって、その空間は広げられている。作品だけを照らすための光はここにはない。いつも、ほかのものが同時に照らされている。本棚を前にして、腰をかがめて並んでいる文字をじっと見ているときの、すべてを読んでいるような、どれも読めていないような、ぼんやりとした視野の全体。手を伸ばして陶器の釉薬と素焼きの境目を指でなぞっていると、突然背後のどれか背表紙が「光ってみえる」★2

本棚と本の奥行を利用して置かれる陶器の作品。本屋の天使のオーナメント[撮影:明津設計]


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★1──恵那峡を名づけた著述家・地理学者の志賀重昂は、恵那よりさらに上流にある美濃加茂~犬山の13キロほどの渓谷を、ヨーロッパのライン川になぞらえて「日本ライン」と呼んだ。一方、大日本帝国の南進論のきっかけを生んだ東南アジアの現地ルポ『南洋時事』(1887)や、古典文学を引用しながら日本の風景が西洋より優れていると論じる『日本風景論』(1894)からもわかるように、土地に対する志賀の眼差しは国粋主義的でもある。志賀は1927年に亡くなっているため、笠置峡は目にしていない。小内や庭文庫とは対極にあるようなその目線は、この静けさをどう見ただろうか。
★2──小内は展示紹介文の冒頭で、書店における自身の経験を述べている。本展の鑑賞は、この経験を追っていく。「ただぼんやりと心を開いて背表紙に書かれたテキストを目で撫でていけば、必ずその時々に自分が求めているものがひときわ光ってみえるような気がします。それを手に取ってくるくると持ち心地を確かめ、それから慎重に目次を開いてこの中に書かれていることを想像しようとすれば、それだけで問題はある程度解決するか、もしくは気付かないうちに問題そのものが取り分けられ、それはもはや問題ではなくなっていることもあるのです」。

滞在日:2025/04/22(火)〜23(水)