全国各地の美術館・博物館を渡り歩き、そこで出会うミュージアムグッズたちへの感動を広く伝えるミュージアムグッズ愛好家・大澤夏美さん。博物館経営論の視点からもミュージアムグッズを捉え直す彼女が、日々新たな商品や話題が生まれるミュージアムグッズの現場の周辺でどのような思考や問いを携えて活動しているのかを定期的に綴る「遊歩録」。今回は建築や空間の側面から、訪れた人の個人的な記憶のトリガーとしても作用しうる美術館・博物館の存在について考察していただきました。(artscape編集部)
記憶の継承の場としてのミュージアム
こんな夢を見た。というか、ここ5年ほど見続けている夢がある。いまの年齢のまま中学校に再入学し、私が小学校高学年から高校生まで住んでいた家で再び暮らすことになる夢だ。これは自分にとって「悪い夢」に分類される。学校という組織が好きではなかったため、その窮屈な思い出と記憶が閉じ込められた家なのだ。いまこうして私が生きている現実が夢で、やがて訪れる死の瞬間にバチっとあの家での世界に切り替わるのかもしれないとさえ、たまに考えてしまう。
あの家に蓄積された記憶は私的なアーカイブであり、ゲームで言うならばセーブポイントのような場所である。ゲームにおけるセーブポイントとは、プレイヤーが進行状況を保存し、必要に応じてそこに立ち返ることができる場所である。私にとって、あの家はそうした意味で記憶の蓄積と回帰の場となっている。そしてこの発想を広げれば、ミュージアムもまた、社会や個人の記憶を保存し、再び立ち返ることのできる場所=セーブポイントと言えるのではないか。
ミュージアムはしばしば記憶の継承の場として捉えられる。関(2004)★1は、博物館におけるモノはそれが元来存在していた場所の空間から切り離され、まずは抽象化される。用いられてきた場所とは異なる空間に移され、元来付与されていた機能や意味を取り除かれていく、としている。その一方で吉田(2011)★2は、博物館に収蔵され展示される資料は、歴史資料(史料)と呼ばれるにせよ、その特定の歴史のためにそもそも存在しているわけではなく、歴史を構成するものの一部ではあるかもしれないが、その歴史だけを体現しているわけではないと指摘する。
つまり、博物館においては、収蔵されたモノはもともと存在していた場所から展示室、または収蔵庫に移され、均質化された参照可能な資料になる。しかしその過程や収蔵後において、削ぎ落されてきた記憶の集積の存在をどう扱うかも重要な議論の対象になるということである。
資料が特定の歴史だけを体現しているわけではないとすれば、そこには複数の記憶が重層的に関与する余地がある。そう考えれば、ミュージアムの建築という物理的空間も、訪れる者の個人的記憶を重ね合わせていく柔軟な「資料」として読み解くことができる。これらの視点を組み合わせれば、ミュージアムは単に記憶を抽象化して保存する場ではなく、あらゆる個人の記憶が重ね合わされる「生きた」空間とも言えるだろう。
100年前のあなたはどうだった?
今年のゴールデンウィークに、北海道小樽市にある重要文化財 旧日本郵船株式会社小樽支店へと足を運んだ。1906年に完成した石造りの2階建て建築で、近代洋風建築の荘厳な趣と繊細な意匠を楽しめる。1階や2階の一部の窓ガラスが作る影も本当に美しかった。この窓ガラスには板ガラスではなく、手吹きの円筒形のガラスを切り開いて伸ばしたガラスが使用されている。手吹きのためガラス表面に残るわずかな凹凸が影となり、床や廊下の壁に模様を映し出す。
設計は佐立七次郎。工部大学校造家学科の第一期卒業生で、同期には辰野金吾などがいる
(重要文化財 旧日本郵船株式会社小樽支店にて)[筆者撮影]
窓ガラスが作る光の揺らめきを見ていると、記憶の波間を泳いでいるような気持ちになる
(重要文化財 旧日本郵船株式会社小樽支店にて)[筆者撮影]
1階の金庫室は書類を収納していた部屋で、重厚な棚には海洋図含め会社の経営に関わる書類が収められていたのが見て取れる。「見て取れる」という言い方をしたのは、棚にラベルが貼られていたり、直接棚に筆で書かれているからである。これを見て改めて、この建物がオフィスとして使われていた場所だったということを再認識するのだ。目を閉じれば浮かんでくるようだ。受付にどやどやと乗船希望者が列を作り、てきぱきとその列をさばく職員たちの姿が。2階の貴賓室などは主に要人を応対するための部屋ということもあり、どちらかというと1階に私自身はシンパシーを感じていた。
それは私個人の記憶を通じて、当時の働く職員の皆さんの生き様へアクセスするような感覚に近いのかもしれない。金庫室の棚に筆文字で書かれた「庶務」の文字に、10年ほど前に会社員として人事・総務部門で働いていた私の記憶が蘇る。営業担当が出してくる領収書の整理の雑さにイライラしたり、遠方の来客から頂いたお土産を分け合ったり、年度末に目を血走らせながら決算に追われたり。ねえ、寒いよね金庫室。石造りだからしょうがないんじゃない? やっぱり羽織1枚だけじゃ足りないかなあ。足元から冷えてくるもんね。もしかして、100年以上前のここで働くあなたもそうだった?
私が見ている「あなた」はもうここにはいない。「あなた」個人の正確な姿を読み取ることはできない。あくまで私の記憶と建築空間とのあいだに生じた感応である。だがその感応を通じて、記録として存在する「他者の記憶」に、自らの身体を媒介としてアクセスするような感覚が芽生えた。建築を資料として見せるミュージアムで、自分の身体を投入して鑑賞するからこそ、自分の記憶を通して鑑賞することが可能になっているのかもしれない。ミュージアムというセーブポイントにアクセスしてみたら、会社員時代の私の記憶だけではなく、100年前の「私」に出会ってしまったような気分。「あの家」だけではなく、ミュージアムにだって私の記憶は預けられるのだ。
目録とかさ、書類の整理大変じゃない? 当時のあなたはどうしてたの?
(重要文化財 旧日本郵船株式会社小樽支店にて)[筆者撮影]
建築がテーマのミュージアムグッズ
建築をテーマにしたミュージアムや、建築を見どころにしているミュージアムは日本各地にある。そのミュージアムグッズにはどのようなものがあるのだろうか。
東京都庭園美術館には館内の装飾を取り入れたグッズがある。オリジナルのマーキングクリップはゴールドが踊り場の照明、シルバーは第二階段の丸窓がモチーフである。ほかにも、手すりやラジエーターの装飾などを取り入れたグッズがあり、東京都庭園美術館が旧朝香宮邸であることを思い起こさせるものばかりだ。アールデコ様式に魅入られて訪れる来館者のニーズに応えるグッズ展開である。
気軽に使えるアイテムで、ちょっとしたお土産にも[筆者撮影]
金沢21世紀美術館のオリジナルサコッシュには、美術館の昼と夜の風景の写真が表面に印刷されている。金沢21世紀美術館は建築家ユニットSANAAによって設計され、回遊できる円形の構造とガラスを利用した解放感のあるデザインが特徴的である。だが今回のサコッシュに用いられた写真は、建物を斜め上から俯瞰し見下ろした構図になっている。展示室やアートライブラリーなどの館内施設が水平方向に配置され、街のように見えるという魅力を表現している。
昼と夜でサコッシュのサイズが異なるのも個性的[筆者撮影]
床や壁などの素材に着目したミュージアムグッズも存在する。長野県立美術館のオリジナルコースター「Museum Floor PIECE」は、17色のゴムチップを熱で固めたもの。長野県立美術館の館内にある、しなのギャラリーや交流スペースなどの床と同じ素材である。カラフルでありながら落ち着いた色合いが特徴的で、「あの場所の床ってこんな素材だったか!」という発見がある。ミュージアムショップでこのコースターを購入したあと、交流スペースにまた戻って床を触りに行ってしまった。
シンプルながら生活のアクセントになりそうなデザイン[筆者撮影]
寺田倉庫が運営する「WHAT MUSEUM」のグッズも紹介したい。アート作品によって鑑賞者の心に芽生える「WHAT」をコンセプトに据えたミュージアムで、グッズにもその「WHAT」を追求する姿が垣間見える。
トートバッグの表面には「WHAT IS ARCHITECTURE?」という問いが記されている。別売りのポーチには「ARCHITECTURE IS YOU」などのアンサーが記されている。合わせて持つことで、自分にとって建築とは何だろう、アートとは何だろうと考えるきっかけになる。シンプルでありながら、あまり類を見ないコンセプチュアルなグッズである。
カバンの中身も含めてコーディネートしたくなる[筆者撮影]
ミュージアムグッズと建築のつながり
ここまで見てきたグッズたちは、基本的には建築の特徴やコンセプトをミュージアムグッズとして表現したもので、建築が植物標本や美術作品に置き換わっても生かすことができる表現手法である。前半で述べたような、人生のセーブポイント/個人の記憶の預け場所としてミュージアムを捉えた場合、どのようなグッズ展開が可能なのだろうか。
そのような疑問を踏まえ、最後にもうひとつ事例を紹介したい。北海道の月形町にある月形樺戸博物館などで販売されているミュージアムグッズに、「樺戸集治監 TSUKIGATA KABATO MUSEUM」シリーズがある。旧
月形樺戸博物館や道の駅275つきがたで購入が可能[筆者撮影]
吉田(2011)は、博物館のなかで語られる歴史は個人が記憶しているものばかりではないと指摘し、個人の記憶とかけ離れた時代の出来事をどう伝えるのかが歴史系博物館の根本的な課題であるとしている。博物館の記憶と伝承にまつわる事例として、戦争や災害などにまつわるミュージアムが多いのも、時代とともに薄れゆく記憶や体験への抗いが課題としてつねに横たわっているからだろう。
建築という時間の厚みを持つ空間が、個人の記憶と感応する。そのときに手に入れられるグッズが単に建物の形を模したものではなく、私たちが体験した「どこかの空間」「あの時間」との接点を呼び起こすツールだったら。個人の記憶に寄り添い他者の記憶と交差する装置だったら。そんなグッズをもっと見てみたい。そのときにはミュージアムグッズも、単なるお土産を超えて「記憶の触媒」となる。
例えば、自分の記憶を託せるノート、手紙形式の記録帳、あるいは「あなたにとってこのミュージアムは?」と問いかける仕組みそのものがグッズになりうる。すでにワークショップなどで実施されている事例もきっとあるだろう。
人生の節目に立ち返るセーブポイントとしてのミュージアムの役割を、グッズにも託す。その可能性に私は希望を感じている。実現できればきっと、私のほかにも「あの家」のようなセーブポイントを抱えている人たちにとって、ある種の救いになるのではないだろうか。
★1──関嘉寛「博物館という空間 -記憶の伝承に関する─考察─」(『大阪大学大学院人間科学研究科紀要』第30巻、大阪大学大学院人間科学研究科、2004)
★2──吉田憲司「記憶と博物館」(吉田憲司『改訂新版 博物館概論』、放送大学教育振興会、2011)