
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《ベルリンの街頭風景》
1913年、キャンバス・油彩、120.6×91.1cm、ニューヨーク近代美術館蔵
Photo: Bridgeman Images / DNPartcom
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感覚の揺らぎ
大阪・関西万博(2025年日本国際博覧会)へ行ってきた。体温を超える炎天下、短パンを履き無料の貸出日傘を借りて、世界最大級の木造建築物「大屋根リング」を一周(約2キロ)歩いた。ふくらはぎまで真っ赤になって、万博焼けして帰ってきたのだが、2025年の夏は観測史上もっとも暑かったようだ。ひとり当たりのビール消費量が世界一というチェコのパビリオン前は、ビールを片手に持った人たちで盛り上がっていたが、そのときばかりはアルコールより水が欲しかった。
子供の頃、父親のビールをジュースと思い、誤って飲んでしまったことがある。あまりのまずさに「ビールは一生涯飲まないぞ」と決心したのだ。ところが大人になると「まずはビール」となってしまった。固く決心した子供心は、大人の自分を許していない。感覚は変わるものか、変わっていいもの、なのか。この妙な感覚の揺らぎを捉えた画家がいる。酩酊しているようで、決して気持ちのよい絵ではないが、「人間とは何か」と静かに語りかけてくる。
ドイツの画家エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの代表作《ベルリンの街頭風景》(ニューヨーク近代美術館蔵)である。賑やかな都会の夜の風景。ツンツンと尖がったような線、細く伸びた人物など、華やかではあるが歪んだ画面から不安感を覚える。画家の心情なのだろうか。しかし、いびつな形の絵でも日々見ていると、絵の中の空気感が伝わってきて街の喧噪が聞こえてきた。
《ベルリンの街頭風景》の見方を帝塚山学院大学名誉教授の大森淳史氏(以下、大森氏)に伺いたいと思った。大森氏は、近代のドイツの美学・芸術論および美術史を専門とし、『ドイツ表現主義の世界──美術と音楽をめぐって』(法律文化社、1995)や『〈ブリュッケ〉とその時代:個人主義と共同体のあいだで』(三元社、2019)を執筆されている。新大阪の喫茶店で話を伺うことができた。

大森淳史氏
ヨーロッパの芸術現象を推進したものは何か
大森氏は1954年大阪府大阪市に生まれた。大阪教育大学附属平野中学校ではサッカー部へ入り、天王寺高校では山岳部に入りたかったが母親の反対で剣道部に入部したという。当時登山とスキーはブームで、大森氏は高校から大学院生時代にかけて、夏は山登りをし、冬はスキーをして、信州のほとんどのスキー場を踏破したそうだ。
高校3年生のときに、大森氏はNHK教育テレビの連続教養番組を見ていた。東京大学の堀米庸三教授と木村尚三郎助教授が、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガの著書『中世の秋』を軸に、ヤン・ファン・エイク(1390頃-1441)の絵画などを取り上げながら、西洋中世末期の様子を解説していた。高校に入って油絵を始めた大森氏は、その壮大な話に惹かれた。「ひとつの時代の人々のものの考え方や感じ方が、絵画や文学などの芸術作品に表われるというところに特に魅せられた」という。
大阪大学の文学部に入学した大森氏は、2回生の終わりに学科を選択する際、新たに創設された美学科の美学を選んだ。史学科の西洋史よりも自分に合っているのではないかと思ったそうだ。美学の神林恒道先生から研究テーマとして指示されたのがドイツの哲学者で批判哲学を創始したカントだった。「取り付いてみたら相手が巨人なので修士論文までカントを勉強していた」と大森氏。その後、カントの『判断力批判』の問題領域を受け継いだドイツの哲学者ヴィルヘルム・ディルタイの美学に研究を移す。「両者とも目的論的・全体論的な考え方を方法論として取り入れるが、その際両者とも確実な手がかりとして重要視したのが芸術、その根拠となる美的感情や美的体験だった。これらは心のなかに確かに感じられるものに基づいており、その表現である芸術作品は、もっとも信頼に値すると考えられた」と大森氏は言う。
「現代初頭ヨーロッパの芸術現象を推進したものは何か」を確かめたいという大森氏の研究は、ドイツの哲学者ニーチェやジンメルへと派生し、彼らが活躍していた当時の社会思想史や文化史、美術運動へと進んだ。さらに大森氏の視野は広がり、アメリカの哲学者アーサー・O.ラヴジョイの著書『観念の歴史』に示唆を得て、美学者アウグスト・K.ウィードマンの『現代芸術におけるロマン主義的起源(邦訳題名:ロマン主義と表現主義)』を翻訳した。「ウィードマンが着眼した『内面性の美学』と『芸術の有機体理論』は、20世紀前半の芸術改革運動を推進した大きな観念的起源を言い当てていると思う。また、モダン・アートの全展開期に批評活動を行ない、自らロマン主義者でアナーキストであると公言していたイギリスの詩人・美術批評家ハーバート・リードにも注目し、キルヒナーら〈ブリュッケ〉のメンバーが自由を重んじていたことから、彼らをアナーキズム的だと読み取った」と大森氏は述べた。
大森氏が《ベルリンの街頭風景》の実物を見たのは2005年。〈ブリュッケ〉結成100周年を記念して、ベルリンの新ナショナル・ギャラリーで開催された「ブリュッケとベルリン、表現主義百年」展においてだった。「これか、結構大きい。ワクワクした感じが伝わってきた」と、大森氏はこの絵をあしらった展覧会のポスターを買ってきたそうだ。カタログの表紙もこの絵だったという。
伝統からの離脱
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーは、1880年ドイツのバイエルン州アシャッフェンブルクに生まれた。フランクフルト・アム・マインから東南へ約40キロ、マイン川沿いに立つヨハニスブルク城が映える古都である。父は製紙化学を専門とする技師で、のちにケムニッツ工科大学の教授となり、商家出身の母にはフランス人の血が流れていた。一家は間もなく父の転勤にともなってフランクフルト・アム・マインに引っ越し、次いでスイスのルツェルン近郊ペルレン、1889年から1890年へと変わる頃はケムニッツへと移った。キルヒナーは18歳のときに当時通っていたケムニッツの実科ギムナジウムの修学旅行で訪れたニュルンベルクで初期の木版画とアルブレヒト・デューラー(1471-1528)の絵を見て、芸術家になる決意をしたという。父親は、キルヒナーに家庭教師から英語のほか水彩画や木版画も習わせるなど、芸術への理解を示してはいたが、美術大学への進学には反対した。
キルヒナーは、息子の将来を案ずる父との折り合いをつける道として、1901年ドレスデン王立工科大学で建築を専攻した。そこで似た境遇のもと工科大学へ進学してきたフリッツ・ブライル(1880-1966)と出会い、無二の親友となり二人で素描や油彩画を描き、木版画制作も始めて技術を高め合った。1903年の冬学期にキルヒナーは、ひとりでミュンヘンへ行き、工科大学に学籍登録するとともにヴィルヘルム・フォン・デプシッツとヘルマン・オブリストのデザイン学校にも通ってモデリングや素描などを習った。
卒業に先立ち友人たち(ブライル、エーリヒ・ヘッケル[1883-1970]、カール・シュミット=ロットルフ[1884-1976])と四人で、ドイツ語で「橋」を意味する芸術家集団〈ブリュッケ〉を1905年に結成する。のちにマックス・ペヒシュタイン(1881-1955)とオットー・ミュラー(1874-1930)が加わったほか、キルヒナーたちの一世代先輩にあたるエミール・ノルデ(1867-1956)も初期に短期間参加していた。
「ブリュッケ」という名は、ニーチェの著作『ツァラトゥストラはかく語りき』にある「人間の偉大なゆえんは彼が目的でなく橋(ブリュッケ)たるにある」に由来する。〈ブリュッケ〉の絵画の様式的特徴は、オセアニア美術やアフリカ美術からインスピレーションを得て、即時性と自発性を備えた方法による原色を用いた鮮烈な色彩、太く鋭い線による輪郭描写、そして形態の歪みに見られるが、大森氏は「〈ブリュッケ〉とは、伝統からの離脱にほかならない。ファン・ゴッホ(1853-1890)、新印象派、ポール・ゴーガン(1848-1903)、そしてエドヴァルト・ムンク(1863-1944)という新たな美的表象が、直観に基づく創造という新たな表現方法を呼び覚ました」と述べている。
「ブリュッケの歴史」
〈ブリュッケ〉の当初メンバーは、1905年から1911年まではドレスデンにいて、メンバーのアトリエに集まって「15分間ヌード」と名づけた速攻で描くデッサンや版画、絵画制作、支援者への版画発送などをしていたが、夏にはドレスデン近郊の沼沢地などに滞在したり、バルト海や北海の保養地に滞在したりして、その土地の自然や自分たち自身も含め自然のなかで自由に振る舞うモデルの裸体を競って描いていた。
1911年キルヒナーは、ペヒシュタインを頼ってベルリンへ移った。ペヒシュタインは、パリでフォーヴィスムに触れた後、ベルリンで装飾画制作の仕事をしていた。キルヒナーは、芸術プロモーターのヘアヴァルト・ヴァルデンが発行する雑誌『デア・シュトゥルム(嵐)』に木版画を寄稿することによって、文学者との交流が深まった。この頃、生涯の伴侶となるエルナ・シリングと出会う。1912年ケルンで開かれた第4回「ゾンダーブント」展へ出品。1913年キルヒナーは、〈ブリュッケ〉のリーダー的存在として再結束を託した書籍『芸術家グループブリュッケ年代記』のなかで、「ブリュッケの歴史」を起草した。しかし、これが原因となって内紛が起こり、5月〈ブリュッケ〉は解散してしまった。この年の暮れから翌年前半にかけて《ベルリンの街頭風景》の連作が描かれた。1914年第一次世界大戦が勃発。神経質に徴兵を恐れたキルヒナーだったが、後方支援の仕事に配属されることを期して志願兵として従軍するも精神的障害によって翌年除隊となる。
1917年にはスイスのダボス近郊の村に移住し、クロイツリンゲンのサナトリウムで療養しながら制作する。デッサン、水彩、版画、油絵、彫刻、刺繍や壁画の構想に及んだ。1923年ダボスに近いフラウエンキルヒ=ヴィルボーデンに引っ越す。スイス・バーゼルにて初の大規模な個展開催。1928年イタリア・ヴェネツィア・ビエンナーレに初出品。1931年プロイセン芸術アカデミー★の会員となる。1933年ベルリンにて大規模個展が開催され、木版画の独自性とともに、抽象とも具象とも分類しがたい独特な画風が生み出された。1937年ドイツ本国ではナチ党の横行が甚だしく、「退廃芸術」展にキルヒナーの作品32点が掲げられ、ドイツの美術館では収蔵品639点が押収された。それらは制作への意欲にすがって生きていたキルヒナーにとって致命的な打撃となった。1938年6月15日、スイスのフラウエンキルヒ=ヴィルボーデンの自宅で拳銃により自ら命を絶った。享年58歳。遺体はダボス近郊の墓地に埋葬された。
★──1696年芸術の促進と若手芸術家の教育振興のため、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世によって設立されたヨーロッパでもっとも古い文化機関のひとつ。現代では、展覧会、コンサート、朗読会、シンポジウムなどを通じて、国際交流や現代芸術の発展に貢献している。
ベルリンの街頭風景の見方
①タイトル
ベルリンの街頭風景(べるりんのがいとうふうけい)。英題:Street, Berlin.1913
②モチーフ
二人の娼婦、男たち、車、ショー・ウィンドウ。
③制作年
1913年。キルヒナー33歳。
④画材
キャンバス・油彩。
⑤サイズ
縦120.6×横91.1cm。
⑥構図
縦長の画面の中に、上下の三角形を重ね合わせて作られた幾何学的な菱型の構図。下辺は三角形の底辺として立ち上がり、上辺は三角形の底辺として下に向かう。娼婦たちを画面の正面に置き、歪んだ遠近法と、V形、A形、Z形、N形、M形の複雑な平面構造によって見る者を巻き込んでいる。
⑦色彩
ピンク、紫、赤、濃い青、黒、白など多色。色の対比効果を考慮し、強いコントラストを用いている。ピンク、紫、赤はエロティックな都市を強く想起させるサインとして使われ、黒はフォーマルだが、同時に危険さも帯びている。
⑧技法
油彩。約20×16cmのスケッチブックを持って出かけ、街の事象を絶え間なく描き留める。そのラフスケッチを基にアトリエでパステル、チョークで色を付けた素描習作を描き、そして一瞬の体験を描き止めたハッチング(細かく平行な線や交差する線を重ねて陰影や質感を表現する技法)のような筆致で、油彩画を制作する。時に油彩の前後に荒彫りの木版画を制作。それは個々の形態表現をより明快なものにするという意味があった。
⑨サイン
画面右下に茶色で「E L Kirchner」と斜めに署名。
⑩鑑賞のポイント
華やかな衣服や帽子で着飾った二人の女性が颯爽と街を歩く[図1]。ベルリンの街頭風景を主題としたシリーズのひとつ。画面の左上にはヘッドライトを灯した自動車が疾走し、右上は暗い表情の男たちを並べ、動きの並行性が同時的なリズムを作り出す、イタリア未来派の影響が見られる[図2]。また右側でショー・ウィンドウを覗く男性を、左側の女性がじっと目を凝らして見ている。この時代、夜に盛装して街を出歩く女性は娼婦と考えられていた。ビジネスと文化の磁場である、活気に満ちた大都市は、魅惑的であると同時に混沌としていて危険な要素に満ちている。賑やかな近代都市の象徴として、都会のスピードと猥雑なエネルギーを表わす。キルヒナーは、手を激しく動かした素朴で力強い筆勢によって、大都会の慌ただしさ、目まぐるしさ、喧噪、活発さ、ダイナミズムを描いている。男性の光沢のあるコートは、サテンのような質感を呈する。この色彩と質感、そして人物の姿勢、そして娼婦から目をそらす視線は、怪しげな人物像を暗示している。彼は潜在的な顧客というよりも、自分の女たちを管理する監視員なのかもしれない。キルヒナーの鋭敏な気質を通じて造形化された都会と、そこに生きる人間たちの姿を描いた作品であり、第一次世界大戦前夜の破局へ向かう不穏な空気に的中したドイツ表現主義を代表する傑作である。
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図1 颯爽と歩く二人の娼婦(《ベルリンの街頭風景》部分)
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図2 抽象化された男性人物像(《ベルリンの街頭風景》部分)
錯綜する夜の帝都
大森氏は、《ベルリンの街頭風景》について「これは帝都となったベルリンの人々が行き交う賑やかな通りの光景。絵のなかで俄然目立っているのは、画面前景の歩道をこちらに向かって歩いてくる二人の女性の姿。左の女性は紫色、右の女性は濃い青のコートを羽織り、いずれも白い羽根の襟を着けている。帽子にも羽根が付いており、雌鶏を意味するフランス語に由来する『ココッテ』と呼ばれていた娼婦と思われる。1871年ドイツ帝国成立によって帝都となったベルリンは、ロンドンとパリと肩を並べる世界都市へと発展し、その成長とともに多くの近代的、社会的矛盾がいっぱい凝縮してベルリンの街に出てきていた。地方から首都へやってきた労働者階級出身の女性の多くが娼婦となり、売春も社会問題のひとつだった。売春宿が1850年代に風紀警察の取り締まりを受けたため、娼婦たちは街路に出て客を取るようになった。客引きもご法度のため、通りを行く男性たちに目配せを送るだけでも取り締まりの対象となった。娼婦たちにとって、いかに正体を見破られずに客を引くかが生き残る術だった。しかし、羽根飾りの付いた帽子や羽根の襟巻は娼婦たちのお決まりのファッションで、夜のベルリンの名物のような存在でもあった」という。
国立西洋美術館の田中正之館長は、「権力と欲望の眼差し、不安や猜疑心の眼差し、生きるための闘争をめぐるこのような錯綜した眼差しが交錯する場こそキルヒナーが描き出したベルリンの街路にほかならない」(田中正之『ベルリン──砂上のメトロポール』p.379)と書いている。
体験の感動を描く
大森氏は「キルヒナーは《ベルリンの街頭風景》をシリーズとして、1913年暮れから1914年前半にかけて10点、1915年に1点描いているが、本作品が構図と色彩、画面の躍動感の点でもっとも成功した作品である。荒いトゲトゲしたハッチングのような筆致、鋭角的な形態、引き伸ばされた人体表現が特徴で、イタリア未来派や当時注目されていたマニエリスムの画家エル・グレコ(1541-1614)が大きな影響を与えていたと考えられる。そして文学者たちとの交流も大きい。1908年に出版された美術史家ヴィルヘルム・ヴォリンガーの処女作『抽象と感情移入』や1911年刊行の『ゴシックの形態問題』が本作品と関わっている可能性がある。北方ゴシックの様式的特徴と、その内的要因を探究したヴォリンガーは、超越主義が宿命論や静寂主義へは行き着かず、不安な逼迫感に駆られながらも解放へ向かって上昇しようとする生命力にあふれた表現を生み出すと言っている。こうした論調が愛国主義や民族主義の高まりに同調してドイツ表現主義を補強することになった。また、〈ブリュッケ〉解散の1913年にキルヒナーが書いた『ブリュッケの歴史』には、グループ結成当初のメンバーに『生のなかから創作への刺激を受け取り、体験に従う』という共通の感情が生まれたと書かれている。ここでキルヒナーが使っている『体験』の語は、1906年に出版されたヴィルヘルム・ディルタイの文学評伝集『体験と創作』をきっかけに一般にも広く使われるようになったと言われており、キルヒナーのこの言葉はディルタイ的で、キルヒナーの基本姿勢を言い表わしている。《ベルリンの街頭風景》は、キルヒナーの体験を描いており、キルヒナーの捉えた感動の一瞬が、生き生きと描かれている」と、制作背景について語った。
大森淳史(おおもり・あつし)
帝塚山学院大学名誉教授。1954年大阪府生まれ。1977年大阪大学文学部美学科卒業、1979年同大学大学院文学研究科修士課程修了、1981年同研究科博士課程退学。1981〜87年大阪大学文学部助手、1989〜96年神戸芸術工科大学専任講師、同助教授、1996年帝塚山学院大学文学部助教授、同教授、2022年定年退職。博士(文学)。専門:近代ドイツの美学・芸術論および美術史。所属学会:美学会、美術史学会、民族藝術学会。主な著訳書:アウグスト・K.ウィードマン『ロマン主義と表現主義』(翻訳、法政大学出版局、1994)、『ドイツ表現主義の世界──美術と音楽をめぐって』(共著、法律文化社、1995)、『芸術はどこから来てどこへ行くのか』(共編、晃洋書房、2009)、『〈ブリュッケ〉とその時代:個人主義と共同体のあいだで』(三元社、2019)など。
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner)
ドイツの画家。1880~1938。ドイツのバイエルン州アシャッフェンブルクに生まれた。1901年ドレスデン王立工科大学で建築を学ぶ。そこでのちに芸術家集団〈ブリュッケ〉を共に結成するフリッツ・ブライルと出会う。1903年の冬期ミュンヘン工科大学で絵画の修業。1905年ドレスデンで、ブライル、エーリヒ・ヘッケル、カール・シュミット=ロットルフら四人でドイツ語で橋を意味する芸術家集団〈ブリュッケ〉結成。巡回展の準備や支援者への版画発送など共同で制作や作業をしていた。1908年バルト海フェーマルン島で滞在制作。1911年ベルリンに移住。資金稼ぎのためペヒシュタインと協力し、MUIM(現代絵画授業)研究所を設立したが、生徒が集まらず翌年閉鎖。生涯の伴侶となるエルナ・シリングと出会う。ケルンの第4回「ゾンダーブント」展へ出品。1913年再結束のための「ブリュッケの歴史」執筆が内紛を招き、〈ブリュッケ〉解散。街頭風景、サーカス、肖像、裸体などを描く。1914年第一次世界大戦勃発。志願兵として陸軍に従軍したが、翌年神経症にかかり除隊。1917年スイスのダボス近郊の村に移住。クロイツリンゲンのサナトリウムで療養する。1923年ダボスに近いフラウエンキルヒ=ヴィルボーデンに移住。スイスのバーゼルにて初の大規模な個展開催。1928年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。1931年ドイツ・プロイセン芸術アカデミー会員。1933年ベルリンにて大規模個展。1937年ナチスにより誹謗を受け、32点が「退廃芸術」展に展示され、ドイツの美術館に収蔵されていた639点がナチスに押収された。1938年スイスのフラウエンキルヒ=ヴィルボーデンの自宅にてピストル自殺。享年58歳。代表作:《ベルリンの街頭風景》《マルツェッラ》《兵士としての自画像》など。
デジタル画像のメタデータ
タイトル:ベルリンの街頭風景。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《ベルリンの街頭風景》1913年、キャンバス・油彩、縦120.6×横91.1cm、ニューヨーク近代美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:ニューヨーク近代美術館、Bridgeman Images、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Jpeg形式68.0MB、300dpi、8bit、RGB。資源識別子:BAL_5398497(Jpeg形式68.0MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。情報源:(株)DNPアートコミュニケーションズ。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:ニューヨーク近代美術館、Bridgeman Images、(株)DNPアートコミュニケーションズ。
画像製作レポート
《ベルリンの街頭風景》の画像は、DNPアートコミュニケーションズ(DNPAC)へメールで依頼した。後日、DNPACからのメールにより、作品画像をダウンロードして入手(Jpeg、68.0MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。トリミング2点、掲載は1年間。
iMac 21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって、モニターを調整する。ニューヨーク近代美術館(MoMA)のホームページ上の作品の画像と、書籍『新装カンヴァス版 世界の名画14 カンディンスキーと表現主義』(中央公論社)の大判作品画像を参考に色調整を行なった。紫やピンクなど、中間色の艶の有無を判断するため、発光するPCのモニターと、光を反射する書籍の画像を比較したことで、中間色に限らず絵具は艶を強調していないことがわかった。
セキュリティを考慮して、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用い、拡大表示を可能としている。
参考文献
・図録『ドイツ表現派展』(朝日新聞東京本社企画部、1963)
・土肥美夫訳者代表『ドイツ表現主義4 表現主義の美術・音楽』(河出書房新社、1971)
・吉田秀和解説『ファブリ世界名画集 47 ルードヴィヒ・キルヒナー』(平凡社、1971)
・エーヴァルト・ラトケ著、遠山一行訳 『現代の絵画12 ドイツ表現主義』(平凡社、1974)
・嘉門安雄『ファブリ研秀世界美術全集 16 モロー、ルドン、ムンク、アンソール、キルヒナー』(研秀出版、1976)
・『週刊朝日百科 世界の美術 No.182ドイツ表現主義──マルク、ノルデ、キルヒナー、ココシュカ、バルラッハ』(朝日新聞社、1979.6)
・土肥美夫『ドイツ表現主義の芸術』(岩波書店、1991)
・図録『ドイツ表現主義 ブリュッケ展』(毎日新聞社、1991)
・Magdalena M.Moeller “Ernst Ludwing Kirchner:Die StraBenszenen 1913-1915”(Hirmer Verlag、1993)
・ホルスト・イェーナー著、土肥美夫+内藤道雄訳『ドイツ表現派 ブリュッケ』(岩波書店、1994)
・アウグスト・K.ウィードマン著、大森淳史訳『ロマン主義と表現主義(叢書・ウニベルシタス469)』(法政大学出版局、1994)
・中島健蔵+野村太郎+高階秀爾『新装カンヴァス版 世界の名画14 カンディンスキーと表現主義』(中央公論社、1995)
・早崎守俊『ドイツ表現主義の誕生』(三修社、1996)
・図録『ドイツ表現主義の芸術』(アプトインターナショナル、2002)
・大森淳史+岡林洋+仲間裕子編著『芸術はどこから来てどこへ行くのか』(晃洋書房、2009)
・田中正之「混乱する眼差し──エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー『ベルリン街路風景』連作をめぐって」(『ベルリン──砂上のメトロポール(西洋近代の都市と芸術5)』、竹林舎、2015、pp.359-383)
・大森淳史『〈ブリュッケ〉とその時代:個人主義と共同体のあいだで』(三元社、2019)
・Webサイト:『Kirchner HAUS Aschaffenburg』2025.9.5閲覧(https://www.kirchnerhaus.com/)
・Webサイト:『Brücke Museum』2025.9.5閲覧(https://www.bruecke-museum.de/)
・Webサイト:「Ernst Ludwig Kirchner German, 1880–1938」(『MoMA』)2025.9.5閲覧(https://www.moma.org/artists/3115-ernst-ludwig-kirchner)
・Webサイト:「Ernst Ludwig Kirchner Street, Berlin 1913」(『MoMA』)2025.9.5閲覧(https://www.moma.org/collection/works/79354)
掲載画家出身地マップ
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2025年9月