ピエール・ボナール《浴槽の裸婦》
1936年、キャンバス・油彩、93×147cm、パリ市立近代美術館蔵
Photo: Bridgeman Images / DNPartcom
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変化していく感覚

自分というものと、自分でないものの境界は何だろう。2025年のノーベル生理学・医学賞を受賞した大阪大学の坂口志文(しもん)特任教授は、絵を描くことも好きだったそうだが、免疫学の道をこのような哲学的テーマに関心を持って選んだという。自分を守るはずの免疫が、ときに自分を攻撃するという人間の身体の不思議。自分の境界線は曖昧で、揺らぎのあるものではないか、と考えたそうだ。歪んだ線や滲んだ色彩、明るい光の浴室に置かれた白い浴槽に横たわるひとりの女性。ピエール・ボナールの代表作《浴槽の裸婦》(パリ市立近代美術館蔵)を見てみたいと思った。

幻影のような世界に、温かさを感じない水面下で真っ直ぐ伸びた足だけが、ひと筋の線を描き画家の強い意志を感じる。画面全体を補色関係にある青と黄色で占め、画面上部には外光が射し込んで壁のタイルが黄金色に輝き、下部の床タイルは青く点々とリズムを刻んでいる。鑑賞時間の経過とともに画面の透明感や伝わってくる温度や湿度など、感覚が変化していくようだ。《浴槽の裸婦》とはどのような絵なのだろう。

女子美術大学で非常勤講師を務めている永澤桂氏(以下、永澤氏)に《浴槽の裸婦》の見方を伺いたいと思った。永澤氏は、ジェンダー美術史を専門とし、2018年に博士論文「ピエール・ボナールの自画像と『浴室の裸婦』の主題をめぐって:1920年代以降の作品を中心に」を書いており、ボナールの《浴槽の裸婦》に詳しい。横浜の喫茶店で話を伺った。


永澤 桂氏

ジェンダー美術史を始める

永澤氏は、1974年鎌倉市に生まれた。父親の仕事の関係で2歳のときに米国ニューヨークに渡り、5年ほど住んでいたという。子供の頃から読書が好きだった。美術館へ行ってはいたが、特別美術に親しくはなく、難民や人種差別など、社会的なことに興味があって国連に勤めたいと思っていた。大学受験が近づくと、美術史に関心があった母親の勧めで美術史を学びたいと思うようになり、女子美術大学へ進み、その後大学院へ入学。当時美術史において新しい切り口を提示した米国のフェミニスト美術史家リンダ・ノックリンなど、フェミニズム美術史の論文を読むようになり、ジェンダー美術史に注目し研究を始めた。

19世紀のフランス美術史を専門とする大森達次先生のアドバイスを受け、永澤氏は現代絵画に近い感覚のボナールをジェンダーの視点から研究してみようと思った。そして、2001年女子美術大学大学院を修了後、当時ジェンダー美術史に関心を持っていた横浜国立大学の小野康男先生のいる大学院へ行き研究を深め、2018年同大学院の博士後期課程を修了。2011年より母校の女子美術大学の非常勤講師として美術史や女性の歴史、ジェンダー論を指導しており、2019年から2025年1月までは横浜国立大学でも教鞭を執った。

ボナールの《浴槽の裸婦》との直接の出会いは、1999年女子美術大学の大学院生のときだった。スイスのピエール・ジアナダ財団で大規模な「Pierre Bonnard」展があり、ひとりで見に行ったそうだ。大森先生からの勧めがあり、ジュネーヴから電車で1時間ほど、古い教会や邸宅など中世の面影が感じられるマルティニーへ向かった。《浴槽の裸婦》の第一印象を永澤氏は、「大きい。光のきらめきの度合いが図版で見たものよりも強く、そして裸婦の身体が水の中に沈んでいた。裸婦像というよりもタイルの印象が残っている」。

「日本かぶれのナビ」

ピエール・ボナールは、1867年10月3日、パリ近郊のフォントネ=オ=ローズに生まれた。陸軍省の事務長を務めるフランス南東部ドーフィネ地方出身の父ウジェーヌ・ボナールと、パリの東、約500キロのアルザス地方出身のエリザベト・メルツドルフを母に、3人兄妹の2番目だった。ブルジョワ(中産階級)の子息として幼少期を過ごし、パリに出ると名門のシャルルマーニュ校、次いでルイ=ル=グラン校に編入して文学や哲学、ギリシア語、ラテン語を学び、素描にも関心を持っていた。芸術に理解のある父ではあったが父の希望に従い、1885年ボナールは大学入学資格を取得し法学部に入学する。

しかし、画家になる夢を捨てきれずに美術館での模写を続けていた。学業のかたわらボナールは1887年、私立の画塾アカデミー・ジュリアンへ入り、ポール・セリュジエ(1864-1927)や、ポール・ランソン(1861-1909)、モーリス・ドニ(1870-1943)らと出会う。翌1888年には、パリ郊外のクルブヴォワの役場で会計係として働き始め、法学士の学位を取得した。そして同年、ポール・ゴーガン(1848-1903)に心酔していたセリュジエを中心にナビ派を結成する。

1889年22歳のボナールは、フランス国家が授与する奨学金付留学制度ローマ賞コンクールに挑戦したが落選してしまう。また同年までに国立美術学校(エコール・デ・ボザール)の絵画部門に入学していたと思われる。ケル=グザヴィエ・ルーセル(1867-1944)やエドゥアール・ヴュイヤール(1868-1940)と出会い、彼らもナビ派に参加した。ボナールは、ドニやヴュイヤールらとモンマルトルの丘の麓ピガールに共同アトリエを借りて、酒造会社「フランス=シャンパーニュ」の広告ポスターコンクールに応募し、最優秀賞を受賞、賞金100フランを獲得した。そして父を説得して画家の道へ入る。フランス革命100周年を記念して、1889年に開催された第4回「パリ万国博覧会」が開かれ、街には流麗なエッフェル塔が建設され、パリは19世紀の首都として文化的頂点にあった。

1890年アール・ヌーヴォーを推進していた美術商サミュエル・ビングが国立美術学校で開催した「日本美術展」に深く感動したボナールは、装飾的で色彩豊かな画風に変わり、美術批評家フェリックス・フェネオンはボナールを「日本かぶれのナビ」と評した。また、この時期ナビ派以外の画家や演劇人、音楽家など、多くの文化人と交流し、挿絵や版画、ポスター、舞台美術などを制作。1891年には「アンデパンダン展」に初めて参加し、油彩画5点と装飾画パネル《庭の女性たち》を出品した。

★──「ナビ」とはヘブライ語で預言者の意味。目に写る現実と心象を、ひとつの画面に構成して描くというゴーガンらの総合主義に影響を受けた集団、およびその芸術運動。1888年セリュジエを中心に結成され、その宣言といえる絵画原理「新伝統主義の定義」をドニが記した。

流動する親密派

ボナールは1893年26歳のとき、パリの街角でマルト・ド・メリニー(1869-1942)と自らを称する神経質な年下の女性と出会った。通りを横切ろうとする彼女に手を貸したのがきっかけだったという。労働者階級出身のマルトは、極端に綺麗好きで憑かれたように自分の身体を洗い、人と交わるのは苦手だったが、ボナールの生涯の伴侶となり、モデルとして作品に登場するほか、画家の創作と日常生活を内面から支える存在だった。

穏やかな日常を過ごすボナールは、家族や友人が集う室内の光景や身近な風物を描いていたため、親密派(アンティミスト)という言葉で語られる。しかし、親密派という言葉だけでボナールを捉えることはできない。ボナールはピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)の外光やゴーギャンの総合主義、日本美術の装飾など、前衛でも伝統でもなく、自分の絵画表現にとって有効と思えるものは何でも取り込んで独自の世界へ昇華させていった。

1896年デュラン=リュエル画廊で初の個展を開催。ナビ派の活動が自然消滅的に下火になっていた1909年、画家アンリ・マンギャン(1874-1949)の誘いで、憧れていた南仏サン・トロペに長期滞在する。1912年には病弱なマルトの療養もあり、クロード・モネ(1840-1926)が暮らすジヴェルニーに近い、ノルマンディーのヴェルノンに別荘「マ・ルーロット(私の家馬車)」と、1926年には南仏ル・カネに「ル・ボスケ(茂み)」と名づけた別荘を購入した。パリからマルトと一緒にこの二つの別荘に行き来しながら制作を続けた。1924年にはパリのドゥリュエ画廊で初の回顧展が開催され68点を展示した。

1925年、58歳になってマルトと正式に結婚、このとき初めて彼女の実年齢と本名をマリア・ブルサンと知る。1928年フランスを離れ、国外初の個展をニューヨークのデ・ハウケ画廊で開催。1932年チューリッヒ美術館でボナールとヴュイヤールの大規模な展覧会が開かれた。1936年《浴槽の裸婦》を制作する。1937年パリ万国博覧会に合わせて建設されたシャイヨー宮の装飾壁画《牧歌》を描く。1942年妻マルトが72歳で死去。ニースに住むアンリ・マティス(1869-1954)との往復書簡には互いの身を案じるやりとりが残されている。1947年南仏ル・カネの「ル・ボスケ」にて死去。享年79歳。ル・カネのノートル=ダム=デ=ザンジュ墓地でマルトの隣に眠っている。


浴槽の裸婦の見方

①タイトル
浴槽の裸婦(よくそうのらふ)。英題:Nude in the Bath


②モチーフ
裸婦、浴槽、浴室のタイル。


③制作年
1936年。ボナール69歳。


④画材
キャンバス・油彩。


⑤サイズ
縦93×横147cm。裸婦は等身大より少し小さい。


⑥構図
画面中央の横長に配された浴槽の裸婦は、斜め上からの俯瞰的な構図であるが、そのほか、壁は正面、床は上からや右斜め、あるいは浴槽の下を覗き込む視線など、複数の視点を組み合わせて空間構成をしている。


⑦色彩
青、黄、紫、茶、緑、赤、白、黒など多色。青と黄を対比させ、絵具を混ぜ合わせることから生じる色調の微妙な差異と変化によって画面を彩っている。


⑧技法
油彩。モチーフの観察によって得られた最初の理念を核心とし、いったんモチーフから離れて、それを甦らせて描くという方法。時間的ずれのなかに記憶の蒸留作用が生まれて、モチーフの最良の状態が表現されている。イーゼルを使わず、壁にキャンバスを画鋲で留めて描き始め、発色のよい絵具を擦れたように薄く塗り重ねたり、部分的には厚く塗ったりと、モチーフに寄り沿いながら、具象と抽象とのあわいを描いていく。そして描き終えてからキャンバスを木枠に張る。


⑨サイン
画面中央下に「Bonnard」と薄緑色で署名。


⑩鑑賞のポイント
「浴室の裸体」シリーズのひとつで、もっとも虹色に富んだ作品。妻マルトの裸体が浴槽に浸かる様子を描いた。「もうこんな難しい主題に取り組むことは二度とないだろう。自分が望むようにはいかないのだ。もう半年も取り組んでいるが、まだ数か月はかかるだろう」(永澤桂『ピエール・ボナールの自画像と「浴室の裸婦」の主題をめぐって』p.72)とボナールは言ったという。光の無数の反射は、キャンバス全面に色彩の反響を広げ、シンプルな白いタイルを魅惑的な光彩の支持体へと変えた。その壁の四角いタイルは、戸外の陽光を反映しながら色彩豊かに歪み、空間と時間を現実の世界から切り離している[図1]。また猫足の付いた簡素な陶器の浴槽[図2]に肢体を横たえるマルトは、顔が曖昧で身体も光のなかに溶け込み個性を剥奪されたかのようだ。当時60歳を超えていたマルトは、実年齢とは裏腹に若々しく、永遠に老いることのない彼岸の住人のようでもある。浴室全体が光と色彩で響き合い、水晶体の内部に似て美しく夢幻的で、現実の空間が神話的な世界に変貌している。ボナールは亡くなる前年、言葉を残した。「要は、生きた対象を描くのではなく、絵画を生きたものにするということである」(『もっと知りたいボナール 生涯と作品』p.69)。非物質的な輝きを、浴室を構成する固体と、流動体の要素とを等しく扱い、それらを調和させて、絵画をいきいきと自立させたボナールの代表作である。


図1 歪む浴室のタイル(《浴槽の裸婦》部分)


図2 猫足のついた浴槽(《浴槽の裸婦》部分)


視線の攪乱

独創性を持った「色彩の魔術師」として、また心理的にも複雑な感情を表現する手段として、絵画空間を再構築した画家として知られるボナール。美術評論家の柳亮は、ボナールと親交のあったフォーヴィスムの代表的な画家マティスと比較しながら、「かりにマチスのいい作品の例で言うのだけれども、彼の色を染物的な色彩とすれば、ボナールのほうは織物の色……。(略)それも、マチスは絹による染物だし、ボナールは毛織物の、しかも厚みをもったじゅうたんの世界ですね」「桃山はみなボナールと同じですよ。たとえば、智積院の等伯作といわれる障壁画にしても、主体がなくて、フォルムもない、中から出た美しさというものを示している、そういう点がボナールと同じですね」(柳『美術手帖』No.157、p.41/51)と述べている。

永澤氏は《浴槽の裸婦》の魅力のポイントは、「自然の揺らぎを、一枚の絵の中で構成しているところ。例えば裸婦像であれば画家が主体となり、裸婦は客体として扱われる。『見る』と『見られる』関係が西洋の絵画のなかで長年培われ、安定して秩序が定まっていた。ところが《浴槽の裸婦》では、光の攪乱によって、裸婦を見る者と見られる者の関係が安定しない。伝統的に男性画家が視線のうえで女性モデルを対象に支配してきた『所有』の意味合いが曖昧になり、また薄れていく。いろんな角度からの視点を意図的に描き、ボナール自身の視点も曖昧であることを表現している。ミラーボールのように視線の攪乱が起きており、見るという行為自体が流動的で、揺らぐものだと気づかせてくれる。見るという行為そのものを問う絵画であり、そこが現代的であるし答えがないところが見どころだと思う」と語った。


永澤 桂(ながさわ・けい)

女子美術大学・共立女子大学・横浜市立大学非常勤講師。1974年神奈川県鎌倉市生まれ。1997年女子美術大学芸術学部芸術学科卒業、2001年同大学大学院美術研究科美術史専攻修士課程修了、2006年横浜国立大学大学院教育学研究科美術教育専攻修士課程修了、2018年同大学院環境情報学府博士後期課程修了。博士(学術)。専門:ジェンダー美術史。所属学会:日仏女性研究学会。主な著書:論文「世紀転換期のフランスにおける針仕事をする女性の表象」(『女性空間』、日仏女性研究学会、2019)、東京新聞・中日新聞に「絵に潜む男の視線」を連載(2022年1月〜2023年3月)、『働く女たちの肖像』(現代書館、2024)など。


ピエール・ボナール(Pierre Bonnard)

フランスの画家。1867-1947。パリ郊外のフォントネ=オ=ローズ生まれ。1885年パリ大学法学部に入学。1887年画塾アカデミー・ジュリアンに入り、セリュジエやドニと出会う。1888年法学士の学位取得。ナビ派を結成。1889年国立美術学校に入り、絵画を学んでいたと思われる。同年フランス・シャンパーニュ社のポスター募集で最優秀賞を受賞。1890年国立美術学校で「日本美術展」が開催され、影響を受けて浮世絵の収集を開始。1891年「アンデパンダン展」に油彩画5点などを出品。1893年マルトと出会う。1894年総合芸術誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ』のポスターを制作。1896年デュラン・リュエル画廊で初個展。1903年「サロン・ドートンヌ」が創設され3点出品。1906年ベルネーム=ジュヌ画廊で個展開催。同画廊で以後、定期的に発表。1909年南仏サン・トロペに長期滞在し、ほぼ毎年滞在するようになる。1912年レジオン・ドヌール勲章の叙勲が決定されるが拒否する。ノルマンディーのヴェルノンに別荘「マ・ルーロット」を購入。1914年ロシア・バレエ団(バレエ・リュス)のポスターを制作。その年、第一次大戦勃発(~1918)。1925年マルトと正式に結婚。1926年南仏ル・カネに別荘「ル・ボスケ」を購入。1927年甥のシャルル・テラスによる『略伝ボナール』の刊行に協力。1928年国外で初の個展をニューヨークのデ・ハウケ画廊で開催。1939年第二次大戦勃発(~1945)。1942年妻マルト死去。戦後、姪のルネ・テラスと一緒にル・カネで暮らす。1946年ベルネーム=ジュヌ画廊での個展を見るためにパリへ出る。1947年1月23日ル・カネで没。享年79歳。代表作:《浴槽の裸婦》《乳母たちの散歩と辻馬車の列》《中産階級の午後》《逆光の裸婦》《鏡の効果あるいは浴盤》《花咲くアーモンドの木》など。


デジタル画像のメタデータ

タイトル:浴槽の裸婦。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:ピエール・ボナール《浴槽の裸婦》1936年、キャンバス・油彩、縦93×横147cm、パリ市立近代美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:パリ市立近代美術館、Bridgeman Images、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Jpeg形式115.0MB、300dpi、8bit、RGB。資源識別子:BAL_91688.jpg(Jpeg形式115.0MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。情報源:(株)DNPアートコミュニケーションズ。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:パリ市立近代美術館、Bridgeman Images、(株)DNPアートコミュニケーションズ。


画像製作レポート

《浴槽の裸婦》の画像は、DNPアートコミュニケーションズ(DNPAC)へメールで依頼した。後日、DNPACからのメールにより、作品画像をダウンロードして入手(Jpeg、115.0MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。トリミング2点、掲載は1年間。
iMac 21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって、モニターを調整する。Webサイト『Musée d’Art Moderne de Paris』の作品画像を参考に色味を調整した。
多色の画面でわかりにくいが、拡大するとポジフィルムのものと思われる汚れが付着していた。デジタルカメラが普及している昨今、作品のデジタル化は直接デジタルカメラで撮影した方がよいと思う。撮影条件にもよるが画質が高くなり、鑑賞者や研究者にとっては有用で、製作コストも抑えられる可能性がある。
セキュリティを考慮して、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用い、拡大表示を可能としている。


参考文献

・柳亮+高橋忠爾「対談 ボナールの芸術 色彩 陰のなかの光の魔術」(『美術手帖』No.157、美術出版社、1959.5、pp.28-51)
・ANDRE FERMIGIER解説、木島俊介訳『Bonnard(世界の巨匠シリーズ)』(美術出版社、1969)
・座右宝刊行会編『現代世界美術全集 11 ボナール/マティス』(集英社、1972)
・図録『ボナール展』(毎日新聞社、1973)
・『週刊朝日百科世界 65号 ボナール(通巻185号)』(朝日新聞社、1979.6)
・図録『ピエール・ボナール展』(アートよみうり、1980)
・大森達次+辻邦夫『アート・ギャラリー:現代世界の美術 9 ボナール』(集英社、1986)
・高階秀爾監修『NHKオルセー美術館6:20世紀へのかけ橋』(日本放送出版協会、1990)
・『週刊グレート・アーティスト 第96号 ピエール・ボナール』(同朋舎出版、1992.1)
・Jean et Henry Dauberville, Bonnard : catalogue raisonné de l’oeuvre peint. 3:1920-1939(Editions Bernheim-Jeune、1992)
・ギー・コジュヴァル著、村上博哉訳『岩波世界の巨匠 ボナール』(岩波書店、1994)
・江藤淳+穴沢一夫+高階秀爾『新装カンヴァス版 世界の名画12:ロートレックとボナール』(中央公論社、1994)
・ジュリアン・ベル著、島田紀夫+中村みどり訳『ボナール(アート・ライブラリー)』(西村書店、1999)
・『週刊美術館:小学館ウィークリーブック14号(時代順30)ロートレック、ボナール』(小学館、2000.5)
・『週刊西洋絵画の巨匠 29号 ボナール』(小学館、2009.9)
・高橋明也監修・著、島本英明『もっと知りたいボナール 生涯と作品 アート・ビギナーズ・コレクション』(東京美術、2018)
・図録『ピエール・ボナール展』(日本経済新聞社、2018)
・ピエール・ボナール/アンリ・マティス著、山内由紀子訳『ボナールとマティス:手紙の二人』(求龍堂、2023)
・Webサイト:永澤桂「ピエール・ボナール作《浴槽の裸婦》の作品解釈──モチーフと平面構成の関係について」(『横浜国立大学学術情報リポジトリ』、2011.5.24公開)2025.10.5閲覧(https://ynu.repo.nii.ac.jp/records/5072
・Webサイト:永澤桂「ピエール・ボナールの自画像と『浴室の裸婦』の主題をめぐって:1920年代以降の作品を中心に」(『横浜国立大学学術情報リポジトリ』2018.6.7公開)2025.10.5閲覧(https://ynu.repo.nii.ac.jp/records/9148
・Webサイト:「Bonnard/Jun 21–Oct 13, 1998」(『MoMA』) 2025.10.5閲覧(https://www.moma.org/calendar/exhibitions/212
・Webサイト:『Musée Bonnard』 2025.10.5閲覧(https://www.museebonnard.fr/index.php/fr/
・Webサイト:「Nu dans le bain」(『Paris Musées』)2025.10.5閲覧(https://www.parismuseescollections.paris.fr/fr/musee-d-art-moderne/oeuvres/nu-dans-le-bain
・Webサイト:「collections-en-ligne:Pierre-BONNARD-Nu-dans-le-bain」(『Musée d’Art Moderne de Paris』)2025.10.5閲覧(https://www.mam.paris.fr/fr/collections-en-ligne#/artwork/pierre-bonnard-nu-dans-le-bain-180000000000393?page=1&filters=query%3Abonnard


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2025年10月