アート・アーカイブ探求
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》──色彩のシャワー「宮崎克己」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2022年03月15日号
※《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》の画像は2022年3月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
平和を導く感覚
ロシアのプーチン大統領が2022年2月24日、ウクライナに軍事侵攻を始めた。変異を止めないコロナウイルスに人類が戦々恐々としているコロナ禍のなか、「北京2022オリンピック冬季競技大会」が2月20日に無事に終わり、3月4日のパラリンピックが始まる前だった。21世紀の独裁者が核の脅威をちらつかせる。いま、世界は危うい状態にある。北京パラリンピックの開会式で、国際パラリンピック委員会のアンドルー・パーソンズ会長が「PEACE」と訴えた。平和を導くように感覚を開こう。
どんなときも生きる歓びに感銘し、「悲しげな絵を描かなかった唯一の大芸術家」と言われるピエール=オーギュスト・ルノワールの代表作《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》(オルセー美術館蔵)を見てみよう。若い男女が広場に集まって楽しそうに踊ったり、談笑したりみんな幸せそうだ。密集した人々の生き生きとした光景は、人と交わることの大切さを思い起こさせる。ルノワールといえば、古典的なヌードが浮かんできて関心がなかったが、近代絵画を切り開いたポール・セザンヌ(1839-1906)と親しかったと知り興味が湧いてきた。二人は伝統的なものを愛好し、人物や静物を描いてサロン(官展)への入選に挑んでいた。美術評論家の高階秀爾氏は「セザンヌが造形的な面でその天才を発揮したとすれば、ルノワールは感覚的な天才だった」(高階秀爾『美術手帖』No.281、p.32)と述べている。
《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》の見方を昭和音楽大学教授の宮崎克己氏(以下、宮崎氏)に伺いたいと思った。宮崎氏は学芸員を務めていたときに、展覧会「ルノワール 異端児から巨匠への道 1870-1892」(ブリヂストン美術館〔現アーティゾン美術館〕、2001)を担当し、著書『ルノワール:その芸術と青春』(六耀社、2002)を出版されている。多摩川に隣接する東京・大田区のご自宅でお話を伺うことができた。
いったい美術とは何だろう
1952年埼玉県に生まれた宮崎氏は、小学校6年生のとき国語の教科書に画家ミレーの話があり、たまたま上野でミレー展をしているということを知って母に連れて行ってもらったところ、すでに会期が終わっており、代わりに国立西洋美術館に入ったら、そこにもミレーが1点あり感動したのが初めての美術館体験となった。そして、中学生から展覧会を見るようになり、3年生になると映画や演劇に凝っていたが、外交官だった父のいるパリでひと夏を過ごし、ルーヴル美術館や印象派美術館など美術館巡りをした。
1970年、高校3年生のときに東京ビエンナーレ(第10回日本国際美術展)を観に行った宮崎氏は、床に石がゴロゴロ転がってる作品や、展示室全体を白い布で覆うクリスト作品に衝撃を受けた。「ルネサンスや印象派の絵画が美術とすれば、これも美術。いったい美術とは何だろう」と思ったそうだ。その意識はいまも続いているという。
大学は東京大学の文学部に入り、美術史学を専攻した。古典と現代の接点となるセザンヌを採り上げ、卒論は「セザンヌにおける意味と造形」、修士論文は「セザンヌの物の表現」を書いた。博士課程のときにパリ第4大学へ3年間留学し、ゴシック建築の代表作であるノートルダム大聖堂の大空間に西洋を実感したそうだ。1987年博士課程を単位取得修了後、群馬県立近代美術館の学芸員となった。1990年にはブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)へ移り、学芸課長と副館長を務めて2006年に退職、フリーとなり執筆活動を続けた。2012年から現職。また、ジャポニスム学会の会長として、日本と西洋の美術における相互交流をテーマに研究を行なっている。
宮崎氏は、ブリヂストン美術館でモネ研究の第一人者ポール・ヘイズ・タッカーらと一緒に「モネ展」(1994)を企画し、達成感のある展覧会を体験した。そして、「ルノワールと日本の画家たち」展(1995)という小さな展覧会を担当した頃からルノワールを意識するようになったそうだ。「ルノワールは、ロダンとともに第一次世界大戦前後に日本に到来し、日本に西洋美術のイメージを与えた」という。2001年には先の「モネ展」と同じスタッフで、ルノワールが革新的であった印象派時代に焦点を当てた「ルノワール 異端児から巨匠への道 1870-1892」展を開催した。
宮崎氏が《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》を初めて観たのは、中学3年のパリ滞在中、当時印象派美術館でのことだった。優しいふわっとした絵が好きだった頃で、意識して鑑賞した記憶があるそうだ。
印象主義の誕生
ピエール=オーギュスト・ルノワールは、有数の焼物の産地であるフランス中部のリモージュに、1841年に7人兄弟の6番目として生まれた。父レオナール・ルノワールは紳士服の仕立て屋、母マルグリット・メルレも裁縫をしていた。一家はルノワールが生まれて間もなく、パリへ移る。
美しい声だったルノワールは教会の合唱隊に入り、オペラ座の合唱団への道が開けたが、ルノワールは絵画を好み、13歳のとき、磁器の絵付師に弟子入りする。一人前になったが、絵付けの機械化が進み、磁器絵付師を諦めざるを得なかった。その後、扇子の装飾、メダルの紋章描き、日よけの装飾、カフェの壁の装飾など、職人仕事をした。しかし、生きた人物を描きたいと思ったルノワールは、1861年パリで名声を博するスイス人画家シャルル・グレール(1808-74)のアトリエに入る。グレールは何も教えなかったが、シスレーやモネ、バジールなど、のちの印象派の親友を得た。敬愛するドラクロワや活躍する先輩マネに刺激を受け、一世代前の風景画家コロー、テオドール・ルソー、クールベ、ブーダンらを手本に、カフェ・ゲルボワに集い互いの研鑽を積んだ。1862年国立美術学校に入学した。
1869年には、モネと一緒にパリの近郊ラ・グルヌイエールへ行き、屋外で水辺の風景を油彩でスケッチした。即興的な描写の面白さを自覚し、自然や事物から受ける感動をそのまま表現する印象主義が生まれた。
「印象派の革新的だったところは、ひと言で言うと色彩。印象派の定義としてよく緑色を出すのに、「青と黄色の筆触を隣り合わせにして、つまり筆触分割で遠くから見ると視覚混合で緑に見える」ということを挙げることがあるが、定義としては不適切。実際にモネの1870年代から80年代前半、つまり印象派としての作品を数百点見てきたが、青と黄色を並列させている絵はひとつも見当たらなかった。印象派は画面全体を鮮やかな色で埋めていく。色と色を対比させて“色彩のシャワー”を観る者に浴びせるようなところがある。この《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》でも基本的に黒はほとんど使わず、暗い色は紺や紫に置き換えて、白っぽい色はバラ色やオレンジ色に置き換える。寒色と暖色を入れ違いに対比させることをやっている。それ以前のバルビゾン派などは明と暗の対比が主だが、印象派は色と色の対比に置き換わってくる」と宮崎氏は語る。
生命の賛歌
1870年代に入るとルノワールは、明るい色彩に移行していった。1870年普仏戦争勃発、徴兵されピレネーに送られる。翌年パリ・コミューンが起こるが鎮圧される。1874年には第1回印象派展(「画家、彫刻家、版画家などによる有限会社の展覧会」)が、パリ中心部のキャプシーヌ大通りにあったナダール写真館で開かれた。印象派展の評判は悪かった。
しかし、ルノワールの作品を愛好する人々が少しずつ出てきた。セザンヌの愛好者であった税関吏ヴィクトール・ショケ(1821-91)や、出版社を経営するジョルジュ・シャルパンティエ(1846-1905)だった。ルノワールはシャルパンティエの妻が主催するサロンへも参加するようになり、有名なコメディ・フランセーズ(国立劇団)の女優ジャンヌ・サマリー(1857-90)など、各界の名士たちと知り合う。そして、1876年第3回印象派展に《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》を出品した。
ルノワールは1878年、印象派のグループから距離を置く決心をする。もともとルノワールは印象派であると同時に、自分らしさをつねに持っていた。豊満な女性を描きたいルノワールにとって、屋外の太陽光は必ずしも必要ではなかった。1879年に後に妻となるアリーヌ・シャリゴに出会い、1881年アルジェリア、イタリアへと初めての海外旅行へ出る。ローマではラファエロの壁画、ナポリの博物館ではポンペイの壁画に大きな影響を受けた。その帰途、南フランスのレスタックにセザンヌを訪ねイーゼルを並べて制作した。「ルノワールはセザンヌと親密で、互いに影響を受けている。雰囲気がずいぶん違うが、よく見るとマチエール(絵肌の材質感)の作り方など共通するところもある」と宮崎氏は言う。
1883年デュラン=リュエル画廊で個展を開催する。2年後、長男ピエールが生まれた。セザンヌと家族同士でフランス北部の村ラ・ロシュ・ギュイヨンで夏を過ごす。ルノワールは印象派から離れ、試行錯誤しながら古典的なラファエロやアングルの表現に惹かれていき、くっきりとした輪郭線をもつ普遍的な人体描写を目指した。
1890年49歳で、アリーヌと結婚。ルノワールは安定した様式に達するようになる。光をたたえた白い肌、ふっくらとしたヴォリューム感のある体、画面全体を覆う細やかな筆触によって、水浴の女性ヌードをモチーフとした明るく温かい生命の賛歌を描き上げた。1892年フランス政府の依頼により《ピアノを弾く少女たち》を制作。1894年次男ジャンが誕生し、翌年アリーヌの故郷エッソワに家を購入。1900年にはパリ万国博覧会に作品11点が展示され、フランスの国民的画家としてレジョン・ドヌール勲章シュヴァリエ章を受章した。
1901年三男クロードが誕生。1907年南フランスのカーニュのレ・コレット(広大な地所)に土地を買い家を建てた。晩年はリューマチ性関節炎が悪化し、車いすに腰かけたまま指の動かなくなった手に絵筆を縛り付けてキャンバスへ向かった。1914年第一次世界大戦が勃発、長男ピエールと次男ジャンが戦地で負傷し、翌年妻アリーヌが亡くなる。1919年12月17日、南フランスの自宅カーニュで静かに生涯を終えた。享年78歳。エッソワの墓にアリーヌとともに眠る。梅原龍三郎(1888-1986)ら日本人画家にも大きな影響を与えた。
【ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会の見方】
(1)タイトル
ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会(むーらん・ど・ら・ぎゃれっとのぶとうかい)。英題:Dance at Le Moulin de la Galette
(2)モチーフ
屋外のダンス場、談笑する若者、ダンス、群衆、木漏れ日。
(3)制作年
1876年。ルノワール35歳。
(4)画材
キャンバス、油彩。
(5)サイズ
縦131.5×横176.5cm。
(6)構図
パノラマのような広がりのある構図。人の頭が充満した画面で、前景は斜め上から見下ろし、後景は水平の視点で広角になっており、会場に居合わせたかのように遠近感を伴った視覚が開けている。後景の水平線と電柱などがつくる垂直線が画面に安定感をもたらし、画面左下から右上へと対角線を浮かび上がらせることで動きを出している。対角線は談笑する人々とダンスをする人々を二つの領域に分けるだけでなく、人物の縮尺を変える基軸にもなっている。
(7)色彩
紺、青緑、緑、黄緑、白、水色、青、黄、紫、ピンク、オレンジ、赤、茶、焦げ茶、グレー、黒など多色。
(8)技法
水彩画法のような軽やかさと、躍動感のある筆触。輪郭線はない。絵の色感や筆触は変化に富み、そのマチエールの滑らかさや輝き自体が一種の官能性を帯びる。周囲の色彩が吸収されたテーブル上のグラスやボトルには、生乾きの絵具の上にホワイトで小さなハイライトを入れている。木漏れ日をまだら模様で表わし、入念な塗りの領域と粗い領域を織り交ぜるなど、不統一な性質が見受けられ、秩序と無秩序を混然一体に描いている。評論家のジョルジュ・リヴィエール(1855-1943)は、モンマルトルの丘の屋外舞踏場で描かれたと書き残しているが、サイズが大きいため外に運んで描いたとは考えにくく、また同じ絵柄の小品(78.8×113.1cm、個人蔵)は、完成作の後で描いたレプリカとも考えられており、実際に舞踏場で描いたのはどれなのかは不明。
(9)サイン
画面右下に黒で「Renoir 76」と署名。
(10)鑑賞のポイント
アカシアの枝葉の間から午後の木漏れ日が、歓談やダンスに興じる若者に降り注いでいる。ムーラン・ド・ラ・ギャレットの広い庭で催された舞踏会。本来舞踏会は、上流社会で人々が招待されて行くものだが、ここでは庶民が舞踏会のようにして集っている。当時、まだ畑や風車小屋のあるパリ北部の町外れでしかなかったモンマルトルの丘にできた大衆ダンスホール。ムーラン(風車)が目印となり、ギャレット(クレープのようなお菓子)が入場者に振舞われていた。かつて製粉業を営んでいた親子が経営し、職人、お針子、学生、芸術家で賑わい、ルノワールも常連であった。ムーラン・ド・ラ・ギャレットは、二つの風車の間に建つ大きな倉庫の中にあったが、暖かい時節にはダンスホールに隣接する庭の周囲にベンチやテーブルが設置され、日曜日の午後3時から真夜中まで舞踏会が開かれていた。青春を謳歌する若者たちの華やぐ雰囲気や空気感が水面に揺らぐ風景のように伝わってくる。描かれている人々の多くはルノワールの友人たち。評論家リヴィエールらの証言では、前景中央のベンチの後ろに立っているのがジャンヌ、そしてベンチに座るのはその姉エステルで、二人ともお針子をしていた。グルナディン
のグラスが散らかったテーブルに座る男たちは、書き物をしているリヴィエールと、画家仲間のフランク=ラミー(背中の人物)と煙草をくわえるゲヌート。踊っている男の役をしているのが、画家のジェルヴェクスとコルディ、役人のレストリンゲス、ルノワールをモデルにした小説「ゼリア嬢」を書いた自称ジャーナリストのポール・ロートら。左中景で踊るカップルは、ルノワールのモデルのひとり、マルゴことマルグリット・ルグランと、キューバ出身の画家ソラレス。そこには印象派の画家はいない。陶器の絵付け職人であったルノワールは、ブルジョワよりも庶民に対して親近感があったのかもしれない。ルノワールはモデルを木の下に配することによって、葉と葉の間からこぼれ落ちる光の斑点が顔や洋服や裸体の上でつくる効果を追究していた。自然光と影の織りなす揺らぎのある光景を大きなキャンバスに描いた本作は、1877年の第3回印象派展に新しいコレクターを開拓するために出品した。買い取ったのは、裕福な印象派の画家仲間ギュスターヴ・カイユボット(1848-94)だった。もっとも大きくもっとも野心的な、生きる喜びを描いたルノワールの傑作である。湧き上がる感覚
宮崎氏は「《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》は、大きな作品であるが注文制作ではなく、ルノワール自身が前衛的な発想で人の認識を一新するために制作した。ルノワール作品のなかで一番鑑賞者の感覚を新鮮なものにする。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の五感のほか、平衡感覚、運動感覚、皮膚感覚など、あらゆる感覚を湧き上がらせてくるような作品である」と述べた。
また「印象派は新しいものを描くのが好きだった。このダンスホールは当時新しかった」と宮崎氏は言う。批評家で小説家のエドモン・デュランティ(1833-80)は、印象派の宣言書と言われる著作『新しき絵画』(1876)のなかで、画家はアトリエを出て、人生や現代の輝く芸術、現実と現代生活の奥底が揺さぶられる芸術をつくり上げなければならないと主張した。ルノワールにとって現代的主題とは、ダンスホールや郊外の酒場、カフェ、そして優雅になった余暇の様子といった19世紀パリの生活を特徴づけるものであった。
近代というのは、個人主義の時代であり、個人の身体に対する意識が覚醒されていった。「神様への奉納や共同体の祭典、軍人の鍛錬など、運動がほかの目的ではなく、純粋に身体を動かす楽しみに人々が目覚めた。印象派は、新しく成立してきたスポーツもたくさん描き、ルノワールはダンスを描いた。ムーラン・ド・ラ・ギャレットで踊られていたのが、それまでの社交的ダンスよりも男女の接触度の高いものだった。自分の身体が意識化され、いろんな種類の感覚の受容器となり、自己認識がだんだんとできてきたのが19世紀だった。ルノワールは感覚そのものに敏感、特に触覚に鋭敏で、あまり思想はないが、近代人の身体感覚を100%発揮している」と宮崎氏。
ルノワールの作品を数多く見てきた宮崎氏は、実物の輝きにハッとするという。「しっとりとした絵肌は工芸品。複製品と実物の落差にルノワールの本質がありそうな感じがする。女性が知的なイメージではなく、一方的に可愛い女性として描かれている。ジェンダーとの関係もあって、結構ルノワール嫌いは多い。ただ実物を見たときに多様な感覚が湧き上がってくる体験はほかの画家にはない。それを美術史のなかから除けてしまうことはできないだろう」と宮崎氏は語った。
宮崎克己(みやざき・かつみ)
ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献