筆者が勤務する弘前れんが倉庫美術館では、2026年6月5日(金)から11月15日(日)まで、風間サチコの東北初の個展「風間サチコ展:方丈ルームの1000里眼」を開催する。本展では、初期作から近年の代表的な大型作品に加えて、今回のために制作された新作絵画を初公開する。ここでは、新作や展示構成に触れながら展覧会の見どころを紹介したい。なお筆者は、普段はラーニングプログラムや、地域と鑑賞者・アーティストの接点を生み出す取り組みである「弘前エクスチェンジ」の企画に携わっている。本展に向けた新作の構想に際して行なわれた青森県でのリサーチに帯同したことも踏まえ、本稿を執筆している。

風間サチコと弘前、とある本との出会い

風間は、黒一色で刷られた木版画を主な表現手法として活動する作家である。近代化によって変化した日本社会に関心を寄せ、国家、資本主義、科学技術を象徴するモチーフを軸に、それらがもたらした進歩の裏側にある犠牲や矛盾を鋭い視点で描いてきた。近現代の社会的事象を題材に、文学や神話、個人的な記憶や感情を大胆に交差させた作品で知られている。2011年の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故をきっかけに制作された《噫!怒涛の閉塞艦》(2012)では、核と原子力をめぐる歴史上の災害と人間社会の関係を描いた。また、《ディスリンピック2680》(2018)では、優生思想をテーマに、2020年に予定されていた東京オリンピックと、1940年に開催が予定されていたものの戦争のために開催が見送られた幻の東京オリンピックを重ね合わせて描き出した。風間は自身が抱いた感情を出発点として、近現代社会の仕組みと個人のあいだに生じる葛藤を寓話的なイメージによって表現した作品を手掛けてきた。

風間は、東北初開催の個展が弘前で行なわれることに際して、約10年前に同地を訪れた体験を振り返った。

2015年、風間は滞在制作のためACAC(青森公立大学国際芸術センター青森)を訪れていた。長期滞在のために持ち込んだドストエフスキーの本に退屈してしまい、読みたい本が手元になくて持て余していたとき、弘前の古書店で偶然手に取ったのが、19世紀末フランスの作家ヴィリエ・ド・リラダンの小説『トリビュラ・ボノメ』であった。本書は、主人公のボノメ博士が、科学的・理性的に世界を理解しようとしながらも、奇妙で不気味な状況に巻き込まれる様子を描いた幻想小説である。


『トリビュラ・ボノメ』、作家アトリエにて[当館スタッフ撮影、2025年6月]

ACACのコンクリート建築にこもって制作をするなかで、リラダンの小説と出会ったことは、風間自身が中学生の頃に学校に通うことができず、外界から遮断された環境で小説を読んでは妄想にふけっていた頃の体験と重なったという。

風間は本展準備に向けたインタビューで次のように語っている。

私が中学校2年くらいのときに引きこもりをしていて、外から遮断された環境で19世紀末の怪奇小説に救われていた体験とリンクしました。弘前で得られたリラダンの本との出会いと、私が引きこもっていたときに、空想の中で『私はもしかしたら19世紀末の貴族の生まれ変わりなのかもしれない』みたいな妄想めいた救いが、今になってみると自分の作家としての原点のように感じています。

今まで自分は、社会に刺激されて、社会に呼応するような作品も作ってきましたが、「自分とは何ぞや」とか「自分はこうありたい」という、自我が芽生えたような頃に立ち戻ってみる時期にきたのかなと思いました。それで弘前れんが倉庫美術館のお話をいただいたときに、これは木版画で、今までのように社会から刺激を受けて、それに自分が応えるような作品ではなくて、あえて原点に戻って、自分が現世に対して醜いと思ったり、憎しみに近いような思いを持ったりしたことを、自分から甦らせるような作品を作りたいと思いました。そしてそれを表現するには、木版ではなく油絵のほうがふさわしいのではないかと思い、油彩で制作しました。

【収録:2026年2月3日、弘前れんが倉庫美術館にて(抜粋、一部編集)】

今回の個展は、風間が新たな表現へ踏み出す契機であると同時に、作家としての原点を振り返るものにもなった。

白鳥が導くロマン主義の再来

今回の展覧会の見どころは、風間にとって初の試みである新作の絵画だろう。ポスターやチラシに用いられた新作《ありがとう、我が愛する白鳥よ!》(2026)は、新作構想のために行なわれた青森県でのリサーチで訪れた、平内町の浅所(あさどころ)海岸の風景に、風間が好むオペラ『ローエングリン』(リヒャルト・ワーグナー)に登場する、主人公の騎士が白鳥に引かれた小船に乗って現われ、窮地の姫を救う場面を重ね合わせて描かれている。浅所海岸は、夏泊半島東側に位置する遠浅の海岸で、古くから白鳥の飛来地として知られる。ここには、戦国時代に津軽軍が南部軍に攻め込まれた際、数千羽の白鳥が飛来し、その羽音が大軍の足音のように響いたことで敵軍が退いたとする伝説が伝わっている。本作は、こうした土地にまつわる伝承を背景に構想された。

《ありがとう、我が愛する白鳥よ!》(2026)[撮影:宮島径]

浅所海岸でのリサーチ風景[筆者撮影、2025年7月]

風間が2015年に出会った、リラダンの『トリビュラ・ボノメ』には、白鳥が登場する短編『白鳥扼殺者』が収録されている。この物語では、主人公の博士が、締め殺される瞬間の白鳥の鳴き声が世界一美しい音色だと知り、その声を確かめるために中世の騎士の姿で水辺へ向かう。この場面で白鳥は、個人の感情や想像力、耽美的な美といった非合理的な美の象徴として描かれている。風間は、白鳥をロマン主義的なものの象徴として捉え、新作の油彩画においてはその姿を取り入れた。本展では『白鳥扼殺者』の物語に着想を得て描かれた、同題名の油彩画も展示される予定だ。

そして風間は、青森や岩手の旧南部藩で遊ばれていたとされるカルタの一種「黒札」の図案を巨大化させたアクリル画にも取り組む。黒札は文字ではなく、絵柄で遊ぶ花札に似たカードゲームだ。地方札の一種で、海外から伝来したカルタがもとになり、各地で独自のデザインへと変化した。風間は、限られた色数と、シンプルに図像化された抽象絵画のような図案を目にした瞬間、黒札に呪術的な魅力を感じたという。今回は、その図案を巨大化させたアクリル画制作を通じて、その魅力を最大限に引き出そうと試みる。

黒札の図案、作家のアトリエにて[筆者撮影、2025年10月]

「方丈ルーム」から放たれる想像力

本展のタイトル「方丈ルームの1000里眼」は、鴨長明が記した随筆『方丈記』から着想を得ている。鴨長明は本書で、四畳半ほどの部屋のなかで、必要最小限の調度品や生花、本などに囲まれながら、歌を詠むなどして生活を送ったことを綴った。風間にとって、自宅の四畳半の居間(作家自称:風間ランド)もまた、本を読んだり作品の構想を練ったりする、思索の場所になっている。好きなお菓子や本、スマートフォンなどをそばに置き、外にあまり出ずにこの居間で長い時間を過ごすという。外界から距離を置いたこの空間は、千里眼のように、過去・現在・未来へと思考を巡らせ、世界を見つめ、想像力を膨らませるための場である。

今回の展示では、そんな風間の方丈ルーム(アトリエ)を擬似体験できる、居間型のインスタレーションも公開する。新作構想のために読んだ本や、いつも飾っている額縁など、風間の制作の思索の軌跡を辿ることができる資料類が並べられる予定だ。

今回の展覧会は、風間の初期作《モータースポーツ》(1998)から、近年の連作や大型作品、新作絵画、そして風間が作家になる以前の中学生時代の体験をもとにして描いた作品《第一次幻惑大戦》(2017)、《獲物は狩人になる夢を見る》(2019)などを含め、約60点を公開する。社会から刺激を受け、それに応答するように生まれてきたこれまでの表現と、内面的原点への回帰としての新作絵画が並置される本展は、風間の活動の軌跡と現在地を示す機会となる。

展示打ち合わせ風景、弘前れんが倉庫美術館にて[筆者撮影、2026年2月]

個人の感情や想像力を大切にする風間のロマン主義的な表現は、現代においてどのような意味を持つのだろうか。本稿執筆時点では、まだ制作中の新作もあるため、全貌を捉えきれていないかもしれない。しかし、近現代の制度や歴史を背景に壮大な空想の物語を紡いできた風間の作品は、社会のあり方を別の角度から照らし出す、現代への風穴になるに違いない。開催は2026年6月5日(金)から11月15日(日)まで。会期中はトークイベントやワークショップ、関連イベントの映画上映も行なわれる。ぜひ弘前まで足を運んでみてほしい。


展覧会の構想を語る風間サチコのインタビュー映像[弘前れんが倉庫美術館]