発行所:水声社
発行日:2025/09/05
公式サイト:http://www.suiseisha.net/blog/?p=21520

本書の著者・杉田敦(1957-)は、『リヒター、グールド、ベルンハルト』(みすず書房、1998)や『ナノ・ソート』(彩流社、2008)といった旧著からもうかがえるように、慣習的な「批評」の枠組みをさまざまに問いなおす仕事によって知られる美術批評家である(その「仕事」のなかには、オルタナティヴ・スペース「art & river bank」(2002-2022)の運営や、美術批評のタブロイド「+journal」の企画・刊行なども含まれる)。そうしたこれまでの仕事に連なるように、本書『芸術、失われた信頼をもとめて』もまた、一般的に想像される美術批評のスタイルではなく、さながら紀行文のような実験的なスタイルのもとで書かれている。

本書を紹介するにあたっては、迂遠になることを承知で、いくつかの前提を確認しておかなければならない。まず、21世紀に入ってからの四半世紀、この世界は疫病や戦争に立て続けに見舞われてきた。また、それらの出来事と連動するようにして、この間われわれの生活に直結する政治的、技術的、経済的状況もまた大きく変化した。その結果もたらされたのは、2019年までの──わかりやすい指標として、パンデミック以前の──世界と、現在われわれがいる世界との少なからぬ断絶である。これを第一の前提としよう。

そして、以上のような社会構造の激変は、現代美術における国際的なイベントにも当然のことながら影響を与えずにはいられない。げんに、ヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタのような世界有数の国際展においても、前述のような社会情勢の変化は如実に反映されている。とりわけ、その多くが西欧の都市(ヴェネツィア、カッセル、ミュンスターなど)で開催される国際芸術祭にとっては、旧来の西洋中心主義に対する異議申し立てこそが、過去数十年のもっとも大きな課題だった。これを第二の前提としよう。

本書は2017年以後に、前述のヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタをめぐって書かれた「批評」である。ただし大急ぎで付け加えておかなければならないが、これらはいわゆる「展覧会評」の類いとはまったく異なる。著者は、2017年から2018年にかけて、ポルトガル・リスボンに滞在した。著者にとってこの街は、過去に『白い街へ リスボン、路の果てるところ』(彩流社、2002)や『静穏の書』(彩流社、2015)を書かしめた唯一無二の都市である。昨今ではペドロ・コスタの映画などを通じて広く知られているように、南欧に属するリスボンは、ロンドン、パリ、ベルリンをはじめとする欧州の主要都市とは異なる困難な状況にある。そのリスボンからアテネ、ヴェネツィア、カッセルをはじめとするヨーロッパ各地に赴くなかで、著者は西洋が、あるいは世界が内包する社会的病理のようなものを、さまざまなしかたで剔抉することになる。

言いかえれば、本書は著者が──いまから10年近く前に──実見したヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタについての客観的報告をめざしたものではない。むろん、随処に登場する作品や出来事の記述をはじめとして、そこに有益な「記録」はいくつもある。たとえば「アテネから学ぶ」を標語に掲げたドクメンタ14の──カッセルではなく──アテネ会場の展示をかくも克明に記述した文章は、日本語以外に目を転じてみてもほとんどないだろう。また、デンマーク・オーフスのARoSトリエンナーレや、エルムグリーン&ドラッグセットによるイスタンブール・ビエンナーレに対して突きつけられた、著者ならではの批判的な切り口も興味ぶかい。しかしその一方で、本書の最大の特徴は、これらの国際展を経験したひとりの人間による、なかば一人称的な記述が試みられていることにある。ここで著者は明らかに、みずからが論じる対象から適切な距離をとり、それを客観的な記述にまとめあげるという、批評の定石に相当する営みを放棄している。

そのような、本書が採用する独特な書法を説明するに際して、しばしば登場するのが「ホドロジー(hodology)」という言葉である。ギリシア語由来の「道/路(hodos)の学」を意味するこの方法を通じて、著者はどこに行き・何を見るかというみずからの選択行動と、その行動がもたらす帰趨を考察の俎上に乗せる。ただし、そこで客観的記述に対比されるのは、ありきたりの主観的記述などではない。なぜならホドロジーにおいては、著者の言葉で言うところの「オルタナティヴな客観性」こそが、真に求められるからだ

本書の最終章では、それまでの章からやや時間を隔てた、2022年のドクメンタ15をめぐる顛末が扱われる。ルアンルパがディレクターを務めたこの展覧会に対して突然浴びせられた「反ユダヤ主義」というレッテルと、IHRAの基準を一方的に掲げる(おもにドイツ国内の)批判の加熱を前にして、著者はこれまで20年以上にわたり参加してきたドクメンタ訪問を断念する。そして、こうした選択行動の遡行的な記述もまた、前述のようなホドロジー的実践の一部をなしていることが自己言及的に論じられる(368頁)。

最終的に、そしてもっとも平たく言うなら、本書におけるホドロジーとは〈鑑賞者であることの倫理〉であると言って差し支えないように思われる。この世界で起こる出来事のすべてを掬いとることは、誰にもできない──本書は、そのような人間の有限性を確認することから始まった(13頁)。だが、むろんこれをシニシズムと捉えるべきではない。むしろ、そうした有限性を自覚したうえでこそ、わたしたち一人ひとりが何を見て、どこへ行くかという経験の積み重ねは、ひとつの倫理へと転じるのだと言えよう。そのような思想につらぬかれた本書は、著者その人によるホドロジーの実践であり、なおかつ読者をそこへ招待する試みでもあるのだ。

★──この「オルタナティヴな客観性」という表現は、実質的に本書の続編に当たると言える『ART iT』への寄稿文に見いだすことができる(杉田敦「ナノソート2021 #02「ドクメンタを巡るホドロジー(中)」(『ART iT』2023年9月4日)https://www.art-it.asia/top/contributertop/admin_ed_columns/239714/

執筆日:2026/04/13(月)