会期:2026/04/25〜2026/04/29
会場:静岡県舞台芸術公園 屋内ホール「楕円堂」[静岡県]
構成・演出・振付:下島礼紗
公式サイト:https://festival-shizuoka.jp/event/shimojimareisa-work-in-progress/

4月のSHIZUOKAせかい演劇祭ではさらにもう1本、下島礼紗×SPAC新作ワーク・イン・プログレスとして『さあ環境に抵抗しよう、死に抵抗しよう。そうさ生に抵抗するのさ、』も上演された。この作品は「1966年の静岡県一家4人殺害事件で再審無罪が確定した袴田巌氏の、48年間にも及ぶ極限の独房生活の中で出現した『歩行』に着目」したもので、印象的なタイトルも袴田巌氏の著作『主よ、いつまでですか』(袴田巌さんを救う会編、新教出版社、1992)からの引用となっている。今回は2027年の本公演を見据え、観客が「その創作プロセスに触れる機会として」ワーク・イン・プログレス公演が実施された。

ダンスカンパニー・ケダゴロを主宰し、振付家・ダンサーとして活躍する下島礼紗の作品は、例えば「連合赤軍事件を題材に、クリエーションの過程を集団的狂気の構造と重ね合わせ」た『sky』(2018)や「松山ホステス殺害事件」の犯人として整形を繰り返しながら逃亡を続けた福田和子を題材とする『ビコーズカズコーズ』(2021)、そして韓国の「セウォル号沈没事故」に取材した『세월』(2022)など、その多くが実際に起きた事件・出来事を題材にしており、ゆえにそこにはつねに倫理的な問いが伴うことになる。なぜそれを題材に創作をするのか。そこにどのような「正当性」があるのか。

これらはまず第一にアーティスト自身が向き合うべき問いではあるが、一方で作品を観る観客もまた、これらの問いから逃れることはできない。なぜそのような作品を観るために劇場に足を運ぶのか。観ることを通して一体何を考えるのか。ケダゴロのプロフィールには「論理では捉えきれない社会やニンゲンの実像を、肉体表現を介して多くの人間とともに思考することを目的として、国内外で『論争』を生む作品を発表」してきたという言葉があり、「我々にとって『ダンス』とは『世の中を解釈する為の一つの手法』である」という宣言がある。例えば着想源を伏せるという選択肢もあるなかで、下島が毎回、あえてそれを前面に出すようなかたちで作品を発表し続けているのは、着想源になった出来事について作品(=肉体表現)を介して観客を含めた「多くの人間とともに思考する」ことを志向するがゆえだろう。では、今回のワーク・イン・プログレス公演でその試みはどのようなかたちで提示されていたのか。

中心となるのはやはり歩行である。会場の楕円堂には、その楕円形の空間の長軸上にマットが敷かれている。客席となるクッションがその左右に置かれていることもあり、ランウェイを思わせる設えである。実際のところ、今回のパフォーマンスの大半の時間は、その「ランウェイ」を7人のパフォーマー(大内智美、春日井一平、鈴木真理子、武石守正、ベイブル[bable]、牧山祐大、渡邊清楓)がひたすらに歩き続けることにあてられていたのだった。ただし、ただの歩行ではない。ランウェイの端から端までを(あるいはそこからスタート地点に戻るまでの外周を)1セットとし、各セットには固有の振付=負荷が課せられている。電流装置を腕にセットしたまま歩く「ビリビリ」や1歩進むごとに股間のチャックを確認しては引き上げる「開いてる?」等々。パフォーマーたちは下島の号令に合わせ、馬鹿馬鹿しいものからきわめて身体的負荷の高いものまで合計48種もの歩行を展開していく。「48」は袴田の逮捕から再審決定による釈放までにかかった年数にちなんだ数字であり、一方でいろは48文字にも通じるその数は、あらゆる歩行のパターンをやり尽くそうという意志を示すようでもある。

[撮影:Makita Natsumi(F4,5)]

稽古場日誌によれば、身体への負荷を伴うそれらの歩行は、下島が「心奪われた」という「袴田さんの歩行」に近づくために「開発」されたものなのだという。例えば「ビリビリ」は袴田氏の「あっちの世界から電気を出すやつがいる」などの(おそらくは拘禁症状による妄想から発せられた)言葉に着想を得たものであり、48のうちのいくつかはパフォーマー自身の体験から「開発」されたものらしい。下島は袴田氏から直接の許しを得て今回の創作に臨んでいるとのことだが、たとえそうであったとしても、48年間に及ぶ独房生活による拘禁症状として、つまりは自身が望まぬ極限状況の結果として現われた袴田氏の歩行を、パフォーマーという他者の身体を使って「再現」しようとする下島の試みには倫理的な問題があると言わざるを得ない。同時に、ある意味では人間の実存に触れようとするものであろうその試みは、下島が自身の作品のほとんどにおいてパフォーマーの身体に極度の負荷をかけることを選択し、作品ごとに固有の「拷問装置」を開発してきたことを考えれば、下島の芸術実践において一貫しているものだとも言える。

[撮影:Makita Natsumi(F4,5)]

さて、そのような歩行に私は何を観て何を考えたのか。与えられた振付=負荷の実践のありようには人によってかなりのばらつきがあり、また、与えられた負荷にどれだけ耐えられるか=疲弊の表われにはさらにそれ以上のばらつきがあった。同じ振付=負荷を通して改めて露わになる身体の異なりには、実存とは言わないまでも、たしかにその人の固有性と呼ぶべきものが浮かび上がっていた。

[撮影:Makita Natsumi(F4,5)]

ここにもうひとつ別の文脈を持ち込みたい。ボールルームである。これは1960〜70年代のアメリカで、主にアフリカンアメリカンやラテン系のLGBTQコミュニティから生まれてきたトランス女性や女装ゲイ男性を中心とするカルチャーで、「ヴォーグ」や「ランウェイ」、あるいは「リアルネス」などのカテゴリーごとに、出場者がそのテクニックや容姿、あるいは身ぶりなどを競い合うもの。ランウェイやミラーボールなどの道具立てに加え、カテゴリー名をコールするように振付=負荷の指示を出す下島の姿、そして何より歩行を通して自らの身体を観客の前に曝け出すパフォーマーたちの姿が私にボールルームを想起させたのだった。ボールルームが社会のなかで抑圧された人々によって育まれたカルチャーであり、生の悦びを見出す場であったということは重要だろう。その回路を経由してパフォーマーたちの歩行を観るということ。

無理筋な読みだろうか。もちろん、日本の観客の多くにとってボールルームは馴染みのないカルチャーではあるだろうが、そのコンテクストは振付=負荷のかたちでも持ち込まれていた。「ビューティ」という振付=負荷でパフォーマーに課されていたのはまさに「ヴォーグ」そのものの動きであり、そのときたしかに楕円堂はボールルームと重なりあっていたのだった。

[撮影:Makita Natsumi(F4,5)]

だがもちろん、楕円堂はボールルームでも、ましてや独房でもない。「ランウェイ」の縁には蟻を閉じ込めた透明なビンがいくつか置かれている。パフォーマーたちはやがてその蟻を解放し、自らの体を這わせ、そして舞台奥の扉を開けて蟻もろとも野外へ出ていくだろう。置き去りにされたままそれを見た私は、自分もまた劇場の内部に留め置かれ、客席という場所で身体の自由を制限されていたことに改めて思い至る。透明なビン。私が置かれている環境を、私を囚えている構造を十全に把握することはかくも難しい。ワーク・イン・プログレスに触発された思考の連なりはひとまずここで終わる。


[撮影:Makita Natsumi(F4,5)]

観賞日:2026/04/25(土)