会期:2026/03/04~2026/04/04
会場:ギャラリーヤマキファインアート[兵庫県]
公式サイト:https://gyfa.co.jp/exhibition/kirico:my-womb.html

写真はどこまで「客観的な記録」たりえるのか。内面や感情、痛み、「臓器の喪失」といった「目に見えないもの」を、写真はどこまで写し取ることができるのか。臓器、とりわけ子宮という、多くのシスジェンダー女性にとってアイデンティティと深く関わっているであろう身体器官を失う経験を経たとき、身分証の証明写真のように写真と自己のアイデンティティを可視的なものとして等号で結ぶ思考回路は、どこまで有効なのだろうか。

写真家・美術家のキリコはこれまで、ニートになった夫との離婚、母親が担った祖母の介護と(逆転した)親子関係、不妊治療、育児とジェンダーなど、自身の人生で直面した課題や違和感を元に作品化してきた。本展では、ちょうど1年前に受けた子宮摘出手術を契機に制作したセルフポートレート13点とオブジェ作品が展示された。


[撮影:キリコ]

入院前の自宅、キャリーケースを持った出発の日、入院着を着た病室内、手術室の扉の前、手術後の病室内、自宅に帰った日、だんだんと戻ってくる日常生活。「正面からの全身像を同じ画角で定点観測する」という撮影フォーマットを統一し、あえてキャプションを排することで、連続性のなかに、逆説的に差異が浮かび上がってくる。入院前の自宅での、緊張と不安で硬くこわばった表情。手術後の入院着の一枚では、目尻の下がった安堵の表情を見せるが、痛むお腹に手を当てている。キャリーケースを持って自宅に戻った日。その隣の一枚は、笑顔を見せつつお腹を手でさすっている。室内で動けるようになり、家事をこなす様子。最後の一枚のみ、「部屋の中」ではなく、満開の桜を背に立ち、やっと外出できるようになったことを告げる。


[筆者撮影]

一見シンプルな写真だが、「背景の選択」も、連続性と差異を雄弁に物語る重要なファクターだ。入院前の自宅で撮影した数枚は、海を臨むベランダを背にしているが、「出発の日」の一枚のみ、キリコの背後には「向かいのマンション」が写り、「開いたドア」の外にいること、室内/家の外へとカメラの視点が反転したことがわかる。手術前/手術後の病室内で撮影したカットは、壁一面のガラス窓の前に立ち、自宅のベランダと似た背景だが、半透明のカーテンがかかり、「これまでの日常生活」から遮断されていることを語る。自宅に戻り、家事をこなせるほど体力が回復したことは、「洗濯物干し」というルーティンの場であるベランダにいることで示される。ベランダ、玄関のドア、病室の窓、手術室の扉、再びベランダ……。「部屋の中/外」を区切るフレームを意図的に背景に撮ることで、「日常/非日常」の境界線を行き来していることが視覚的に強調される。


[© 2026 Kirico]



[© 2026 Kirico]

「手術を受けた女性の身体を被写体にする」という点で本作は、事故や火傷、手術の痕など皮膚に刻まれた傷跡を接写した石内都の写真シリーズ「Scars」や、特に傷跡をもつ女性の身体を撮った「INNOCENCE」を想起させる。だが、本作と石内の方法論は、「自己/匿名の他者」という以上に大きく異なる。キャプションから固有名を排し、傷跡のある身体部位を切り取る石内の写真は、匿名化と同時に、「ひとつとして同じ傷跡はない」という絶対的な固有性を併せ持つ。手術の縫合の痕、皮膚の引きつれ、皺やシミ、体毛の生え具合……。腹部や胸、背中など、「普段は衣服で覆い隠されている身体部位」をさらけ出すように撮ることは、「女性の身体にある傷痕=醜いもの」とみなすジェンダー化された視線を暴き出す。同時に、克明に接写された傷跡は、写真はものの「表面」しか撮ることができないが、豊かな肌理が刻まれた「表面」こそ時間の堆積を可視化するもう一つの記憶媒体である、という石内作品に通底するパラドキシカルなテーゼを差し出す。

石内によれば、「傷痕」というテーマの「発見」は、男性ヌードの撮影が契機だったというが、傷痕の個別性を差異の体系として撮り集めることで、とりわけ「INNOCENCE」では、(性的な眼差しや美醜のジャッジを常に向けられることも含めて)女性の身体が潜在的に抱え込まされている被傷性という普遍性が抽出される。同時に、傷痕とは、損傷した体細胞組織を再生しようとする生命維持能力の確たる証でもあり、辛い過去や痛みの記憶とともに「今まで生き延びてきた」生命力の強靭さの可視化でもある。一方、キリコの本作では、「手術の傷痕が身体にあること」「女性であることのアイデンティティと結びついた臓器の喪失」という事態は写真には写らず・・・、「表面」しか写し取れない写真はどこまでアイデンティティの証明たりえるのか、という問いがある。あるいは、セルフポートレートの定点観測という方法論を通して、時間的連続性の中の差異を撮り集めることで、写真には直接写らない「傷の治癒と日常の回復」のプロセスを逆説的に浮かび上がらせる。

自分自身であると同時に、(排泄や睡眠といった生理現象、病気や老化、性自認の不一致といった)ままならなさを抱えた身体は「他者」でもあり、身体内部の臓器もまた「他者」であるといえる。「子宮の有無」は自己証明としてのセルフポートレートには写らないばかりか、子宮という臓器自体をキリコ自身も実際に自分の目で見たことは一度もなかった。ひどい生理痛、不妊治療、妊娠、出産を共にくぐり抜けてきた身体の一部が、「一度も見ることなしに廃棄された」というショックは、「手で触れるもの」として子宮の形をしたぬいぐるみを作るオブジェ作品へと昇華された。手術後の医療的な記録写真を元に、142グラムという同じ重さのぬいぐるみが、愛着のもてる形を探りながら何体も制作された。目や表情の付け方、2本の卵管を垂れた耳の形にするなど、キャラクター的な造形にどこまで「かわいさ」を持たせるのかという試行。布地の色やふわふわした手触りのバリエーション。手に持って抱きしめることのできる形で、擬似的な生命体として作り直す行為は、「他者であった身体器官」の他者性に向き合いながら、触覚性と実在性を与えて出会い直し、自身の一部として抱きしめるセルフケアのプロセスでもある。


[撮影:キリコ]

★──正木基ほか編『石内都展 ひろしま/ヨコスカ』(目黒区美術館、2008、p.216およびp.246)

関連レビュー

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鑑賞日:2026/03/28(土)