
会期:2026/02/13〜2026/02/15
会場:水性[東京都]
脚本:大池容子(うさぎストライプ)
演出協力:大北栄人(アー)、山田カイル(抗原劇場)
出演:大石将弘、和田華子
公式サイト:https://wadakikaku.studio.site/
トランスジェンダーを描いた演劇(あるいは映画やドラマ)。そう聞いてあなたはまず、どんなことを考えるだろうか。マイノリティの悲劇。難しい役に挑戦する俳優。トランスジェンダーの表象がフェアなものであるかどうか。あるいは「当事者キャスティング」について。和田企画『なる、ならない、なれない、ある』(脚本:大池容子、演出協力:大北栄人、山田カイル)は、そのどれもに触れながら、ユニークかつ軽やかな、そして演劇ならではのやり方でトランスジェンダーと俳優との関係を描く作品だ。
[撮影:明田川志保]
主な登場人物は二人。俳優の新島(大石将弘)がFtMトランスジェンダー(「今の言葉で言うと、トランスジェンダー男性」)の佐々木に取材を申し込むところから物語ははじまる。シス男性である新島は、ある映画のトランス男性役のオーディションに備えるべく、当事者に話を聞こうと知り合いの伝手を辿って佐々木に行き着いたらしい。しかし「当事者のリアルについて、聞かせてほしい」と熱く語りながらも自分がやろうとしている役を「オネエ」と言ってしまう新島はどうやら、演技力以前にトランスジェンダー(だけでなくさまざまな性的マイノリティ)に関する基本的な知識さえ持っていないようだ。笑ってしまうほどに清々しいずれっぷりにはしかし、マジョリティに対する痛烈な皮肉が込められている。
一方、応じる佐々木ははじめから明らかに乗り気でない。新島のように「当事者のリアル」を知ろうと話を聞きにくるシスジェンダーの存在にうんざりしているのだ。それでも佐々木は、新島がそのトランス男性役で何らかの賞を受賞した折には、その授賞式で「トランスジェンダーの役を演じる、最後のシスジェンダー男性になれたら嬉しいです」と言ってくれるなら、という交換条件のもと、取材に応じることにするのだった。
[撮影:明田川志保]
さて、しかし取材を通じてすぐさま顕わになるのは、新島が求める「当事者のリアル」と佐々木のそれとのずれにほかならない。新島は何とか佐々木から話を引き出そうと、やおら自らの過去の壮絶ないじめ体験を開示し、「佐々木さんの大変さに比べたら、全然でしょ、こんな」とさりげなく水を向けたりもするのだが、佐々木の反応は鈍い。つらかったことを共有してくれと言われても出てくるのは「メンズのSサイズの服がない」やら「(金の無心をしてくる)めんどくさい伯父さんがいる」やら、新島の期待からはかけ離れたものばかりだ。業を煮やした新島は、ついには誰かほかのトランス男性を紹介してくれと言い出し──。
ここにはマジョリティがマイノリティに接するときのひとつの典型的な態度が表われている。当事者のリアルを知りたいという言葉とは裏腹に、期待される「マイノリティらしさ」からの逸脱は往々にして喜ばれない。そして期待される「マイノリティらしさ」はしばしば、フィクションによって準備されたものなのだ。新島がそれをなぞるのならば、それは悪しき再生産となるだろう。
[撮影:明田川志保]
そもそも、佐々木の「リアル」はトランス男性としてのそれだけで成り立っているわけではない。当然のことだ。俳優である新島がシス男性であるように、トランス男性である佐々木は同時に介護職に就く人間であり、あるいはカッパドキアで気球に乗りたいと貯金に励む人間でもある。「俳優の新島」と「FtMトランスジェンダーの佐々木」という紹介はフェアではない。一方、新島の側にも見落とされているものがある。例えば俳優という労働者としての新島が置かれている環境がそれだ。居酒屋でバイトをしながら何とか俳優として売れたいと願う新島は、事務所から切られる寸前の崖っぷちにあるのだった。新島の佐々木に対する態度は酷いものだが、その一因が新島の置かれている環境にあることもまた間違いない。俳優にもまた、本番や稽古以外の「リアル」があるのだ。
さて、新島が要求する「チェンジ」はしかし、思いがけない展開を呼び込むことになる。交換されるのは佐々木ではなく、新島と佐々木が(あるいは大石と和田が?)演じる役、あるいは立場なのだ。「チェンジ」のかけ声とともに入れ替えを繰り返しながら矢継ぎ早にいくつもの場面を演じる二人の姿は漫才を演じているかのようでもある。
[撮影:明田川志保]
ところでこの企画は、「トランスジェンダーの登場人物が舞台や映像に出てくるときに、性別の移行前と移行後、それもおそらくホルモン投与もしている移行後が、基本的に同じ俳優によって演じられている」ことに対する和田の引っかかりに端を発するものなのだという。移行やパス(=移行後の性別で周囲の人間に認識されること)というのは「個人のポテンシャルや努力とはまったく別であるはず」のもの、例えば俳優の演技力でどうにかなるものではないからだ(演技力でどうにかなるようなものであれば、俳優でありFtMトランスジェンダーでもある和田にとって、移行はどれほど簡単だっただろうか)。そこで和田は、ひとりの俳優が移行前と移行後を演じる、いわば「プランA」に対する「プランB」として「移行前と移行後を違う俳優が演じるというアイディアをスタートポイントとして企画を立ち上げ」たのだった。
作中ではこの「プランB」は異なるレイヤーの二段構えで実現している。まずは俳優である新島が作中の現実において移行後の佐々木を演じることで「めんどくさい伯父さん」を撃退する場面として。そしてラストシーン、大石という俳優が移行後の佐々木を演じる場面として。新島の「トランスジェンダー男性に『なり』ますから!」という宣言は佐々木に「『なれ』はしないですよ」とにべもなく否定されていた。だがそれでもやはり、演劇であればシスジェンダー男性である新島/大石がトランスジェンダー男性に「なる」ことも可能なのだ。
あるいはそれを「どこまでいっても、シスジェンダー男性になれないことは、自分が一番よくわかってます」と言っていた佐々木の側から見るならば、演劇であればその「なれない」を「なれる」に変換することさえ可能なのだということになるかもしれない。その意味で「プランB」は単なる代替案ではない。「プランA」がときに現実のトランスジェンダーの「なれなさ」を矮小化してしまう一方で、「プランB」は演劇的想像力という回路を通して「なれる」を実現するものとしてあるからだ。もちろんそれは現実の「なれる」とは異なるものだ。危うさだってあるだろう。しかし演劇という営みは「ない」を「ある」に変換してしまうことさえできるものだ。その可能性を、シスジェンダーの側からトランスジェンダーの側へと引き戻したうえで改めて提示してみせること。そこにこそ、この「プランB」の意義はあったのではないだろうか。
[撮影:明田川志保]
鑑賞日:2026/02/14(土)