水野幸司「天磐 / aśman」
会期:2026/03/04~2026/03/21
会場:Edit Room[東京都]
公式サイト:https://note.com/editroom/n/n9627c950226b

アンドリウス・アルチュニアン「Obol」
会期:2026/02/20~2026/05/31
会場:銀座メゾンエルメス ル・フォーラム[東京都]
公式サイト:https://www.hermes.com/jp/ja/content/343162-mgeditopagearticleforumf73/

ここでは、同時期に東京で開かれたふたつの個展──水野幸司「天磐 / aśman」およびアンドリウス・アルチュニアン「Obol」──を横断的に論じる。手がかりとなるのは、天上と地下という相反するベクトルである。それぞれの展示において、天と地はたんに対立するのではなく、交錯しながら、その間に挟み込まれた私たちの世界を照らし出す鏡として機能している。本稿では、この二展による合わせ鏡の中に浮かび上がるイメージへと向かっていきたい。

「天磐 / aśman」は、水野が東京藝術大学の卒業制作から継続して取り組んできた「天文台」をテーマとしている。会場には水野が設計した天文台「天文堂」の模型と設計図面、外観を表わした彫刻、堂の名をしたためた書、NASAの天文写真にもとづく平面といった、媒体を横断する作品が並ぶ。

これらを貫くキーワードを挙げるとすれば、それは「水」であろう。天文堂の来訪者はまず地下へと降り、水盤の上に架けられた橋を渡る。水野はこれを「水を介して生/死、浄/不浄が反転する」経験として描いている。また、各作品の素材──書のための墨、模型をかたちづくる石膏や水粘土、あるいは写真や青焼き図面にイメージをあらわすための現像液までも──はいずれも水を媒質としてその形状を仮に帯び、何かを描き出すものだといえる。加えて、タイトルに掲げられた「天磐」という語が真っ先に想起させるのは、日本神話において神が地上へ降臨する際に乗った巨大な岩の船・天磐船だろう。事実、一直線の動線を持った天文堂の断面模型は、さながら竜骨に支えられた奇妙な船を思わせた。それはいわば、ひとつの仮想的な宇宙船である──しかも、虚無によって満たされた暗黒の空間ではなく、墨滴の海の中を泳ぐものとしての。

天文堂の断面模型[提供:水野幸司

水野は自身の天文台への関心について、以下のような問題意識を挙げている。すなわち、現代において私たちは共有しうる認知基盤を失っているのではないか、と。次々と新たな戦争が始まり、テクノロジーが私たちの知覚を細かな泡の中へと分割してまわる時代において「同じ地表面に立っている」という事実はもはや希薄化している。水野はそこで、人類が共有可能な原初的風景としての天文と、それを読むための技術にふたたび光を当てようとするわけだ。

実際、水野の天文堂のプランは一見して、エティエンヌ・ルイ・ブーレーやジャン=ジャック・ルクー、クロード・ニコラ・ルドゥーらに代表される「幻視の建築」を彷彿させる。革命によって国教としてのカトリックが廃され、代わりに理性が推し戴かれることとなった当時のフランスにおいて、彼らの建築はそのビジョンを共有するための神殿、啓蒙主義のモニュメントとして構想されていた。とりわけ、ブーレーの「ニュートン記念堂」は一種のプラネタリウムであり、そこでは、宇宙を司る理性の光をともにまなざすことが目指されていたわけだ。そして現代、こうした理性によって形成されてきた近代国家そのものが世界規模の惨劇を生み出している状況を前に、水野は新たに信ずべきものとそのモニュメントを提案することを試みている。

では、水野が構想するモニュメントとは何か。ここで、天文堂における体験のシークエンスを見ておこう。来訪者は地下に降り、水盤に架けられた橋を渡ると、高い天井を持つ巨大な堂へと出る。その先には長い螺旋階段があり、これを登り切ることで頂上の観測所に至る。建築には入口と観測所を除いて外部への開口は設けられていないため、最後に天を仰ぎ見るまでの間、来訪者たちはほとんど暗闇の時間を過ごすこととなる。建築の全体は地中に埋め込まれ、それは地表にあらわれたゆるやかな凹凸を通じてのみ仄めかされている。いわば天文堂は、わかりやすい威容を誇る三人称的なモニュメントに対して、一人称的なモニュメントの在り方を探っているとも言えるだろう。

ここで個人的に興味深いのが、堂の上部壁面に並んだ装飾の存在だ。それはアーチ型の窓や開口部を思わせる意匠を施されているのだが、実際には外界とつながっていない。窓のように見える窓ではない何か。そこには外をまなざすことに対するアフォーダンスだけがある。ここで私は、モダニズム建築における水平連続窓のことを思い出す。近代建築は、かつて構造的制約から縦長のスリットにとどまっていた窓を、自由に連続するものへと変えた。それはすなわち、移動する人の視線に連動して外界がうつろうということであり、ここにおいて窓は絵画から映像へと変わったわけだ。その後、窓というモチーフは現実空間の内外を介すものではなく、情報空間へ向かう開口部=ウィンドウとして読み換えられていく。いまや、サイバースペースへの大小さまざまな窓が互いに重なり合いながら、あらゆるところに口を開けている。しかし、それらはいまだ静止した絵画的な窓ピクチャーウィンドウに過ぎない。私たちは情報空間における水平連続窓を発明するよりも早く、ウィンドウそのものを持ち運ぶことができるようになってしまったのだから。そして、窓の向こう側へと乗り込んで自由に動き回るヴァーチャルな快楽へと耽溺していったのだ。この、無限のピクチャーウィンドウ──およびそれによって切り取られた無限に複数的な外部の風景──によって埋め尽くされた今日の物理–情報空間こそは、私たちの認知的分断を加速させているひとつの要因でもあろう。

では、現代における水平連続窓とそれがもたらす連続的・共有的な風景とはどういったものであろうか。その詳細を検討するには材料が足りないのだが、先に挙げた「窓でない窓」はひとつのインスピレーションを与えてくれるだろう。すなわち「窓でない窓」とは、分たれた景色と共有された景色を重ね合わせるもっともシンプルな方法なのだ。存在しない窓の先に広がっているのは、それぞれの想像の内のみにある風景であり、それは見る者の数だけ存在しうる。しかしそれと同時に「何も見えない」という体験そのものが、その場にいる人々の間で共有されている。何も見えないはずのものをそれでも見るように促されるとき、そこには、同じものを見ることと異なるものを見ることが重なり合う瞬間が生まれる。そうした可能性への期待が「窓でない窓」には宿っている。

これは、水野が書に向ける関心とも連続している。水野は書において、書かれた内容が持つ意味よりも、書体というかたちが発する意味こそが重要なのだと強調する。意味よりも先にかたちがある。そしてそれを通じてこそ、より深い共有が可能になるのだと★1 。ここにおける書体とは、まさに天の星の配置へと敷衍されるだろう。すなわち、天文台とは天の星を読むための施設ではない。むしろ、ほんらい読まれることを想定されていないはずの存在である星を「読みうるもの」として私たちに提出する建築的アフォーダンスとしてこそ、天文台は位置付けられる。そしてそれは、読み得ないはずのものを皆で読もうとする経験の共有基盤なのだ。

実際、私が展示を訪れた際にも、鑑賞者との間でいくつかの議論がなされていた。そのうちのひとつに「水野はこの天文堂の模型をどれだけリアルなものとして考えているのか」という問いがあった。石膏という素材の選択や展示方法、そこに残る手の跡や微細なズレも含めて、この模型は実際の建築空間とどのような関係性において位置付けうるのか。言い換えれば、これは実物のミニチュアなのか、それとも抽象的なモデルなのかということだ。確かに水野の作品が目指す議論の基盤というものが、どういった抽象性のレベルにおいて成立するのかを考える上で、この問いは重要であろう。しかし、そもそもモデル/ミニチュア/リアルの別が存在しなくなった世界こそが、現代の建築環境なのではないか。

3DCADが登場して以降、建築設計は基本的にノンスケールなものになった。情報空間内の3Dモデルは1分の1の建築の写しであり、それをモデルと呼ぶかミニチュアと呼ぶかはビューの操作やレンダリングの調整でしかありえない。さらにそこに3Dスキャン技術が組み合わさることによって、私たちは今や建築だけでなく、世界に存在するあらゆるオブジェクトを等しくノンスケールで並列的に取り扱えるようになっている。スキャンされた石の微細な凹凸、木々の隙間から見える空の青さ、水面のゆらぎ、由来も定かでないおもちゃの歪んだディティール……そういったものすべてが、スケール操作やマテリアルの置換によって建築として読み解かれうる。こうした状況においては、モデルだと思っていたものがいつの間にかミニチュアとして読まれ、実物だと思っていたものがいつの間にかモデルとして次の想像を喚起する、という相互侵犯の連鎖が起き続けている。もはや象徴性と実用性の境界は薄れ、モニュメントは絶えず屹立してはくずおれている。おそらく水野の作品が持つ不安定さは、こうした状況にこそ賭けられるべきであろう。

(後編へ)5/13公開予定

 

★1──「水野幸司|書と言葉──感性的情報の組成術へ」(artscape、2025年11月)

「天磐 / aśman」鑑賞日:2026/03/15(日)
「Obol」鑑賞日:2026/03/17(火)