近年、アートやデザインの領域において、当事者研究や福祉の現場との協働プロジェクトが注目を集めています。では、実際に医療や福祉の現場では、どのように「共に考え、つくる」ということが実践されているのでしょうか。認知症のある人とのまちづくりを実践する、福岡市の事例をもとに、当事者と共につくる実践のあり方について、医療や福祉の視点からコミュニティデザインに関わる福井彩香氏に寄稿していただきました。(artscape編集部)
デザインの「手前」を考える
「認知症のある人が企業と一緒に商品を開発している」「患者さんにまち案内をしてもらうイベントを開催している」。そんな話を周りの人にすると、「一緒にできるの!? どうやって成り立つの?」「病気なのにすごいね」という驚きの声をもらうことがある。
患者さんと何かをつくること、プロジェクトを進めることに困難がないかと言われれば、それは嘘になる。身体的・精神的な難しさは存在する。しかし、その困難さが、ときに特別視され過ぎているように感じるのである。本当に大切なのは「すごさ」を称えることではなく、社会との関わりが「当たり前の日常」となることではないだろうか。
そもそも、何らかのプロジェクトを行なうとは、どういうことだろうか。イタリアのデザイン研究者であるエツィオ・マンズィーニは、「プロジェクトとはぼくたちの世界で話し合いと行動が結びつくもので、その目的は世界をぼくたちの望む姿に近づけていくことと考えている。また、そのプロジェクトを実践する活動が『デザインすること』になる」★1と述べている。
この視点に立つなら、共に何かをつくるうえで重要なのは、互いの望む姿を共有し、コミュニケーションを取りながら実践を続けていくことなのだろう。我々は無意識のうちに、異なる分野や世代など、背景や価値観の違う相手とプロジェクトを進めるときにマンズィーニのいう「デザイン」をすでに実践しているはずなのだ。
それにもかかわらず、私たちは対象が病を抱える人になると難しさを感じてしまう。その背景には、「病がある人は自分たちとは違う」「コミュニケーションが困難だ」という無意識の思い込みがあるのではないか。デザインの前提となる「お互いが大切にする物事を共有し、対話する」という段階で、すでに断絶が生じてしまっているのではないだろうか。
私たちはどうすればこの断絶を越え、コミュニケーションを始められるのか。 病院を拠点に医療と地域をつなぐ実践者の視点から、デザインの手前にある「お互いが大切にする物事を共有し、対話する」ための実践について考えていきたい。

患者さんとのまち歩きの様子[筆者撮影]
自分らしく生きる力としての「健康」
そもそも、「病気になる」とは、「健康である」とはどういうことなのだろうか。
無意識の「断絶」について考える出発点として、まずは「健康」とは何かについて考えてみたい。
「健康」と聞くと、定期的な健康診断や運動、あるいは病気がない状態を目指すことを想像するかもしれない。世界保健機関(WHO)の定義でも、「健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態」★2とされている。 確かにこの考え方は包括的だが、そもそも私たちの人生において、そんな「すべてが満たされた状態」など存在するのだろうか。病気や障害を一度でも少しでも抱えたら、私たちはもう「健康」ではいられないのだろうか。
「認知症になってから散歩にいくことを心配されるようになった。でも、晴れた日は外に出かけたい。昔は犬を散歩していたけど、今は犬に散歩してもらう。犬に散歩されたらダメだって誰も決めてないよね」
「認知症の妻が味噌汁をつくってくれる。でも、その味噌汁には、味噌が入ってないんです。味噌が入ってないなら自分で入れたらいい。それで二人とも嬉しくいられたらいいじゃないですか」
これらは、認知症のある人の日々を生き抜く知恵とユーモアに着想を得た展覧会「だいたいおっけー展」★3で出会った言葉である。
また、私の周りには、病院と地域をつなぐスペースでいつもコーヒーを淹れてくれるYさんやIさん、とても素敵な詩と絵を描かれるFさんがいる。
どの人も、何らかの困難さを抱えていたり、病院に通院中だったり、入院を経験していたりする。でも私は、このように自分らしく日々を過ごす人たちを「病を抱えている=健康ではない」という枠に当てはめることには、どうしても違和感を覚えてしまうのだ。
こうした私の実感とつながる健康の概念がある。オランダの医師・研究者であるマフトルド・ヒューバー氏は、「ポジティヴヘルス」という新しい健康観を提唱している。そこでは、健康を「身体的・情緒的・社会的な課題に対し、柔軟に対応し、自らを管理する力」★4と定義している。健康をある特定の状態として固定するのではなく、個人や社会のなかで変化しうる動的なものとし、「何らかの疾患や障害があっても、ときに周囲の力を支えにしたり、捉え方を変えたりながら、人生を楽しむ力こそが健康である」と捉え直しているのである。この視点に立てば、病がある人は決して「保護されるだけの無力な存在」ではない。状況に合わせてしなやかに生きる力を持ちうる存在なのではないだろうか。

地域住民・患者のFさんが制作した詩集。個人の経験や想いが、ユーモアを交えて綴られている[筆者撮影]
「ともに社会をつくる担い手」としての実践
では、病がある人と「共につくる」実践は、実際にどのように生み出されるのだろうか。福岡市で行なわれている「認知症フレンドリーシティ・プロジェクト」の事例をもとに考えてみたい。
福岡市は2018年より「認知症になっても自分らしく暮らせるまち」を目指している。ここでの「フレンドリー」とは認知症のない人が認知症のある人に、親切にしてあげるという構造に基づくものではない。認知症のある人と介護者が「自分らしく暮らせる」という理念のもと、その本人や家族、専門職、行政、企業が共に、実際にどんなまちが良いかを考えて、つくっていくのである。
その取り組みのひとつに、「福岡オレンジパートナーズ」および「オレンジ人材バンク」がある。ここでは、認知症のある人を「経験専門家」として迎え、製品やサービスの開発に関わってもらう取り組みが進められている。
認知症のある料理好きの人がいたら、どんな提案をするだろうか。
火災を防ぐ観点からIHへの変更を促すことを想像するかもしれない。しかし、実際には、操作方法が変わることや火が見えないことによる不安感や混乱から、長年立っていたキッチンに立てなくなり、料理を諦めてしまうことがある。私たちのなかにある前提や良かれと思った提案が、結果として、相手の生きがいや役割を奪ってしまうのだ。
わからなさや切実さ、「望む姿」を一番よく知っているのは本人である。だからこそ「世界をぼくたちの望む姿に近づけていく」ために、私たちの当たり前を一方的に押し付けるのではなく、認知症のある人の「火が見える安心感」や「長年使い慣れた感覚」を共有し、プロダクトをつくっていくこと。話し合いと行動が結びつくものにしていくことが不可欠なのだろう。実際にこのプロジェクトでは、100人近い認知症のある人と企業などが協働し、ガスコンロを開発・実用化している。 もうひとつ重要なのは、認知症のある人が協力者ではなく、共に社会をつくる担い手として迎え入れられている点だ。開発への参加には謝礼も支払われ、本人の経験や視点が正当に評価される仕組みが整えられている。

炎が見えやすい白い天板と黒いフレームの組み合わせや、スイッチの配色や音声通知などの工夫がなされている。友人の家等で初めて使用するガスコンロのUIに戸惑うことがあるが、これは明確でわかりやすく、私にとっても使いやすいと感じた[筆者撮影]
「当たり前」の基準をずらしてみる
福岡市認知症フレンドリーセンター・センター長の党一浩さんは、「たとえ本人がどんな話をしたかをあとで忘れてしまったとしても、喜ばれたこと、認められたことの感情的な記憶は確かに残る。そして、対価としてお金が手元にあるという経験もまた、自分が役に立てたという実感につながっていく」と語っていた。
認知症のある人は、コミュニケーションが取れない相手ではない。思い出しにくさや話しにくさもあるかもしれない。でも、思い出しにくさを否定するのではなく、相手の視界に合わせて目線を合わせ、それぞれのペースとして受け取ることで、心を通わせることができる★5。
日々の生活を振り返ってみても、会話の方が話が深まる友人もいれば、テキストの方が深まる友人もいる。祖母と話すときの心地良いテンポや言葉遣い、英語と日本語を交えて友人と話すときの言語の選び方。仕事におけるスムーズなテンポと、プライベートのそれも異なる。私たちは日々、無意識のうちに関係性や相手に合わせたコミュニケーションの手法を選んでいる。
しかし、自分の想像を超えた相手と出会ったとき、調整ができなくなり、コミュニケーションを諦めてしまう。それこそが、対話の段階で生じる「断絶」の背景にあるものなのだろう。相手に自分の「当たり前」を押し付けるのではなく、互いの心地良さを探り続けること。そこから、デザインの手前にある「お互いが大切にする物事を共有し、対話する」ための実践が始まるのではないだろうか。

「だいたいおっけー展」の作品のひとつ。スタンプを押してあらわれるエピソードを通じて、認知症との付き合い方や多様な知恵を自分ごととして持ち帰ることができる[筆者撮影]
迷いや戸惑いのなかで「共につくる」を実践する
では、どうすれば「当たり前」を押し付けない関係性を築けるのだろうか。
ありきたりかもしれないが、それは自分自身が「コミュニケーションが難しい相手」「保護する対象」だと無意識に想像してしまう誰かと実際に出会い、コミュニケーションを試みることからしか始まらないのではないか。最初は怖さがあるかもしれないし、イライラしてしまうかもしれない。私自身、現場で今もそんな感情を抱くことはある。
けれど、相手を知っていくなかで、その感情は少しずつ和らぎ、もっと話したいという気持ちや、交流のなかにある面白さに気づくようになる。
ときに不安定な感情を抱きながらも実践していくこと。そのプロセスを通じて初めて、私たちは身体性を伴った確かな気付きを得られる。そうした一つひとつの積み重ねが、デザインの前提となる「お互いが大切にする物事を共有し、対話する」第一歩となるのだろう。
そしてきっと、さまざまな当たり前を柔軟にずらしていく実践は、明確な正解や効率性が求められがちな今を生きる、自分自身の生きやすさにもつながっていくのではないだろうか。
この記事が誰かの手元に届き、患者や当事者と呼ばれる人たちと「共につくる」という営みが、実はすぐそこにあるのだと気づくきっかけになれば嬉しい。そして、自分の当たり前を少しだけずらしてみるという小さな実践の積み重ねが、いつかの誰かと自分自身を支え、「世界をぼくたちの望む姿に近づけていく」ための力になることを願っている。
★1──エツィオ・マンズィーニ『日々の政治 ソーシャルイノベーションをもたらすデザイン文化』(安西洋之・八重樫文訳、ビー・エヌ・エヌ、2020、p.68)
★2──原文は“Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.” https://www.who.int/about/governance/constitution
★3──認知症未来共創ハブの堀田聰子氏が中心となり、「認知症のある方の語りを紐解いて生まれた発見と感動を、より多くの方々と共有したい」という願いから、理工系のメディア研究を行なう学生や研究者、デザインリサーチャーらに声をかけ実施された企画展。福岡市認知症フレンドリーセンターにて展示された(2024/9/10-2025/1/10)あと、福岡市科学館に巡回(2025/1/12-1/13)。現在は福岡市認知症フレンドリーセンターで常設展示されている。
★4──原文は“Health as the ability to adapt and to self-manage, in face of social, physical and emotional challenges.” (Huber, M., et al. “How should we define health?” BMJ. 2011, 343, d4163.) DOI: https://doi.org/10.1136/bmj.d4163、Positive Health international
https://positivehealth-international.com/
★5──認知症のある人とのコミュニケーションや関係性を捉え直すためのアプローチとして、フランスで開発されたケア技法「ユマニチュード」などがある。また国内では、当事者の思いや体験、知恵を中心に、家族や医療福祉関係者、企業、行政、研究者らが幅広く協働して未来を創る活動体「認知症未来共創ハブ」や、認知症のある人が生きる世界を旅人の視点で描いたプロジェクト・書籍「認知症世界の歩き方」の取り組みなどが展開されている。
参考サイト
一般社団法人日本ユマニチュード学会Webサイト: https://jhuma.org/humanitude/
認知症未来共創ハブ: https://designing-for-dementia.jp/about/
認知症世界の歩き方(認知症共創ハブver.):
https://designing-for-dementia.jp/dementia-world/
認知症世界の歩き方(issue+design ver.): https://issueplusdesign.jp/dementia_world/