会場:画廊 BananaMoon[長野県]
会期:2026/06/12〜2026/07/12
公式サイト:https://www.instagram.com/p/DZXGTPLT1ht/
[筆者撮影]
別の風景から話し始める。
薄暗い展示室で、壁にかかる額装された山の絵を端から見ていく。さまざまな筆致の山が並ぶ。
その部屋ではじめから視野に入っていた一枚に至る。
キャンバスの右下から上方へ尾根が走っている。尾根の右側斜面は山自身によって影が落ちていて、左側は岩肌と緑が入り混じっている。その入り混じりはきれいに生え際がわかるのでもなく、光を受けて煌めく白、暗がりの黒み、まわりの色を吸った残雪のような淡い水色、添えられる黄緑……。言葉を充てられない色の織り混ざりや、漠然と明るい斜面とはこうである、といつか登った山の眺めと頭のなかで突き合わせる。明るさに目を細めたあと、視線を上げた向こう──画面の上部──には、空の青にぼやけて溶け込みそうな山並みが横切っている。淡いが、その中に明暗がある。より遠くにあるだろうその山の方が、ありありと触るように形がわかる。遠くの山の淡さが、先程の明るい斜面につながっていることに気づく。奥へ向かった目が戻ってくる。横切る山の稜線が影と光の境につながっている。薄暗がりの斜面は、手前では明るく、さまざまな色で光っている。
光り、明るい斜面は緑の一色になり、キャンバスの左下へ谷が滑り落ちていく。どこまでも滑り落ちていかないよう、もうひとつの暗い影の斜面が緑をせき止める。底に、ポツポツと明るさがまだ残されている。
それは確かに山であったし、同時に油絵の、筆が走った跡でもあった。暗がりも、明るさも、淡さも、数センチ幅のストロークの中にある。山頂から眺め下ろしたときの、普段よりはるかに遠くまで細やかにきらきらと光って見通せる感覚が蘇る。動いた筆が想像されるのと同時に、このことは思い出されるし、見えている。近づけば筆致が見えてくる、というわけでもない。遠目のときからそれはストロークの集まりだったし、近づいてもまだ山肌だった。
ここからここまでがこの山、とは言えない分け難さに、目がぐるぐるとキャンバスの上を巡り続ける。そのうち、再び、明暗のはっきり分かれた尾根に戻ってきた。ストロークの方向は、私には厳密にわからない。だが、その尾根を境に分かれていることはわかる。油絵のわずかな絵の具の盛り上がりがその際を描き出している。色の分かれ目だけでなく、絵の具の斜面にまた、明暗がある。この、際の暗がりと煌めきの確からしさが、この絵を山たらしめていた。私の目は、そこまで見て取ることがもうできている。
山岳画家・上田太郎の《西穂高岳頂上より 焼岳、乗鞍岳、上高地を望む》(1994)を収める安曇野山岳美術館のすぐ近く、同じ山裾に画家・成瀬政博の私設した画廊BananaMoonがある。入口の扉を開き、細い廊下を進み数段の階段を下りると、アーティスト・内田涼の個展「水を咬む」が始まっていた。
縦横に加えて高さの寸法も等しく、キューブに近い展示室の壁沿いにぐるりと絵が掛けられている。ひとつ目、二つ目、三つ目とまわり、四つ目の壁との間に2階へ上がる階段がある(階段の先、2階では絵画を中心とした成瀬のりこ展「どうやろ」が行なわれている)。それぞれの壁には三枚ずつ絵が掛けられている。そして、四つ目の壁の中央には人がひとり通れるだけの入口があり、中の小部屋では三面に一枚ずつ絵が掛けられている。振り返ると入口越しにひとつ目の壁に掛かった絵が見える。
小部屋の中から二つ目の壁を見る。展示室に入室したときに最初に見える絵もこの三点である。ナンバリングに則り、右から順に《frequently (頻繁に) transparent (透明な) 》《eventually (やがて) again (ふたたび) 》《二 (五) 羽》。すべて2026年に制作された新作[筆者撮影]
内田の絵画は自身のステートメントに「絵具の垂れや滲みによって生じた形を起点に構築していく絵画作品を中心に制作を行う。/偶然性や他者性といった不確定要素を取り込みながら、形態に宿るイメージの解体や再構成を目指す。」と書いているように、キャンバスには具体的なモチーフを感じさせない形が並び、その一つひとつに刷毛の太さと移動が想像される。グラフィックデザインも手がける内田は、色の滲みを含んだストロークの輪郭だけコピー&ペーストしたように単色の塗りつぶしで再配置したり、縁を黒々とした線でなぞって輪郭を強調したりする。塗りつぶしから、滲んだ表現まで自在に質感を変化させられるアクリル絵の具の特性が活かされており、抽象的な形に実際の描画の手順とは異なる重なりや運動を想像させることが特徴である。
今回の個展の起点は、このキャンバスと絵の具の関係にある。内田は本展に寄せたテキストで「水と絵の具が、まるで何者かに『咬まれている』ような表情をみせた。手違いで発注した新しいキャンバス布は表面に油が乗っていて、いつものように滲んでくれない。」と書き始める。そして、「大きな刷毛を滑らせた瞬間から次々と水分をはじいていく。それはとがりすぎず鈍すぎない牙がゆっくりと食い込んでいくような仕方で、知っているような知らないような、見たことがあるような無いような様子で、眺めている時間は幸福だった。」とここに並ぶ絵に起きた出来事、そしてそれを眺めた経験について述べている。テキストは「『水』という名詞と『咬む』という動詞が接近したのは、偶然的でとても美しいことだった。」と、絵を介して自身の実感に言葉が与えられたことで締められている。この名詞と動詞の接近は、13点ある展示作品のタイトルが一作を除いて、一見無関係な名詞/動詞/副詞/形容詞を二つ並べたものになったことにも関係しているだろう。
確かに滲んでいるというより弾かれてキャンバス上を滴ったり、わずかに流れたような跡が見られる。その跡は「不確定要素」であるが、内田が刷毛で絵の具を滑らせることで始まったことで、その根元の線の連なりにははっきりと意志がある。
《smooth (滑らかな) rough (ざらざらした) #1》(2026)の右上。キャンバス上で絵の具が弾かれた跡が、キャンバス面のさまざまな透け方からわかる[筆者撮影]
弾かれたり、滲んだり、塗りつぶしたり、種々のストロークが画面の上に引かれている。私の目は自ずとそのストロークを追い、その幅の端、ほかなる色と接する際を辿る。明確なモチーフを持たない内田の絵画だが、弾かれた絵の具の連なりは、CTスキャンされた内臓の襞のようでも、鉱石の断面のようでも、川の流路のようでもある。はたまた地層のようでもあり、アクリル絵の具の1ミリにも満たない厚みの中で、目はありえる何かのさまざまなスケールでの凹凸を想像してしまう。想像をつい喩えの名詞で挙げてしまったものの、実際想像されているのはそれらを撫でることや歩くこと──動詞なのかもしれなかった。そうして動くことに、形容詞と副詞はまつわっている。作品タイトルをそのとおりに受け取るかは問題ではなく、そのように絵を見ることを介して言葉が立ち現われることへの信が書かれ/描かれていた。
これらの絵を見たあと、あの山の絵を見た。そして、車へ乗り込む前、木々の向こうを横切る筑摩山地を見た。薄曇りの空と山の稜線は同じような色彩のわずかな濃淡差として見えていた。
鑑賞日:2026/07/12(日)