
発行日:2025/03/21
発行元:花伝社
公式サイト:https://www.kadensha.net/book/b10132113.html
唸りを上げて走っていく銀色の車体。銀色と言っても、その多くは色鮮やかでさまざまなドローイング、文字に覆われている。タガログ語のそれら言葉の意味を、わずかな時間で読み取ることは難しい。何台も通り過ぎるが、ひとつとして同じものは描かれていない。一方で、眺めてそのバリエーションに目を奪われていられるのは、乗り込む理由を持たない余所者だったからだ。その内に乗り込む人にとっては、どれに乗り込むかの判断材料のひとつでもあるだろう。一台一台が異なる誰かの手により組み上がり、誰かの手で走行しており、そこに乗り合う人々も、すれ違う人々もまた、ひと括りにはしえない個別の人間たちである。
『人間の都市 マニラを鼓動させるジープニーとおっちゃん』はジープニーおよび、ジープニーを駆る「おっちゃん」を描くことで、「人間が都市をつくり出す過程を描写すること」(p.15)を目的としている。フィリピンで交通インフラとして利用されるジープニーは、マニラという首都の成り立ちと密接な存在である。
16世紀からのスペインによる統治と都市形成、19世紀末のアメリカによる購入、1943~45年の日本によるフィリピン全土の侵攻と統治、マニラ市街戦による壊滅と再びのアメリカによる統治、1946年の独立。1945年の市街戦は、アメリカ統治時代に強固に建造された市街に立てこもる日本軍をアメリカ軍が猛攻した結果、あらゆる都市インフラが壊滅した。戦後復興の対象には交通網も当然含まれたが、公共的な交通セクターだけでは需要に応えきれず、アメリカ軍から払い下げられた安価なジープが小規模事業者の参入を後押しした。こうして乗り合いバスとしての改造ジープ、ジープニーが1946年の独立に先立って出現する。
序章では、大都市マニラおよび、そこに生きるフィリピンの人々が国内外の政治や経済にどのように翻弄されているかを概説しているが、政治・経済の観点から都市形成の過程や、そこで抑圧される人々についての先行研究が陥る罠として、著者は「権力や資本主義として都市を論じる研究は、非人間化する力と構造を素描し、それを唾棄することを目的としてきた。しかし、『解放を目指したプロジェクトは人間のエージェンシーを低く見積もるか等閑視する結果に陥ってしまう』問題」(p.22)、つまり「絶望の都市がいかに絶望であるかを論じ続けるスタイルは、かすかな希望をもまるで無力で無価値なものとして捨ててしまう」(p.22)と指摘する。
著者の姿勢は、10年近い「おっちゃん」たちとの関わりのなかから強固になったものであろう。本書は、予めこのような信念を持つ著者が状況に身を置き続けたというよりも、関わりのなかでこうした信念が姿勢として形成されたことの記録として読むこともできる。本書に散見される「おっちゃん」たちの言葉は、当たり前だが著者の投げかけなくしては出てこなかったものである。言葉を聞き取るのは著者の側だけでなく、調査対象となった人々の側でもあるのだ。ジープニーを中心に描かれる関わり合いから見えてくる都市像とは、「支配的な人間像に抗ってつくられてきた」(p.362)ものであり、フィリピン政府が掲げるのとは異なる「真の近代」とは、「人間像がぶつかり、調整され、交渉しながら別様な都市(人間性)をつくり出していくこと」(p.362)のなかにある。
本書は多くの読者にとっては馴染みの薄いフィリピンの歴史や社会背景を丁寧に解説しながら、権力や資本主義経済により形成された都市のなかでいかに人々がそれぞれの生をより良くするべく活動しているかを描き出す。なかでも重要な「おっちゃん」という呼称は、シンプルな雇用契約では説明しえない関係者たちを総称する言葉である。車両としてのジープニーを保有するオペレーター、車両を借用し運行するドライバー、車両の整備に従事する人々。支払いはそれぞれの間にさまざまな要因で行なわれ、単なるツリー構造でもない。こうした具体の関係性が、公的な歴史とは異なる経緯や成り立ちとして語られている。
「第三章 都市を鼓動させる力 第二部 ジープニーと生きる場を拓き、育む」で参照されるようにジープニーを介して見えてくるのは、乗客とドライバー、乗客同士、また「おっちゃん」同士で、あるいは制度との間に存在する、さまざまな「交渉され合う存在様式」(p.147)である。これらを具体性を損なうモデル化ではなく、具体的な行為がパラフレーズされるようにさまざまな関わりのなかで描かれていくのが本書の特徴だろう。
具体的な記述のなかでも特に注目したいのは「第七章 おっちゃんたちのポリティクス:ストライキという『現れ』の様式」である。2010年代後半、近代化事業の一環でフランチャイズ(運行路線)が再編され、オペレーターとドライバーの関係に介入が起きたとき、「おっちゃん」たちはストライキを行なった。マニラの交通の多くを占めるジープニーの停止は大きな社会的インパクトをもたらす一方、「おっちゃん」とその家族は収入を一時的に失うことになる。重要なエピソードとして、ストライキにおける準備の様子が挙げられている。ジョリビー(フィリピンの国民的ファストフード店)をケータリングすることを著者は冗談として提案するが、「それでは腹が満たされない」と却下される。未来の生を守るため、いま目の前の売上を失う決断をする人々とその家族にとって一番に重要なのは、この場に加わるうえでの安心を確保することだった。
このほか、政府のキャンペーンでは対立する存在として位置づけられる「おっちゃん」と利用者が、実際は「通勤者」という連帯しうる存在だと位置づけたSNSを介したムーブメントなど、本章はジープニーが社会の何をいかにつなぎ止めていたのかが幾度も語られる。
「おっちゃん」にフォーカスすることは、限られた視点から世界を眺めることではない。「おっちゃん」が世界に対してそうであるように、それぞれの眺めの内に他者を乗り込ませ、共に走る可能性が本書を通じて見えてくる。
2019年に訪問。マニラのフィリピン大学の敷地内にジープニードライバーの暮らす地区が存在していた。パンデミック以降の状況は未確認[筆者撮影]
読了日:2026/07/15(水)