
会期:2026/07/11~2026/07/12
会場:三重県文化会館 小ホール[三重県]
公式サイト:https://hatetocheek.com/kimitomo2026/
(前編より)
「SNSは疲れるからもう見ない」という台詞が示すように、野澤には、パートナーのトランス女性とともにノンバイナリーとして生きる日々の疲弊に加え、ノリちゃんの不安定な精神状態のケア、建前だけのLGBTQフレンドリーを謳う転職先の上司候補への対応、そしてトランス女性への嫌悪感を抱く友人の園との深い溝と、痛みや軋轢が蓄積されていく。蓄積されたダメージは終盤、嘔吐という身体的反応として表出してしまう。だが、「おしまいにしよう」と(二次会のお開きを/園との友人関係の終了を)宣言した野澤は、カラオケルームにひとり取り残され、介抱してくれる者は誰もいない。
ここには、「自分自身を再び傷つけないかたちで他者に痛みを語ることは可能なのか」というマイノリティが抱えるジレンマと根本的な問題が露わになる。既に傷を内に抱え込んでいるだけでも辛いのに、その傷を見せて語らないとわかってもらえない、すなわち他者へ語ることがトラウマの反復にならざるをえないという二重の苦痛がある。いや、傷を見せて語っても、「言い方が感情的だ」とトーンポリシングを受け、「理解」などされないという三重の痛み。そして、こうした「蓄積された痛みの吐露」自体は、誰にも見られずケアもされず、孤独に吐くしかないというさらなる痛みが野澤を襲う。
自らの加害性にまったく無自覚な社会のありようは、カラオケルームを出た甲斐田の台詞に端的に提示されている。「ほらああいう人ってさ、繊細じゃん」「繊細だもんね、しょうがないよ」。こうした発言の問題点はどこにあるのか。「 彼らが 繊細だから傷つきやすい」と言うことで、「自分たち無理解で無神経な社会が傷つけている」という加害性を棚に上げているからだ。
一方、カラオケルームに戻った衛が床を拭き、プライドパレードでの野澤のスピーチに感動して泣いたことを思い出しながら、次のような言葉をかけることは、ひとつの救いではあるだろう。「野澤は、今まで散々だれかっていうか、俺ら、俺らなんだけど、傷つけられたりして、それで、その傷を見せてくれてたんじゃん、そうでもしないと俺らが分かんないって思うから」「それで俺が泣くのってちがう、ちがうよね? 俺が野澤の側っていうか、味方みたいな顔して泣くのって違うじゃん」「だから、野澤はもっと怒っていいし、今更なんなんだよって怒っていいし、分かってくれてありがとうとか思わなくていいし、だって、分かってないんだよ? 俺らは、ずっと分かってないのに、気持ちよく泣いてるじゃん、そんなの野澤はマジで一切許さなくていいんだよ」「俺だからもう、野澤が何言っても泣かない、そんなことしてる場合じゃないよね、なんかするよ、その代わり、野澤がもう、ああいうことしなくていいように、なんか考えるから」。
園もまた、仲直りの気持ちを込めてLINEギフトでスターバックスのドリンクチケットを送ってくるのだが、その行為は、二重の意味で断絶の再生産でもある。BDS(イスラエルに対する消費ボイコット)の対象でもあるスターバックスのギフト券を使うつもりのない野澤は毎回期限切れにしてしまうのだが、園は「いつも忘れるから」とコーヒーを買ってきて手渡そうとし、野澤が受け取らないので自分で飲んでしまう。野澤の自虐的な笑いは、すすり泣きに変わり、幕となる。また、園が甲斐田から兄嫁の出産祝いについて相談されたとき、「商品券は味気なくない?」と却下していた会話を思い起こせば、園にとってLINEギフトのプレゼントは「人間関係維持のための無難なツール」のひとつでしかないのかもしれない。

[撮影:水澤桃花]
それでも野澤は園に対して、なぜ「あたしもあいつが好き」と友情を感じ続けているのか。一緒に喫煙所でタバコを吸っていると、「将来赤ちゃんにも悪いから」と喫煙を非難し、「女性は当然、出産するべき」というジェンダー規範を押し付けてくる赤の他人に対して、少なくとも園は中指を立てて「あざーっす」と言い返してくれるからだ。
最後に、「なぜノリちゃんは不在化されているのか」という本作の根底に横たわる問いと、「カラオケボックス」という舞台設定の秀逸さ、そして「個室の喫煙ブース」という装置の両義性について考えたい。劇中、ノリちゃんは一切登場せず、心配する野澤が何度も電話をかけるシーンでも、電話越しの声すら聴こえない。これは、社会におけるトランス女性の不可視化を示す、意図的な演出だ。「あなたたち観客には姿が見えていない」「どんな姿なのか、脳内で像を結べず、声を上げても聴こえない」ことそれ自体を見る者に突きつける。

[撮影:水澤桃花]
建前や広告塔にすぎないダイバーシティ推進、セクシュアル・マイノリティのなかにあるゲイ中心性(とトランスジェンダーの周縁化)、マイノリティの声を「感動」の対象として消費するマジョリティ、その枠組みと無縁ではない演劇への自己批判、シス女性によるトランス女性排除、それを助長する男性による(性)暴力、結婚=出産=幸せを当然視する社会規範、ホモソーシャルな男社会が男性自身にもたらす抑圧、日常の端々に潜むマイクロアグレッションやトーンポリシング……本作ではこうしたさまざまな問題が吐露され、それぞれ異なる痛みを抱えた多様な声が語られる。だがそこは、カラオケボックスすなわち外部の社会から切り離された密室でしかない。ここで語られた多様な声と痛みは、「外部の社会」に聴こえているのか? あるいは、ヒット曲のラブソングを歌うことが求められる「カラオケボックス」とは、異性愛規範を前提とする社会のメタファーでもある。カラオケマイクを束の間握った野澤や衛は「本音」をぶちまけるが、ノリちゃんはそのマイクを握る機会すら与えられず、締め出されている。カラオケルームには「内線の電話」が備え付けてあり、打ち明け話や本音を受付にいる衛が聞いてしまうという重要な小道具として機能するが、あくまで個室とカウンターとの間をつなぐものにすぎない。

[撮影:水澤桃花]
ノリちゃんへの対応を相談された野澤、「結婚したら当然子どもはほしい」と甲斐田に言われた園、園との価値観の違いを突きつけられた甲斐田は、それぞれ会話が途切れたタイミングで喫煙ブースへ向かい、うずくまって泣き、嗚咽を漏らす。個室型の喫煙ブースは、疎外感を感じた人物を孤独のなかに閉じ込める、透明な檻でもある。だが同時にそれは、誰の目も気にせず、泣く姿や弱みを吐き出せるシェルターでもあり、両義性を帯びている。

[撮影:水澤桃花]
緻密に練り上げられた会話劇と、「カラオケボックス」「喫煙ブース」という巧みな舞台設定を組み合わせた本作は、(ひとつに集約されず、矛盾や断裂をはらみ、語られていない)声を、密室を突き抜けて響かせる強度をもっていた。
鑑賞日:2026/07/11(土)