公開からずいぶん時間が経ってしまったのだけれど、ちょうど高嶋慈さんのレビューが出たので、『急に具合が悪くなる』について書いておこうと思います。

この作品についてやりとりした最初の著者は福井彩香さんでした。今年の7月、「共につくる、その前に──医療と地域をつなぐプロジェクトの現場から」の記事が公開されたころ、この映画についての感想をやりとりしていました。映画に詰め込まれた多くのものが心に響いて、何回も見た(見に行くであろう)し、原作も繰り返し読んだ(読むであろう)し、想像していたよりもずっと大きな映画でした……というような。

高嶋慈さんが書かれているように、この映画には砂連尾理さんが重要な役割を果たしています。演者と観客と作者(演出家)、劇場と日常、障害と健常、介護する側と介護される側の境界が溶解する、奇跡のような美しいシーンが、終盤の介護施設の中庭で展開されます。その溶解を生む身体の動きを生み出しているのが砂連尾さんが培ったきたメソッドです。元病院の中庭という、内でも外でもないあいまいな場所で展開されるコンタクトインプロヴィゼーションは、これまで想像してみたことがないけれど、ずっと見たかったシーンだと気づくような体験でした。

濱口竜介監督は『ドライブ・マイ・カー』もそうだったけど、一般的には知られていないような(でもartscapeでは何度もとりあげていますよ😊)、マイナーで実験的な舞台作品のメソッドを映画のなかに呼び込むのが本当にうまい。それが国際的な大きな賞を受賞して、いきなり明るいところに出てしまうのだから、驚き恐れ入ってしまう。

原作は、哲学者・宮野真生子さんと医療文化人類学者・磯野真穂さんの往復書簡。映画に原作本がある場合、どのくらい忠実に再現しているかが話題になるけれど、この作品の場合、それは見どころにはなりません。違いすぎるから。この原作が往復書簡であるという形式上、そのままの映画化なんて想像するのが難しい。では、まったく別物なのか。二人の学者が出会って、片方が死ぬまでの短い時間のなかで、単なる友情や恋愛ではない、自立した二人の人間の間に起きる共振を描くというところでは通じているのではないでしょうか。二人の口から出る言葉は、それぞれが20年ほどの歳月を費やして研究してきた学問(原作)を土台に、演劇や介護施設という実践の場(映画)での苦闘を経て発せられています。

原作にはない資本主義について語り合うシーン(高嶋さんが詳しく書かれている)は、私も惹きつけられました。知的障害者をケアする仕事をしている知人があのシーンでホワイトボードに描かれる図とセリフをこまかく書き起こした4ページにおよぶメモを送ってくれました。

「ユマニチュードなんて綺麗ごとで、あんなの実際には不可能」という声は、私のまわりでは、介護や社会福祉の現場にはいない人から聞こえてきます。「……なんじゃないかな」という語尾とともに。

あの映画は、巨大で強固な社会構造がもつ問題、その構造のなかで生き、生かされている私たち、とりわけそのなかで小さな悪あがきをしている人たちへのエールなのです。(f)