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技術が誕生する際に想定・設定される機能や目的ではなく、事後的に発見されうる“使われ方”や“使い方”の可能性に言及するような論考がここ数年大変多くなってきている。よく引き合いに出されるのは、「当初、“電話”には“家で音楽会を聴ける”というような大仰なキャッチフレーズがついていたんだよ!」というような、今でこそとっても笑える小話であったりする(「会話」という使い方が定着したのは事後的なことなのだ……)。翻って現在。次々に登場するデヴァイスに対して、まだ誕生間もない技術に対してさえも、一般的なイメージに囚われることなく自由な使い方を開拓し続けている方がいる。今回は、慶應義塾大学環境情報学部助教授の加藤文俊さんに、そのようなスタンスの持ち方についてお話を聞かせていただいた。
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加藤さんは、学部時代に経済地理学を学んでアメリカに留学、「現在は、コミュニケーション論・メディア論の観点から社会調査の新しい方法を探求されている「実践者」である。カメラつきケータイを用いて地元の人と一緒に街のグッドプレイス(good place)を発見・再発見する試み、それをポストカードの形式で社会の中に流通させてしまう試み、地域の人と一緒に街を歩きながら何気ない会話を録音し、その会話をPodCastingしてしまう試み(録音された会話を聞きながら、後から追従して街歩きできる)、そして最近では万歩計の歩数ログの実験や、RFIDタグをつけた交換日記帳を放流(漂流)させてしまう試み(位置情報を検出できて、どこに行ってしまったのかトレースできる)……。いずれも、ピリッと「冴えた」独特のアイディアをお持ちである(プロジェクトに関してはこちらを参照)。
加藤さんはもともと、80年代の路上観察学、タウンウォッチング、都市社会学に大きな刺激を受けた世代だという。そして、「街に出て/街を歩いて」発見し、そこから知見と経験を炙り出していくフィールドワークの手法を研究の軸としながらさまざまな実験的な試みを継続されている。「自分は技術から考えているわけではない」としながらも、たとえば現在の「カメラつきケータイ」に関しては、自身の研究の文脈にひきつけて次のように意義(価値)を見出されている。
「普通の一眼レフのようなカメラを持っては“入れない”ようなところまでケータイは接近することができます。撮るほうも撮られるほうも気軽になれるから。結局、フィールドワークというのは関係性で、距離をどこまで近づけるかなんです。それも、“ズームをつかわずに”身体的に、あくまで自然に接近する。パーソナルスペースに『入れてもらって』『入ってもらう』ような相互関係の生み出し方なんです」
ケータイつきカメラは、写真のクオリティ自体は低い。一方で、肩に力をいれずに誰もが身の回りのモノ・コト、小さなものやささいなものを淡淡と蓄積していくことができる。そういう日常生活の中での「フツウ」の行為の継続の中に、価値が潜んでいるという。加藤さんの言葉で言えば「生活記録(=ライフ・ドキュメント)」、である。また、「誰もが」というこのところ濫用されがちなコンセプトワードに関しても、次のように述べる。
「PCのサイトを見ている人はやっぱり限定されていますよね。たとえば、フツーのおじさん、おばさんは何をするのか?というところに関心があるんです。おじいちゃんから孫までがみんな写真を撮って蓄積していくと愛着が生成されるというような……。それから、デジタルアーカイヴというと、新しく写真を撮って共有して……みたいになりがちなんですけれど、実は各人が家の中に貯めてきた人生のリソースがあって、それをうまく導いて社会の共有財産にするような道筋があってもいいと思うんですよね。「地域の地図作りワークショップ」というような文脈になかなか載ってこないような、人間がこれまで蓄積してきた(そして今でも日々蓄積している)歴史・個人史のようなものです。『うちにこんな写真あるよ!』といって持ってきてくれるような状況があると面白いですよね」
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「社会調査」と書くとなんだか急に肩に力が入ってしまいそうだが、加藤さんの行なっている活動はそうした形式的な印象からは全くもって無縁で、個人/生活から社会/公共的なものへと自然と滲み出て、また戻っていく、「回路」のデザインのようなものだろうと思う。そのような活動を持続する根源となっている「楽しさ」は何なのかを訊いてみた。
「素朴なことですけど、“旅”と“出会い”ですね。結局は、行ったことのない場所にいけるということと、知り合いが増えるということ。友だちになれないようなはずの人と友だちになれるということなんです。今、学生たちと『リサーチキャラバン』と呼んでいますけれども、地元の人たちと交流しながら、経験を蓄積して旅していくような活動を、いろんな街を渡り歩きながらやりたいと思っています」
ケータイカメラもさることながら、今「しゃべりながら歩くのが面白い」と言う。それも、かつての「オーラルヒストリー(聞き取って文字に起こす)」というような方法ではなくて、地元の人と一緒に録音しながら歩いてそのままPodCastingで配信してしまうような、人の息遣いが聞こえてくるメディアの使い方を実践されている。なんだか、新しいような、懐かしいような不思議な感覚がそこにある。
加藤さんは話の中で「素朴に」とか「普通に」とか「粛々と」といった言葉をよく使われる。たぶん、日常的なトライの持続の中で、既知なるものと未知なるものがいつも同時に相補的に生産されてくる「採取」の根源的な豊かさを掴んでいるのだろうと思う。
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