前回までは、ミュージアムをメディアとして論じることの可能性について考えてきた。残された今後3回の掲載では、メディアとしてのミュージアムという概念から派生する視点のうちのいくつかを取り上げてみたい。
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ミュージアムと都市の関係性
読者の皆さんもご存知のとおり、ヴェネツィア・ビエンナーレ、ドクメンタ12と、今年は国際展の当たり年であった。両者に共通しているのは、その開催地がいずれもニューヨークやロンドンといった大都市ではないことだ。大都市の異種混交性や活気にアーティストが集うのではなく、むしろアートを媒介にして都市が開かれていく。とりわけ、ドクメンタの場合には、三つのミュージアムがカッセルを訪れる人々と情報のサーキュレーションを形作っている。
このようにミュージアムと都市との関係性を考える際には、近年以下の三つの側面について論じられることが多い。
1──地域活性化の鍵としてのミュージアム
主に文化経済学や文化経営学よりの議論に散見される視点。かいつまめば、ミュージアムに対して適切なガバナンス体制を導入することは、ミュージアム自体の経営を好転させるだけではなく、個々のミュージアムが存在する都市・コミュニティの活性化にも寄与するという議論★1。
2──異なる社会集団の融和の拠点としてのミュージアム
これはイギリスに顕著な論点。イギリスでは1990年代半ば以降、ブレア政権の政策の柱のひとつである社会的包括政策(Social Inclusion Policy)の中心を担う機関として、異なる民族、社会階層間に生じるコミュニティ内の対立、差別の融和にいかにミュージアムが寄与できるのかが議論されてきた★2。
3──都市における情報のノードとしてのミュージアム
1990年代の半ばに流行した情報都市論を背景としたミュージアム観。現代社会において生じている変化を、ヒトとモノの大量かつ迅速な移動に支えられた社会から、半ば不可視な膨大な情報のフローによって支えられた社会への変化ととらえ、そのハブとなる都市の文化的な情報のノードとしてミュージアムを構想していく議論。
どの論点も重要だし、とりわけ日本のミュージアムを考える際には、最初の視点が最も即効性が高いのかもしれない。しかし、ここでの主旨からすれば、「情報のノードとしてのミュージアム」というコンセプトが、ミュージアムとメディアという論点に対してより示唆に富む。そこで、以下都市における情報交通の結節点としてのミュージアムについて考えてみたい。 |
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記憶・アーカイブ・メディア
この高度情報化社会における都市のノードとしてのミュージアムという論点を、美術評論家の暮沢は都市社会学者のサスキア・サッセンを援用して議論しているが★3、ここではもう一人の都市社会学者、マニュエル・カステル★4をベースに考えてみたい。カステルによれば、近代の都市は、交通機関(というテクノロジー)の発達に支えられたモノとヒトの大量の移動の結節点として地理学的に把握されていた。しかしながら、現代社会における都市は、情報を膨大かつ瞬時に転送するネットワーク(テクノロジー)に支えられた、情報のサーキュレーションの総量によって把握される。また、情報という単位に依存している以上、都市は電子的な擬似空間として把握され、その電子的なノードは物質的には「証券取引所」というような形で都市に存在する。そして、証券取引所は都市の「経済的な」情報のノードであり、「政治的な」情報のノードとしては「国会議事堂」などが想定できる。カステル自身は言及していないが、同様に都市の「文化的な」情報のノードとしてミュージアムを議論することは可能だろう。そこで考えなければならないのは、ミュージアムの情報の貯蔵庫──アーカイブ──としての側面と、その情報の媒介機能──メディア──としての側面である。
アーカイブとしてのミュージアムは都市の記憶をゾーニングする。美術史家の伊藤俊治は、パリのグラン・プロジェ計画をその証左として挙げている★5。つまり、ルーブル美術館はその建築様式の変遷とともに18世紀以前の記憶を収蔵し、オルセー美術館は19世紀の代表的なビルディング・タイプである駅舎という建築とともに19世紀の記憶を、ポンピドゥー・センターはそのガラスに覆われた外観とともに20世紀の記憶を、そしてラ・ヴィレットは未来の記憶をと。このグラン・プロジェ計画において、「19世紀の首都」パリは、そのミュージアム群の空間的な配置によって新たに時系列的な記憶を上書きされたのである。伊藤自身は、この過程を「都市のアルシーブ化」として捉えている。
一方でこの都市の記憶のゾーニングはそれを支える情報のサーキュレーションによって完成する。ひとつは、ミュージアムの観衆に対する無条件のアクセスの許容。それは、実際の来館とオンラインでのアクセスの両方を意味する。もう一点は、ミュージアムの持つ膨大なデータベースから可能な限りのナラティヴを生成し続けること。周知のとおり、いかにルーブルやオルセーが巨大な美術館であろうと、その収蔵品に対して展示空間は限られている。ゆえに、収蔵品から異なるナラティヴを絶えず生成することが、個々の時代の記憶の多様性を可視化することにもつながるからだ。そして、このプロセスは、メディアとアーカイブの概念を架橋する。メディア理論家のレブ・マノビッチ★6が示唆しているように、「アーカイブ」と「メディア」は必ずしも異なる概念ではない。というのも、アーカイブからナラティヴを生成する「プロセス」に「メディア」という概念は宿るからである。
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★1──この視点の良著として以下。上山信一・稲葉郁子『ミュージアムが都市を再生する』(日本経済新聞社、2003)
★2──代表的なものとしては、Richard Sandell, Museums, Prejudice and the Reframing of Difference,
Routledge, 2006.
★3──暮沢剛巳『美術館の政治学』(青弓社、2007)
★4──マニュエル・カステル『都市・情報・グローバル経済』(青木書店、1999)
★5──伊藤俊治『トランス・シティ・ファイル』(INAX出版、1993)
★6──Rev Manovich, The Language of New Media, The MIT Press, 2001. |
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光岡寿郎
1978年生。博物館研究、メディア論。東京大学大学院/ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ在籍。論文=「ミュージアム・スタディーズにおけるメディア論の可能性」など。共訳=『言葉と建築──語彙体系としてのモダニズム』(鹿島出版会、2005)。 |
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2007年10月 |
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[ みつおか としろう ] |
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