前回までの連載では、ミュージアム建築について、商業主義、そして権威主義という二つの側面から考察を加えてみた。そこで今回は、日本では積極的に議論されることの少ないミュージアム内部のアーキテクチャ、つまりミュージアムのインテリアザインについて考えてみたい。
|
[非]-空間(non-space)としてのミュージアム
21世紀に入ると欧米のメディア研究者の注目を集めるようになった研究に、フランスの文化人類学者マルク・オジェ(Marc Augé)の『Non-Places』★1がある。この論文は、コミュニケーション技術、及び交通手段の飛躍的な発達の過程に現われたポストモダン社会のなかで、ある固有の領域とそこに根を張る民族、そして彼ら独自の文化に基礎を置く近代的な「場所」概念がどれほどの有効性を持ちうるのかという、文化人類学内部での方法論的な懐疑を契機としたものだった。ここで、オジェは現代においては、「[非]-空間(non-space)」が増加していると指摘する。基本的にオジェの「[非]-空間」という用語は、文化人類学における近代的な「場所」の対概念として、いくつかの[非]-場所的な特性を引き受けていくのだが、その[非]-場所的な感覚は、私たちの生活空間における大小のスクリーンの偏在★2やその空間を繰り返し行き来する身体によって強められると述べている。このような[非]-場所性を具えた空間の具体例として、オジェの指摘した空港やショッピングモールなどに加え、シネマコンプレックスなどが挙げられるだろう。特に私自身がその[非]-場所性を感じるのは、シネマコンプレックスだ。ロンドンで初めてODEONのシネコンに足を踏み入れたときの、お台場のシネコンを想起させたあの不思議な感覚はいまも思い起こすことができる。つまり、シネマコンプレックスはシネマコンプレックスという空間として完結しており、そこが東京の一部だとかロンドンの一部だとかいうヴァナキュラーな特性は宙吊りにされるのである。
このような導入を置いたのは、ミュージアムもまた[非]-空間(non-space)の一形式ではないかと感じることが多いからである。私たちはよく、海外に出かけると観光スポットの第一としてミュージアムを思い浮かべる。ロンドンであれば大英博物館、パリであればルーブル美術館と。ただそれは、必ずしも純粋にミュージアムが観光地として魅力的であるからではないのではないのか? むしろ、あたかもアメリカ人が(日本人も)海外に滞在していても変わらずマクドナルドで昼食をとるように、ミュージアムという空間が私たちに提供する経験が、世界中どこでも一定の均質さを保っているという安心感が観光客を動員するのではないか。そして、それはミュージアムという空間内部のデザインに多くを負っているのである。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
均質なミュージアムの
インテリアデザイン
左:スコットランド国立博物館
右:国立中央博物館(韓国) |
|
|
|
|
|
|
無臭化する展示デザイン
ただし、両者が大きく異なるのは、そもそもマクドナルドのミッションは世界中で同じ味を提供することであるのに対して(無論地域ごとに多少メニューは変化するのだが)、ミュージアムのミッションは多くの場合、その土地固有の歴史や文化を伝えることにある点だ。にも関わらず、海外のナショナルミュージアムを訪れると感じるのは、その「場所」感のなさである。コンテクストの相違には充分な注意が必要だが、それでもミュージアム建築の外観に比して、ミュージアム内部の展示デザインは「文化的に無臭化」★3されている。
この展示デザインの無臭化の要因は数多く挙げることができるし、その理由は各ミュージアム群によって異なる。例えば、美術館の場合には、それがMoMAで採用されたホワイトキューブスタイルが国際規格化したことにその多くを負っているという具合に。ただし、ここでは、レヴェルの異なる二つの要因を指摘しておきたい。ひとつは、結局のところ、ミュージアムは徹底的に近代の知の視覚化の装置であったという点だ。確かに、近代においてもミュージアムの展示デザインには、必ずしも読み書きができない「国民」に対して、創造された国民国家の文化的な優越性を視覚的に示すことが求められていた。しかし、もう一方でミュージアムの展示デザインに求められたものとは、ル・コルビュジエのムンダネウム構想や、ポール・オトレの国際十進分類法に投影されていたのと同様の、世界を普遍的な尺度のもとに分類するという近代的な知のあり方だったのである。つまり、「普遍的な基準による分類=その視覚的な反映たる展示デザインの形式の均質性」が一定程度担保されているからこそ、来館者はその展示の「内容」の独自性を理解することができたのである。個々の展示物との身体的な相互作用を含むこの均質な展示デザインに、観光客としての私たちは、ある種のマクドナルド的な安心を感じている。
もうひとつ、異なる水準で指摘しておきたいのは、展示デザイナーに対する関心の高まりである。日本で東京国立博物館の木下史青などが注目を集めるが、建築の外観・構造を担当する建築家に加え、ミュージアムの展示室のリニューアルに関しては、そのスペシャリストたる展示デザイナー(もしくは展示デザイン事務所)に近年関心が集まっている。例えば、ロンドンのサイエンスミュージアムの「In Future」を手がけたカッソン・マン(Casson Mann)や、ワシントンD.C.のニュージアム(Newseum)の展示を設計したラルフ・アッペルバウム・アソシエイツ(Ralph Appelbaum Associates)などが代表的である。高い評価を得た彼らは、現在数多くの展示デザインのプロジェクトを抱え、結果として同じようなテイストの空間が、多くのミュージアム内に設置されるようになったというわけである。 |
|
|
|
|
|
|
似通った展示物
左:自然史博物館(ロンドン)/右:国立台湾博物館 |
|
|
|
|
★1──Marc Augé, Non-Places : Introduction to an Anthropology of Supermodernity, Verso, 1995.
★2──例えば、電車の車内広告に小さなスクリーンが使われるようになったり、スーパーや家電店のポップが電子スクリーン化されている。携帯電話にいたっては、私たちはスクリーンを持ち運んでいる。この意味で、映画館やテレビに関わらず「映像が表示される媒体」としてのスクリーンは日常の生活空間のなかに浸透している。 ★3──岩渕功一「文化的無臭性、それともアジアンモダニティーの芳香?」(『変容するアジアと日本』[世織書房、1998]、所収) |
|
光岡寿郎
1978年生。博物館研究、メディア論。東京大学大学院/日本学術振興会特別研究員。論文=「ミュージアム・スタディーズにおけるメディア論の可能性」など。共訳=『言葉と建築──語彙体系としてのモダニズム』(鹿島出版会、2005)。 |
|
|
2008年11月 |
|
[ みつおか としろう ] |
|
|
|
|
|
ページTOP|artscapeTOP |
|
|