5月の連載では、90年代以降顕著なミュージアム建築のブランド化についてとりあげた。けれど一方で、ミュージアムが洗練された現代建築を必要とするようになったのは、なにも高度資本主義社会の側面からのみ説明されるわけでもないだろう。そこで、今回はミュージアムと儀礼という側面からミュージアム建築について考えてみたい。
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ミュージアムが与える真正さ/神聖さ
前回に引き続いて話を美術館に絞って進めたい。そもそも、芸術作品を芸術作品たらしめるものとは何か? この問いの答えはいろいろあろうが、ひとつ言えるのは、芸術作品を作品たらしめる構造そのものである。言い換えれば、作品を作品として理解しようとするから、それは芸術作品なのである。そして、芸術作品を成立させる外部環境として重要な役割を果たしてきたのが、作品を日常的な空間から隔離し芸術作品として鑑賞させる空間≒ミュージアムなのであり、ミュージアム建築そのものもまた作品の真正性/神聖性に寄与してきた。
例えば、19世紀後半にヨーロッパを中心に成立してきた美術館の多くが、新古典主義建築を採用している。新古典主義の建築は、ギリシャ・ローマ建築への歴史的参照を残しており、まさに神殿そのもののアウラを一面で帯びている。ヴァルター・ベンヤミンを引くまでもなく★1、ルネサンス以降宗教的な建築(神殿、大聖堂など)から引きはがされたことで、芸術作品は次第に美的な価値を前景化することになった。これは、芸術作品の価値の変化であると同時に、なによりヨーロッパ社会におけるキリスト教の世俗化との関連性において初めて理解される。ところが、まさに礼拝的な神秘性を失うことで、芸術作品の真正性は宙づりとなった。つまり、教会での礼拝のなかで感じた絵画への畏怖はどこへ消えてしまったのかと。そこで、いささか皮肉ではあるが、新古典主義のミュージアム≒神殿が改めて要請され、芸術作品は、そこで以前のような神殿のアトリビュート(付属物)ではなく★2、その御本尊として祀られることで芸術作品としての真正性/神聖性を保持したのである。
ホワイトキューブ──コンテクスト化された建築
続いて要請されたミュージアム建築が、ホワイトキューブである。20世紀前半に至るまで流行した新古典主義を援用したミュージアムが、その真正性を神殿が帯びる宗教性や歴史性といった美術に外在する文脈に負っていたのに比すれば、ホワイトキューブは、純粋に美術に奉仕する美術の神殿として要請されたと言えるだろう。MoMAに代表されるホワイトキューブの空間は、空間そのものとしてはただ純白の四角い部屋に過ぎない。しかし、一切の外在的なコンテクストを削ぎ落とした「ニュートラル」な空間であるがゆえに、ホワイトキューブはモダン・アートが求めた作品と鑑賞者との間の一対一の対峙を可能にしたのである。それは、結果としてジャンルの純粋性を求めたモダン・アートの自律性≒真正性を保証することになった。ただし、このニュートラルなホワイトキューブが同時代の芸術作品に対して与えた真正性は、両者を取り巻くディスコース(言説)に負うところも大きい。批評家のオドハーティも指摘したように★3、その真正性は、当時の美術批評がホワイトキューブをモダン・アートの文脈として言説化することに成功していたことと不可分だったと言えるだろう。 |
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左:新古典主義建築を採用したフリーデリチアヌム(カッセル)
右:ホワイトキューブを取り入れた現代建築である台北市立美術館(台北) |
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建築作品と対峙することで生じる真正さ
ところが、現在では新古典主義を模した美術館も、純粋なホワイトキューブを実現した美術館も必ずしも芸術作品の真正性を担保できているとは言えないだろう。無論、大英博物館という神殿は、エジプト・ギリシャの遺物の真正性を担保するに十分な荘厳さを持ち合わせているし、MoMAやTATEもまた、ホワイトキューブでなくばただの「モノ」になりかねないモダニズム以降の作品を聖別し続けている。けれど、80年代以降、宗教的な荘厳さ、歴史的正統性、自律的な芸術性といった普遍的なイデオロギーは批判にさらされ、その限界を露呈してきた。これは、90年代半ばにすでに磯崎新が「建築型という視点から第三世代美術館に一般解を求めるのは無理である」と喝破した事態に他ならない★4。故にひとつの考え方として、美術館建築がひとつの「芸術」作品であることが要請されているのではないか。つまり、そもそもひとつの芸術作品として屹立する美術館建築に展示されてもなおその輝きを失わないというその一点において、現在の芸術作品の真正性は担保されているのではないかと。ポスト・ホワイトキューブの美術館の特徴を表わす代名詞となる「サイト・スペシフィック」という用語もまた、実は美術館という建築と作品との間に生まれたこの素朴かつ個別な緊張関係を、あえてモダニズムの文脈につなぎとめるために援用されてきた用語として解釈することも可能だろう。
今回のテーマは、この紙幅で扱うには難しいものであった。例えば、もはや「芸術作品の真正性」自体が問いの対象になっているわけだし、一方で現在のアートは自身を囲いこむ建築物そのものを必要としなくなっているのも事実だ。加えて本来この問題は、どのようなかたちでミュージアムが「日常的な空間」から自身を切り取ってきたのかという問いと切り離すことはできないからである。そこで、最後にさらなる示唆を得るための一冊として、キャロル・ダンカンの"Civilizing Rituals: inside public art museums"を挙げて締めくくりとしたい★5。
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★1──ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」(『ベンヤミンコレクションI──近代の意味』[ちくま学芸文庫、1995]所収)
★2──教会建築を想定すればわかりやすいだろう。フレスコ画として教会に描かれた絵画の第一義はそのキリスト教の教義を効果的に伝えることであり、教会のファサードや柱に付与された彫刻はむしろ、教会建築の装飾として機能していたというわけである。
★3──Brian O'Doherty, Inside the White Cube: The Ideology of the Gallery Space, University of California Press, 1999.
★4──磯崎新『造物主義論──デミウルゴモルフィスム』(鹿島出版会、1996)
★5──Carol Duncan, Civilizing Rituals: inside public art museums, Routledge, 1995. |
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光岡寿郎
1978年生。博物館研究、メディア論。東京大学大学院/日本学術振興会特別研究員。論文=「ミュージアム・スタディーズにおけるメディア論の可能性」など。共訳=『言葉と建築──語彙体系としてのモダニズム』(鹿島出版会、2005)。 |
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2008年8月 |
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[ みつおか としろう ] |
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