|
|
メディアアートとミュージアムエデュケーション |
|
山口/山口情報芸術センター 阿部一直 |
|
山口情報芸術センター(YCAM)で5月末まで展示されていた、坂本龍一+高谷史郎「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」は、滞在制作された新作インスタレーション(委嘱作品)であるが、YCAMのラボも共同制作に参加しているので、新作として、どのようなシステムでこの作品が構成されるべきかというアイデアに対して、YCAMも少なからず貢献しているところが多い。この作品では、サウンド/映像のデータファイルを、9つのアウトプット(水槽スクリーン)へ同時並行的に出力しているが、データファイルやプログラムすべてをコンピュータHDにインストールしてコントロールすることで、毎回組み合わせやタイミングが異なる、フレーム単位の精緻な「サウンド/映像」の組み合わせが可能になっている。昨今では、当たり前のように思えるシステムだが、民製機のシステムでこれだけの情報量のリアルタイムマルチ制御となると、現在のスペック、容量によってようやく可能になったということがあり、この「LIFE」は、半年前では思うように実現できなかったというのが実情だ。その意味でもエッジな作品であるという訳である(この9月〜11月に東京オペラシティのNTT インターコミュニケーション・センターでこの作品が再公開されることが急遽決まったので、そのあたりの事情も頭の片隅に浮かべながら作品を見ていていただければと思う)。この作品を、メディアアートインスタレーションといってよいかわからないが、作品を構成するシステム・コンストラクション、情報処理、メディア技術史的な側面からの作品把握は、往々にしてブラックボックスになっており、一般の観客の知識や判断には入りづらい領域となってしまっている。
美術文化施設は、いつの間にかサバイバルの時代に突入し、普及カリキュラムとしてのミュージアム・エデュケーションは、サバイバルに欠かせない非常に重要な要素である。企画展示だけではなく、それらの展示素材を、いかに教育普及していくか、しかも活動内容だけでなく活動の広報性自体を外部にアピールすることは、非常に今日の特徴的な現象である。世界最大のアートフェアである、アート・バーゼルでも今回、「アート・キッズ」セクションが設置されるなど、アートマーケットにもその意識は浸透しつつあると言ってよい。ただしその水準は、イヤーフォンガイドのような外注型システムから、作家自身が立ち会うワークショップまで多様多岐で、統一性がないというのが現状だ。しかし積極的にとらえれば、現状がそうであればこそ、その専門学もニーズが大きくなっているのである。
そのなかでたとえば、ニューヨークMoMAで導入・展開されてきたVTC(ビジュアル・シンキング・カリキュラム)のようなメソッドが、全国各地で注目されつつあるのは事実で、川村記念美術館では「アメリア・アレナス──"mite! 見て!" あなたと話して、アートに近づく」展なども開催されている。アレナスのVTCの特徴をあげれば、美術作品に対峙するうえで、最終的な一義的な解答にたどり着くのを目標とせず、美術作品を見たままに思考の展開の素材とし、その過程にディスカッションをいれて、[作品⇔鑑賞者]といった単独者の思考の構図に、他者の存在を導入するディスカーシブな鑑賞教育ということが言えるだろう(従来のモノローグ的な鑑賞の構図への他者性のノイズの導入は重要だ)。今回の展覧会のタイトルに使用されたキーワード「mite」=Method for Interactive Teachingからもそれがわかるが、アレナスの方法は基本的に、イコノロジーの読み解きと脱却であって、タブロー作品などの画像(アイコン)をベースとした作品鑑賞解釈である。確かに、アート市場でのペインティング再興の勢いやドクメンタ12のオールドファッション化ぶりをみると、その方法の有効性はいまだ揺るぎない感覚も受けるが、それをさらに批評的に発展させる必要もあるだろう。
一般に、メディアアートとは何か、メディアアートはアートの正統系に入れるのか、といった問いが巷で聞かれることは事実だが、「作品を分かる、理解する」という一見分かりきっているようだが、実は解答至難な問いに対して、メディアアートにおける教育普及の取り組みを考える試みが、実は作品の全体像の理解とは本当の意味で何かを提起するうえで、別の視点を提示できるのではないかという話を、ここで少し続けてみよう。アレナスの方法論でわかるように、作品の把握とは、描かれた画像の意味や位置づけを追求し想像を働かせることである(彫刻においても彫刻という映像が主題となるだろう)。しかし、メディアアートは、基本的にプロセスベースな特徴を持つので、作品として判断されるのはアウトプットとしての表象される映像とか音だけではなく、それとは異なる存在体制に意識を向ける必要がある。アーティストの藤幡正樹の分類を元にすれば、メディアアートとは、[データベース⇔アルゴリズム⇔アウトプット(表象)⇔インターフェイス⇔鑑賞者(インタラクション)]となり、この全体のセリー(系)が「作品」といってもいいだろう。となると、表象の部分、アイコンの理解や展開だけを追うことが作品を把握したことになるのか、という問いが立ち上がってくることになる。これまでのメディアアート展示では、この表象の部分(あるいは表象の連鎖)だけを鑑賞の問題としているケースが多いが、それは従来型の美術展示方法や理解に、盲目的にとらわれている結果ではないかと、最近考え始めている。
ここで、最初のミュージアムエデュケーションの問題にもどれば、メディアアートでは、作品の理解や解体批評というのは、上記のようなプロセスの存在体制のセリー全体に、想像力と理解力を巡らすものでなければならない。しかもこの構図は、見ただけでも簡単でないことがわかるように、項目が複数化するだけでなく、他項間の関係性が複数化するので、リアルという一元的な要素が限りなく多数的なポッシブルな係数を生んで行く。こうした洞察を現場での取り組みに翻訳するためにYCAMでは現在、VTCの方法論をさらに独自に批判的に発展させることを念頭に入れながら、「LIFE」をはじめ、メディアアート作品のガイドツアー(応募制)のための方法論研究を行ない、その内容は、作品の規模やシステムの個性や特徴ごとに変更していく方針をとろうとしている。これらは、はなはだ未完のものではあるが、作品制作と同等といえるレベルで重要だし、取り組む価値がある視野を備えていると考えている。このことを、逆説的にアート一般にフィードバックさせるなら、従来のアイコン(の象徴性やメタファー)を基礎とする美術作品の理解メソッドそのものにも、新しい視界と教育要素を提供できるのではないだろうか。
美術史は、アイコンの意味的解析を優先することで(これも知識=視覚とされるヨーロッパ的な視覚優先イデオロギーの残影なのだろうが)、その技術史的な側面を、支持体といったような一意的な疎外概念の発明で単純化してきたが、技術史(情報技術史)を外しては、理解そのものが欠落行為になることを強調する必要があるだろう。支持体とは時間の集積のプラットフォームで多様体であり、実は物質ではないのだ(ストローブ=ユイレの映画「セザンヌ」[1989]では、タブローの意味的なアイコン[画像]だけでなく、物質としてのフレーム、さらに背後周囲の空間の壁や部屋まで[フィックスショットで]撮影していることは、甚だ興味深い。絵画とは画像でなく存在物であり、存在物の把握とはプロセス=情報の歴史である)。メディアアートはわからない、という言葉は、理解する方法論=メディアリテラシー(情報技術史)を持たない、というきわめてダイナミックな言葉であることを、理解してもらいたいと思う。 |
|
[あべ かずなお] |
|
|
|