同期せずに存在(共存)せよ!──複数化するアンサンブルズ |
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山口/阿部一直(山口情報芸術センター) |
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大友良英氏 in YCAM |
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以前から構想をあたためていた、大友良英によるインスタレーション展が、ついに山口情報芸術センターでオープンする。大友良英は、フリージャズを起点に活動を始めるが、それにとどまらず、即興演奏・ノイズミュージック・ロック・ポップス・現代音楽・電子音響・映画音楽など、ジャンル分けからの個性化は不可能と言っていいほど、隔てのない広範囲のフィールドをカバーし、それを大胆に横断することで、実験的、即物的「音」そのものの追究、そして創造を行なってきたミュージシャンである。テクノミュージックにいわゆる音響派といわれる即物的サウンド要素、音の存在論を導入したのも大友の功績であるし、大友の組織するグループミュージックは、ジョン・ケージからジョン・ゾーンへの流れである、演奏者をインスタレーティブなシステムとして扱うパフォーマンスの後継としても注目される。大友の共演者をリストアップすればわかることだが、そのあまりに膨大な範囲の面々から伺い知れることは、バンドの原義的なオープンシステムのバンディングとしての音楽のあり方にすべてを解体し、自由な接合を実践するスタイルの徹底と言えるかもしれない。近年では、飴屋法水が久方ぶりに活動を再開した、2005年の「バ ング ント」展(=飴屋法水が24日間暗室となった狭いキューブに籠って絶食し、外界との連絡を絶つパフォーマンスを中心とした展示)において、椹木野衣とともに参加したコラボレーションが、記憶に新しい。
今回の、「大友良英 / ENSEMBLES展」は、ヴィジュアル的空間要素も含めて、本格的にインスタレーションに取り組んだ初の大規模な展覧会である。ここでは、1〜2作品の展示では、大友の抱いている多様性に対するラディカリズムが伝わらないのではないか、というキュレーティングとしての期待から、無謀ではあるが一気に4作品の新作をオファーすることにした。それらは、通底するテーマは同根だが、まったく異なった性格とアプローチによる4作品で、図書館スペースも含めたYCAM全館スペースを最大限利用するという、壮大な構想のプロジェクトである。もちろんヴィジュアルディレクションには、何人かの美術作家が参加し、作品によっては、多数のミュージシャン、一般参加のボランティアも含めたオープンシステムのコラボレーティブプロジェクトというスタイルがとられている。
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館内公共スペースのホワイエおよび大階段、2Fギャラリーを、廃物となったポータブルレコードプレーヤー100台以上で覆い尽くすインスタレーション「without records」について。タイトルのとおり、レコードのない状態で、ターンテーブルに針を置き、機材(=ターンテーブル)自体の擦れ合うノイズ、またはハウリングのフィードバックとして音の発生装置として使用するものである。Recordとは、レコード盤(LP、EP)であると同時に、刻印された記録・記憶といった二重の意味を指している。つまり、記録のためのメディア=レコードが喪失したとしても、機材自体(ここでは支持体として透明の存在だったものがオブジェクトとして姿を現わし始める)の持つ、地層のように凝着した空間的、時間的記録・記憶は消し去り得ないのではないか、それこそを掘削してみせよう、といった問いが投げかけられていることになる。さらにこの支持体には、ユーザーの生活世界の痕跡がしみ込んでいるだけでなく、高度成長期の大量生産性とプロダクトとしての個別の技術開発というアンビバレンツな技術情報と職人技巧が多大に集積しているオブジェクトなのである。
この「without records」は、完全な新作ではなく、まず京都のshin-biギャラリーにおいて2005年7〜8月に、最初の試作として発表されている(大友のインスタレーションとしてはこれが初公開ではないかと思われる)。このアイディアを受けて、2007年1月にせんだいメディアテークにおいて、仙台在住のアーティスト青山泰知とのコラボレーションで、大きな規模にスケールアップさせた展示が公開された。今回のYCAM展では、同じく青山との共作になるが、まずポータブルレコードプレーヤーの数量が倍加しただけでなく、幾何学的形態に設置された仙台での展示方針とは大きく変えて、平面レイアウトとしてはカオティックな形状をとり、プレーヤーの高低にも大きく位置的変化をつけた設置を行なっている。また1列数台ごとに同時オンオフといった仙台でのシステムを大幅に作り替え、1台ごとの細かいオンオフを、しかも可聴変化が現われる限界の20fpsまでコントロール可能なシステムに開発を加えた。
さらに各々のプレーヤーは、情報端末としてはリゾーム状に情報連鎖しているので、全体の構成を、さまざまな外部のプログラムに適応させることもできるように進化させている。ヴィジュアルマッピングデータから自由にコントロールも可能なので、たとえば、有名なクレイグ・レイノルズの、つねに群が形状をかえながら動き回る複雑系のヴォイドプログラムをこのシステムにインストールし、それに対応した場所のあるカテゴリーの音の動きだけを走らせることもできるのである。こうなると、このインスタレーション全体が生態系と空間的楽器を両立したようなメディアとして機能する、極めて複雑多岐な多様性を実現できるまで可能性が広がってくる。厳密なコンポジションもここでは可能であるし、自由なプログラムを多層的に導入することもできる。
ポータブルプレイヤー1個1個は、機種、年代、壊れ度合いなどの特性が異なるうえに、今回全国各地から制作参加していただいたボランティアスタッフ(仙台、東京、名古屋、奈良、神戸、広島、下関、山口、防府、北九州、福岡、長崎から34名の参加)が、それぞれを個性的に変形させた加工工作によって、非常に個別的なノイズが現われる。大友はそれらを1台ごとにサウンドチェックし、ホワイトノイズ系、アコーステック系、フィードバックなど9つのカテゴリーに分類し、それを空間的に散布させ、部分的かつ全体像的な双方の層から、コンポジションを進めていく。しかし、最終形の音の組み合わせはプログラムが選択するという、オープンなシステムだ。京都、仙台、山口と大きな触れ幅で変遷し、隣接的かつ跳躍的に展開するプロセスが、バックボーンとしてのメディア史へ言及しながら生成変化していくアート(これをメディアアートというべきかどうかだが)を形成していると表現してもいい。しかも「without records」は、オールド&ニュー・メディアアートの典型だ。現在原稿執筆時点で制作中だが、この展示における最終形(この後も変化する可能性があるので現段階でのリアリゼーション)がどのようになるのか、この目で視る(聴く)のが楽しみであるとしかいいようがない。 |
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without records展示風景
提供=山口情報芸術センター |
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この作品の他に、スタジオBでは、「quartets」と称した完全新作となるインスタレーションをベネディクト・ドリュー、平川紀道、木村友紀の3人の造形作家とのコラボレーションで制作。ここには収録されサウンドパフォーマンスの参加として大友良英、カヒミ・カリィ、ジム・オルーク、石川高、一楽儀光、アクセル・ドゥナー、マーティン・ブランドルマイヤー、Sachiko Mが加わる。この作品は2重の四重奏=8名の演奏者が、じつはすべてのパフォーマンスを各自がソロで何テイクも行ない、データ化して、音と演奏風景のシルエット映像を、無人から多重奏まで、情報上でのみ重ねてアンサンブルとしてリアリゼーションしていくというインスタレーションだ。じつにシンプルかつ有効な構想だが、現在の情報処理速度や能力があって初めてリアルタイムで実現可能になったプランといえるだろう。しかも、テイクはあまりに多重にあるので(1人の演奏者が、4面に現われることもあれば、1面に同時に別テイクの4体を重ねることもできる)、表現の可能性は無尽蔵と言っていいほどになる。演奏風景と対面する4面のスクリーンには、ドリューの制作した映像で、個別の演奏音にそれぞれ共振するさまざまな物質のテクスチャーが、大画面でプロジェクションされる。表現主義を思わせる影の抑揚と物質平面の肌理の粒子。その中間に漂い浸透するのは、音=振動となる。瞬間、足が竦んで吸引されそうな気配が支配しているのは、単独の音が複数化し、変成されようとしているからである。情報化とライヴテイクの即興の共存という大友らしいベクトルの注視の仕方で、しかもアンヴィバレンツに要素を混交させる、まさに大友ならではの作品となるだろう。
YCAM内にある巨大な図書館空間を使った大友+Sachiko MによるユニットFilamentによる新作「filaments」も同時公開である(閉館後にブリッジのみから鑑賞)。また8月23日のB会期からスタートの新作「orchestras」では、美術作家の高嶺格とのコラボレーションによって、スタジオAの大規模な空間を全面的に使ったインスタレーションとなる。これは、多数の廃材と光を使った作品となる予定で、観客は作品内を地下空間も含めて徘徊するような多面的な形式になるだろう。プロ、アマ総勢100名以上からのサウンドソースの提供によって、インスタレーション内で光と音が多層な質感において交錯する。こちらも目を離すことができない。
大友の今回の4作品に共通するのは、同期(シンクロ)してはいけない、といったきわめてシンプルなテーゼだけである。なにかをしなければいけないといった制限はなにもなく自由だが、同期せずに存在(共存)せよ、というラディカルなポリティクスだけが強靭に響きわたっているのである。アンサンブルは、破綻を本来からプログラムとして内包または外包する複数のアンサンブルズでなければならないのだ。 |
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