artscape
artscape English site
プライバシーステートメント
学芸員レポート
青森/日沼禎子|東京/住友文彦|山口/阿部一直熊本/坂本顕子
Outlet──〈非作品〉によるブリコラージュ@銀座芸術研究所
第16回シドニー・ビエンナーレ
東京/住友文彦(東京都現代美術館
 銀座7丁目の洋菓子屋「ウエスト」の2階に「銀座芸術研究所」という名前のスペースができてから、気になって何度か足を運んでいるのだが、あの小さなスペースがまさに小宇宙のように広がるような感覚をおぼえた展示が先日行なわれていた。芸術人類学を専門にする中島智氏によって企画された展覧会である。
袴田京太朗の展示風景
袴田京太朗の展示風景
提供:中島智
 参加していたのは、中原浩大、小川信治、袴田京太朗というよく知られた作家3人で、どうやってあの空間に彼らの「作品」がおさまるのか不思議でならなかった。並べられていたのは、近くに寄ってじっくり眺めるような小さなスケッチブックや写真、オブジェで、距離をおいて眺めるということは到底できないような密度の高い空間があった。簡単に説明すると、中原はスケッチブックを自身が描いたものと子供が描いたものも一緒に並べていた。小川は素材として使用する写真に少し手を加えたもの、そして袴田はアトリエで眼の届くところに置いているさまざまなオブジェを展示していたのである。それぞれの作家が企画コンセプトを解釈して展示するものを考えたようである。
 「美術作品」は、発想があって、さらに構想が練られ、かたちをつくりだしていくまでの試作などを経て、いろいろなものを削ぎ落としながら行き着く先だとも言える。それらはもしかしたら作品をつくった跡に、残余として残るかもしれない。しかし、「作品」にならなかった思考、かたち、素材が、豊かな想像の世界を背後に感じ取らせることがある。それを中島は「徴候」と呼ぶ。それがこうしていくつも並べられたときに、星座のようにしてつくりだされるイメージが持つ自由さが立ち上がってくるかのように思えたのだ。私の眼は、描かれた線、紙の染みや切れ端といった細部、あるいは可読不能なかたちの曲線をただ追うだけなのに、もしかしたら、それが「作品」と呼ばれないからこそ、ただ眼がモノを追い続ける行為が悦びのような経験になっていたのだろうか。
 何が選ばれ、何が選ばれなかったのか。そのふたつの間にある違いは何なのか。表現をめぐっていろいろな考えを刺激する展覧会だった。

シドニー・ビエンナーレ
 さて、もうひとつは第16回目を迎えたシドニー・ビエンナーレ。あまり海外の展覧会をとりあげるのは実際に見られない読者も多いので避けようと思っていたのだが、記憶が鮮明でかつ日本の美術シーンのことも考えてしまったので、あえて取り上げさせていただくことにした。
 アーティスティック・ディレクターはキャロリン・クリストフ=ヴァカルギエフで、ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館、シドニー現代美術館ほか、市内各所とコッカトゥ島を会場にしていて、居合わせた日本の美術関係者とこれを見て回って話をする機会があった。テーマは「Revolutions - Forms That Turn」。「革命」、あるいは「revolve(回転)」と言えばよいか。ロシア・アヴァンギャルドやギー・ドゥボールなど歴史的な作品やドキュメントも数多く展示された。日本絡みでは、田中敦子、村上三郎、オノ・ヨーコ、そして映像の倉重迅、アトリエ・ワンが参加している。知らない新しい作家や大作があるわけではなく、全体的に地味な印象はまぬがれない。市場との距離をとるかのように派手さがないのは、ここ最近の国際展の潮流でさえある。もちろん新作もあり、テーマに反応してつくられた作品はとくに眼を惹いた。トレーシー・モファットは古今東西の階級差を描き出した映画のシーンを繋ぎ合わせた映像で注目を集めていたし、ループ構造の映像作品で知られるロドニー・グラハムはなんと絵画作品を展示していた。ポストモダンの典型のような作家が、ピカソらを思わせるモダン絵画をあえて模倣する身ぶりを示したのだ。しかし、テーマを介したキュレーターと作家の間の応答など一般の観客にとってはどうでもいいことだろう。むしろ、Revolutionという時代錯誤的なテーマを「価値の転倒」として読み込み、かなり徹底的に作品の選択を行なっているのが明白だった。それは、すでに死んだはずの言葉にあえて生命を注ぎ込もうとするような、「近代」の亡霊に何度も出会うような経験でもあった。何度となく、隔てられた時間と空間を行ったりきたりするような、そして彼女が言うような美学的なパースペクティヴの転換を、エリオ・オイティシカやマイク・パーといった作家の作品に託しているのである。
 ただ、日本語の「革命」のほうに結び付けられる作品には、そこに全盛期の暴力や階級社会をみいだす以上の再解釈にまでは至らずに、たいがいは凡庸で解釈の新しさが刺激されるようなものでもなく、教条的に感じられる部分もあったと言える。
 それでもいっぽうで、田中敦子、ラファエル・ソト、ヨーゼフ・ボイス、マイケル・スノー、フィシェリ&ヴァイスの作品を並べられて見ることで、この「価値の転倒」が、世界をただ眺めるのではなく、身体的な経験を通して世界に関与することをうながす、20世紀芸術の文脈として結晶していたのは見事というしかなかった。もちろん、これは一般の鑑賞者にどれだけ受け入れられるかは疑問が残るが、原美術館やテイトモダンの展示で多くの一般鑑賞者に関心を持たれたオラファー・エリアソンのような作家に、文脈が与えられることの重要さは大きいだろう。彼の表現は、ただ綺麗、面白い、というのではない眺められかたがあることが雄弁に語られていたように思える。
 日本の美術関係者との会話で気になったのは、この文脈化の作業が一般の評判を落とす可能性もあるという指摘だ。確かに、作家は個人の表現として試みているに違いなく、外から与えられる美術の文脈に眉をひそめる人は多い。だが、その試みにどういった積み重ねがあるのか、個々の表現はマイナーでもそれが集められるときに発揮するパワーを感じとらせるのはとても重要なことではないか。そして、もちろんそれを専門家と言われる人が行なわなければならないが、日本ではそれが実践される機会が少なく、むしろ減退しているとさえ感じられる。美術館の市場化を理由に、ポピュラーな展覧会が溢れている。しかし、オーストラリアでも市場化はすでに導入済みでありながら、こうした展覧会を可能にし、さらに多くの展覧会は無料である。シドニー現代美術館を例にとれば、大手電気通信会社が大口協賛者となりそれが実現している。多くの美術館が多様な資金提供のためのプログラムを持ち、努力をしている。お金のある人は歴史として積み重ねられるものだからこそ文化に資金を還元していくのであり、まさにこうした文脈化の作業こそ求められている気がする。
 展示による文脈化づくりの評判が悪いのは、それが作品の見方を狭め、見る側の自由度を奪ってしまうようなときである。いわゆる教科書的な歴史の陳列でもなければ、団塊の世代が学生運動を振り返る過去への郷愁でもなく、むしろ手垢のついた言葉に与えられてきた見方を複数化するような文脈化の作業であれば、楽しめる人たちもきっと多いのではないだろうか。

●「Outlet──非作品によるブリコラージュ」
会期:5月5日(月)〜5月18日(日)
会場:ギャラリー銀座芸術研究所
東京都中央区銀座7-3-6 洋菓子ウエスト2F/Tel.03-5537-5421
 
Biennale of Sydney 2008
会期:2008年6月18日(水)〜9月7日(日)

[すみとも ふみひこ]
青森/日沼禎子|東京/住友文彦|山口/阿部一直熊本/坂本顕子
ページTOPartscapeTOP