Exhibition as media(メディアとしての展覧会)/八つの課題/「I meet …」
国立国際美術館開館30周年記念シンポジウム『未完の過去──この30年の美術』 |
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大阪/中井康之(国立国際美術館) |
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11月に期せずして「コラボレーション」というキーワードを思い起こさせる展覧会が続けて開催された。それぞれの展覧会が特に「コラボレーション」ということを前提として企画されたものではなかったことが、逆に、作品制作に於ける「共同制作」、逆の視点で言えば、作者の「オリジナリティ」という近代美術の神話を改めて考えさせてくれるようなきっかけを与えてくれた。
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本来であれば時系列で紹介するのが筋であろうが、前記したようなことを考えさせたのは、神戸アートビレッジセンターにおける「Exhibition as media(メディアとしての展覧会)」であったので、まずその展覧会を取り上げたい。この展覧会は、新人作家をデヴューさせようと同機関で10年間続けられてきた「神戸アートアニュアル」を受けて、その次のステップを考慮した取り組みである。「神戸アートアニュアル」は、作家選択に関して、シニア世代のアーティストに委託するなど、特色のある手法を取ることによって他の若手作家展とは異なる姿勢を示していた。また、これは途中から始まったことと記憶しているが、展覧会の実務に関してもインターンを募ることによってキュレーターの養成も兼ねるなど意欲的な取り組みを行なってきた。そのような仕組みは、artscapeの本コーナーの前任者でもある木ノ下智恵子が中心となって実施されてきたものであろう。
さて、今回の「Exhibition as media」は、その「神戸アートアニュアル」の出品作家で、現在活躍を続けている5名の作家(金氏徹平、喜多順子、中西信洋、八木良太、吉田彩子)が、展覧会の企画立案から実施までを行なうということを基本に、「『神戸アートアニュアル』のセカンドステージ」(「Exhibition as media」のチラシより)として開催されたものであるらしい。要するに、他者の表現を視野に入れることによって第三者的な視点で自分の表現をあらためて思考することを要求した訳である。それは、表現ということをメタレベルで捉えることによって自己表現のなかに還元するということにも繋がるものであろう。
具体的には、上記の作家がミーティングを行なうなかで、それぞれの作家が「双方にアーティストとして又は鑑賞者としてこの展覧会で」行なって欲しいことを要求する、という極めて原則的な手法が取られていたようだ。そしてそのような具体的な作業が繰り返されるなかで展覧会のタイトルとなっている「Exhibition as media」ということの意味性が、それぞれの作家のレヴェルで了解され、「展覧会」という表現と、自己表現との関係性を問うことになったと思われる。
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ギャラリー展示風景 (喜多順子、吉田彩子、金氏徹平、八木良太) |
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図版で示した作品は、その一例であるが、金氏のテーブルの山に石膏をかけた作品に、喜多のドローイングを吉田がアニメーション化した映像が投影されている。そのアニメーションのイメージは、金氏の作品を雪山に見立てたものであり、またさらには作家同士のミーティングのなかで、中西が「コヤニスカッティ」のような特異な映像作品(メタ映像的なとでも形容できるであろうか)を例示したことが反映されているかもしれない。また、図版の右側に僅かに写っている冷蔵庫とプレーヤーもこの作品群のなかでは重要な役割を担っている。説明によれば、喜多がコレクションしている「ムーンリバー」のさまざまなヴァージョン(ジャズ、ボサノバ、ロック、ラテン……)のレコードから、八木が「氷のレコード」を作るための型を作ったらしい。そして冷蔵庫の中には、その型から作られた「氷のレコード」が入っている。それを冷蔵庫から取りだしプレーヤーにかける、という仕組みになっている。ノイジーな再生音がよい雰囲気を醸し出していた。さらには、「氷のレコード」という一回性を強調した透明なオブジェが、キッチュな感覚を凌駕して、あるロマンチシズムを感じさせる。以上のような作家同士の意図が、それぞれの意識の中に浸透されることによって、金氏の作品に対して、映像や音楽という本質的には意図しない要素が絡んできても、それも、もしかしたら金氏の作品に潜んでいたことをも予感させるような空間を作り上げていた。
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「八つの課題」展示風景
左=日下部一司《あちら側とこちら側》 右=今村泉《ウラならび》 |
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ほぼ同時期に、大阪のギャラリーヤマグチで開催された「八つの課題」は、三嶽伊沙、今村源、井上明彦、日下部一司という中堅の作家たちが、それぞれに課題を出して、それに応える、という緩やかなグループ展で、先の「Exhibition as media」のような共同作業的作品の試みが為されたわけではない。しかしながら、自らのスタイルをある意味では保持している彼らが、他者からテーマを与えられて制作を行なう、というのは想像する以上に負荷がかかる行為であったろう。しかも、その同じ課題によって制作された作品を、最終的には同じ空間に設置することを前提としていた訳であるからなおさらであろう。であるが故に、ギャラリーヤマグチの展示は前述したような意味でコラボレートされた作品が在るわけではないが、それらの作品はそれぞれが無関係に存在している訳でもない、という意味に於いて相対的にこの展示作品を考えることになった。
例えば、三嶽が最初に出した「映像」という課題はとてもニュートラルな感じであるが、日下部から「器」という課題が出されれば、やはり身構えてしまうだろう。今村の「手入れ」という課題も同様である。そして、井上の「影」という課題は、やはり研究者としての資質も見え隠れする。おそらく、想像以上に、この他者の「言葉」と格闘したと思われる作品が、基本的には同じ空間に配置されたのである。普通に考えればこの配置がコラボレーションということになるのだろうが、それぞれが、制作する自己の中に突然入り込んできた他者の対話が、その核にあることは言うまでもないだろう。
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今村源(奥と手前)と森太三(上部)の作品 |
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もうひとつの「I meet …」は、海岸通ギャラリー・CASO「八つの課題」展示風景で開催されていた。稲垣智子と植松琢麿、今村源と森太三、双子の未亡人(荻野ちよ/佐伯有香)と前田朋子という、二組ずつのコラボレーションで、特に、今村源と森太三のコラボレーションが興味深かった。この展覧会は、前述の二者とは異なりそれぞれが個の表現を繰り広げているのだが、森は今村の作品が生み出す空間の広がりを、物理的に覆うというナイーヴな作品を作っていたのだ。そのような目的を持ったことによって、森の作品はよい結果を生んでいた。
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さて、冒頭部で「近代美術の神話」云々、と口を滑らせてしまったのは、「八つの課題」に出品していた井上と、後日、話を交わす機会があり、スタイルを持ってしまったが作家が、このように他者の行為を受け入れるようなかたちで制作を行なうということはあまりないのでは、という話をしたことに寄っている。その際には、日本人と欧米人というよくありがちな比較をしてしまったが、そのような結論を導き出すにはサンプルが十分ではなく余りにも恣意的であると思うが、しかしながら制作行為というものが、どのようなメカニズムで成り立っていくのか、ということを前提としたときに、ポストモダニティの問題ばかりではなく、このようなさまざまなかたちによる他者の介在ということも考慮されなければならないだろう。
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