本展は、1966年から2005年にかけての日曜日に制作された41点の日付絵画、《百万年》過去篇(1970-71)・未来篇(1980)、電報「I
Am Still Alive」、ドローイング《100年間の日曜日》(1964)からなる。現在に至るまで継続されているか、もしくは現在がそこに含まれる作品ばかりが選ばれている。
「意識、瞑想、丘の上の目撃者」という不思議なタイトルは、河原の作品の新たな開示を目論んでいるようである。これまでの展覧会タイトルは、「連続と不連続」(1980)、「反復と対立」(1989)、「出現と消滅」(1995)、「全体と部分」(1996)、「水平と垂直」(2000)など、対立する言葉を併置する二項対立的なものが多かった。確かに、相異なる二つの極の間で物事は揺れ動き、生起する。二つの焦点を持つ卵の中で生命が育まれるように。しかし、そこにさらにもう一つの焦点が加わり新たな力が生じると、これまでの規則性は壊れ、さらに複雑で深奥な空間が生まれることになる。
もちろんこれまでも、河原の作品は時間や空間についての様々な姿を浮かび上がらせ、多様な解釈を生み出すものであった。なにが正しいという答えはなく、作品に向かい合う個々人の省察が重ねられていく。それらは実に多様で豊かである。「意識」展(ディジョン、1990)では、河原の日付絵画とジャコメッティの彫刻が並置され、絵画と立体、異なる時間の密なる交差を示した。「反復と対立」では、日付絵画と同じ年の他のアーティストによる作品1点を組み合わせ、時間や歴史の流れと日付絵画を対置した。これらの展覧会では、歴史や時間を相対化した中での一点、つまりある尺度がもたらされている。しかし本展では、そうした尺度を持つことなく、河原の作品に向かい合わなければならない。尺度があるとしても、「100万年」は人間が把握するにはあまりに長大である。
河原温の代表作「日付絵画」は、画面に描かれた白い日付を媒介として、背後の見えない世界を浮かび上がらせる。それは時間であったり空間であったり、把握できない「なにか」である(日付絵画の初期にモSomethingモと描かれた作品がある)。描かれた白い日付は、星の光が宇宙は何もない闇ではなく、広大な広がりであることを知らせるように、捉えようのない「なにか」を現前させるための触媒のようである。それは美や文脈といった感覚や思考を介さず、瞬時にして包括的なことを理解させる、禅的な認識のプロセスにも似ている(瞑想)。それは茫漠たる時間の中で、過去でも未来でもない「今此処」を認識する瞬間である。ここに鑑者の「意識」は浮かび上がるのではないだろうか。そもそもその日の内に描き上げなければ破棄されてしまう日付絵画は、まさに現在の絵画であり、全体で一つの作品といえる日付絵画は現在の連なりである。
さて、「丘の上の目撃者」とは一体どういう意味であろう。原タイトルでは、モwatcher on the hillsモとなっている。つまり複数の丘の上に同一の目撃者が同時に立っているといったイメージである。それは小さな展示室の中で、宇宙にまで至る膨大な空間に思考を巡らし、しかしそれらは脳内の微小な世界で行われているという、鑑賞者の入れ子状になった視点なのかもしれないなどと思う。しかし自身は決して姿を見せず、公的な発言を行わない河原の作品のことであるから、真相はわからない。その答えは目撃者の立つ丘の数ほどあるのかもしれない。