「九州派再訪-1」/平岡昌也展/遠山裕崇新作展/「Navinじゃない?」展 |
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福岡/福岡市美術館 山口洋三 |
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年初の私の記事で、中ハシ克シゲの「震電プロジェクト」について少し紹介したが、このたびホームページが完成。また、さる3月5日に、中ハシ自身による「説明会」も行なわれた。このレポートもHPにあげておりますので、是非ご覧ください。
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上:ペルソナ展(1956) 旧福岡県庁舎壁面での街頭展
下:桜井孝身「リンチ」(1958)福岡市美術館蔵 |
ただ今、福岡市美術館常設展示室(企画展示室)で5月23日より開催予定の「九州派再訪-1」展を準備している。来年で結成50年を迎えるため、これを機に九州唯一にして最後の前衛運動であった九州派の活動を何回かにわけて展示する予定で、併せて作家への再度のインタビュー調査も行なっている。
九州派については、今から18年前の1988年(まだ昭和だった)、当時当館学芸員であった黒田雷児氏(現・アジア美術館学芸課長)の手で丹念な調査に基づいた展覧会が行なわれ、詳細な年譜を掲載した図録も刊行されている。前衛研究者には忘れられない展覧会のひとつであったはずである(私は当然ながら見ていません、ていうかまだ大学にも入ってないが……)。だから筆者が付け加えたりすることは少なく、ただできることは九州派の存在を普及することだと自覚し、これまでも何度か折りに触れ九州派の作品を常設展示してきた。前回は2001年だったが、この間にも石橋泰幸さんや大山右一さんをはじめ幾人かの方が亡くなった。私は結局あえずじまいだった作家の方が何人もいらっしゃり、是非お話をお聞きしたかったと悔やまれてならない。
今回は、結成前後に焦点を当てようとしている。事実上の九州派結成は1957年の「グループQ18人展」とされるが、無論布石はあって、それが1956年、旧福岡県庁外壁を使った野外展「ペルソナ展」である。桜井孝身、オチオサム、石橋泰幸といった後の九州派の中核作家となる3人に、黒木耀治を加えた4人が仕掛けた自主独立の展覧会だった。この野外展のきっかけを作ったのが桜井とオチの出会いである。1955年の二科展に入選し、岡本太郎に激賞されたオチを、グループ結成のために勧誘したのが桜井。オチは翌年には落選し、以後二科展には出してないのだから、この事実は一瞬の火花のような奇跡である。
この2人に、同じく二科展に出品していた石橋、黒木が加わる。黒木は寺田健一郎とともに福岡二科会の頭領、伊藤研之の高弟と目されていたが、そろって道を誤り(笑)、桜井の動きに巻き込まれている。2人ともやがて九州派の本流からは離れることにはなるものの、その後二科会もやめてしまう。普通に二科展出品を続けていれば、それなりの画壇的地位は確保できたかもしれないのに、ましてや地方都市での画家への道といえば、二科展や独立展に入選を繰り返して会員となる以外にないというのに、どうしてこの時、穏健な作風の2人が、桜井とオチら、いわば「はみ出し者」の動きに魅力を感じ、一時的にせよ行動を共にしたのだろうか。オチと桜井の起こした火花のまぶしさは、現在の私たちからはもう想像もつかない出来事なのだろうか。
九州派は作品をあまり残さなかったので、福岡で後続の作家に与えたものは少ないと言われるが、確かに作品的に見てその影響を見て取ることは難しい。今の福岡で支配的なのは、九州派の土俗性、地方性を中和したような、むしろ都会的でセンスのよい、よい意味でも悪い意味でも「国際的」な意匠を身にまとった作品である。今まさか「九州らしさ、福岡らしさ」を東京など他の都市に向かってアピールするなどナンセンスであろう。また通信や移動が容易になったために、福岡から直接どこか別の都市、国のネットワークに接続することもできるようになったから、なにもローカル性にこだわることは(少なくとも作品の上では)必要ないのだ。
しかし、日本における地方と東京のギャップ、そして国際的な美術シーンと日本、それも福岡のシーンとの乖離は、縮まるどころか、むしろ九州派の頃とあまり変わらないのではないかと思うときがある。メールやインターネットなどといった便利なツールが出てきたせいで、なんとなく「差がなくなった」と錯覚しがちなのだが、相変わらず発信される情報は東京に集中している事実は厳然としてある。東京近郊に住む作家Aと福岡に住む作家Bが、ほぼ互角の実力を持っているか、あるいはBがやや上回るとした場合、人はAを選択するものなのである(選択権が福岡側にある場合は、これが逆転するが、そういう機会は滅多にない)。
つまりなにがいいたいかというと、福岡も含めて地方在住の作家は、見えにくくなるこのギャップ、乖離にもう少し敏感になっておいたほうがいい、ということである。九州派の頃は、このギャップは埋めがたい溝として、ある意味可視的なものとして実感できたはずである(たとえば当時、博多ー東京間は普通急行電車で20時間以上かかった!)。ギャップを意識しない限り、世界の中心は「自分が住むところ」である。だから錯覚がおきる。福岡での評価(?)が万人の評価になる。これなら、公募団体がまだ権威を持ち、東京を中心に地方組織を擁し、画家を組織化していた50年前と変わるところがないどころか、状況が見えにくくなった分そこを突破する気概も意欲も無効化されてしまう点で50年前より悪化しているのではないか。
えーっと、普通に展覧会を紹介すればいいんですけど(苦笑)、九州派のことを書いたばっかりに止まらなくなってしまった。
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上:平岡昌也《うんう 〜Touch & Cover ■〜》
下:平岡昌也
《→SOLO EXHIBITION part.5》 |
まず3号倉庫で発表した平岡昌也(3号倉庫については以前に川浪千鶴さんが紹介されているのでバックナンバーを見てください)。彼の作品は折に触れ見てきたが、抑制された色調や技法は上品に見える反面、あまりにおとなしすぎで今後の展開はどうなるのかやや不安ではあった。3月の個展では、劇的に変貌を遂げ、特に絵画制作のプロセスにかなり自覚的な取り組みをするようになったと見受けられた。カンバスとは異なった布、それも裁断せず、木枠をはみ出て壁にひろがる支持体に、透明メディウムを筆跡が残るようにのせ、その上を絵の具で覆う、という手法である。透明メディウムに絵の具を塗り重ねる前の作品、そして制作中のメモを、桐箱に入れて平置きで重ねて展示するなど、徹底的にプロセスにこだわった内容である。一端痕跡をとどめたメディウムを絵の具で隠してしまうのだから、これは筆跡の偽装のようなものである。しかしそのトリックが目標なのではなく、そこに潜むプロセス、というか、層の重なり、多層性の絵画への実験と見るべきであろうか。支持体の相対化もおもしろい。現在の絵画制作はこのプロセスの研究は不可避であるように思える。 |
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上:遠山裕崇《ディプティック(抽象絵画)》
下:遠山裕崇《バラ(具象絵画)》 |
実験的といえば、IAFShop*の遠山裕崇の新作も小さなものながら力作。全く異なる2つの絵画。ひとつは、金色単色の絵画。塗りにはムラがあり、また支持体であるカンバスは無数に分断されたものが再接着されたもの。目地も異なるから複数の布地を切り貼りしたものだろう。もうひとつは、小さな花の絵。おそらく写真を元に作画したのだろうが、画面は完全なフラット仕上げではなく、光沢仕上げにわずかな筆跡も見られる。ぱっと見はちょっとリヒターぽいか。下端の黒帯がなにか意味ありげだ。4月19日に「地元作家研究」という対談も開かれていたので、ぜひ聞きに行きたかったが所用あっていけなかった。彼の作品は平岡昌也のそれよりコンセプチュアルな側面が強いように思われる一方、作品を見ただけで容易に作家の意図を読ませない工夫がされているように見えた。 |
さて最後にもう1人、ナウィン・ラワンチャイクンの「Navinじゃない?」展(展覧会かな?)。オチと桜井の出会いが福岡美術7大奇跡(7つもあったかなあ)のひとつとするなら、1994年のアジア美術展とこれに関連する様々な出会いと出来事もまたそのひとつに入る。ナウィンはその後福岡を生活の拠点とし、すでに家族もいるのだが(つまりアジア展がきっかけで人生が変わった、ということ)、福岡での発表は滅多になく、1年の大半を活動拠点であるチェンマイ(タイ)か、欧米など仕事先で過ごしている。だから福岡での発表は本当に久しぶりである。さて彼の新プロジェクト「Navin
Party」(ナウィン党)のキックオフがこの展示。世界各国にいるとおぼしき、作家と同じ名前(Navin)を持つ人を捜し当て、1人ひとりにインタビューを試みるとともに、それに関した映画を制作したり、党(?)を作って活動しようというもの。自分と同じ名前の人間を捜すとは「探偵ナイトスクープ!」でそんな依頼がありそうだな、という気がして最初聞いたときは何となく脱力したものの、ある人も言っていたが、Navinという1人の覗き穴を通して多様な世界を見ている気にさせられる。結構世界中にいるものである。私と同じ名前の人は日本にはいても海外にはあまりいなさそうだな……。元々彼はインド系の血を引く民族的背景があるから、自らのアイデンティティの問いかけにもつながるプロジェクトなのだろう。ところで、4月16日に開かれたトークでは、かつて大分県中津江村で国際交流員をしていたカナダ人タイラー・ラッセルとの対談形式で行なわれたが、二人とも日本語堪能(特にタイラー)。外国人による日本語の現代美術のレクチャーを日本人が聴講するという、あんまり有り得ないシチュエーション。イヤー福岡も国際的になったものだ(その錯覚が命取り)。 |
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