殿敷侃展〜赤と黒の記憶〜
藤浩志と楠丈 |
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福岡/山口洋三(福岡市美術館) |
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いかにアートシーンの小さな福岡といえども、前回の記事で紹介した斎藤秀三郎のような80を過ぎてなお新作に挑む世代から、20代の若手まで、それなりに作家の頭数はそろっている。斎藤秀三郎の予想外の新作には驚かされた。では20-30代の若手作家なら、もっとそうした驚きや意外さを私たちに与えてしかるべきであろう。しかし残念ながら、私自身そうした体験はしばらく縁がない。むしろその逆だ。たまにオープニングに顔を出して作品を見た途端、急いでその場を離れたくなる。作家と向き合おうものなら怒り出して罵倒しそうになるからだ(いや、そうしたほうがいいのかな)。あるいは、時間をかけて遠方まで見に行っても、展覧会場での滞在時間は5分以内だった、ということもざらにある。これなら自宅で子供と遊んでいればよかった、と嘆くこともしきりだ。ここ数年の間に福岡にいくつかできたアートスペースは、一見若い作家たちに発表の場を与えたようだが、これが最近では裏目に出て、スペースがある分作家たちにハングリーさがなくなり、作家とその友人たちのたまり場の域をでない。たびたび九州派を引き合いにだして申し訳ないが、彼らの時代にはそもそも好き勝手できる場所すらなかった。だからこそ、1956年の街頭絵画展「ペルソナ展」が歴史に残るのである。
福岡市内の展覧会を見てそんな暗澹たる気持ちになりながら、山口県立美術館で「殿敷侃展」を見た。コレクション展の一環として開催されている経緯からか、残念なことにチラシもポスターもなく、たいした広報がなされていない。知らなかった人も多かったのではないか。私も危うく見逃すところだった。1991年に50歳の若さで没した広島県出身、山口県長門市在住のこの現代作家の回顧展は、過去にも2回開かれているのだが私は今回初めてその全体像を把握する機会を得た。
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殿敷侃展会場風景
シルクスクリーンによるインスタレーション《ATMIC BOMB》 |
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殿敷侃といえば、廃棄物を使った屋外インスタレーションを思い浮かべる方が多いだろう。死の直前である1990-91年に、相次いで首都圏の美術館企画の現代美術展に出品している。この頃の『美術手帖』をひもとけば、枯れ木に古タイヤを引っ掛けたインスタレーションなどが掲載されているはずである。私自身、そのころは九州にはいなかったが、この『美術手帖』の記事で殿敷侃という作家を知ったように記憶している、そしてその後しばらくして亡くなったということも(思えばこの頃の『美術手帖』に掲載された記事や作家はレヴェルが高かった。それらは今も私の仕事の大きな源泉となっている)。
初期の油彩から素描、版画、そして屋外のインスタレーション記録と、年代順に整理された会場の展示に見入りながら、私はふとある思いに駆られた。それは、こうした作家こそ、今まさに「地方」で求められる作家像なのではないか、ということだ。
殿敷侃は美大などでの美術教育をまったく受けていない。広島で病気療養中に絵を描くようになった。肝臓の病気での入院だったというが、その後の死因が肝臓ガンだったから、二次被爆による原爆症だったのだろう。彼が描いた対象は、父母の形見の品をペン画、エッチングにより細密に描写している。それが私の目には、特殊な境遇に置かれた者が特殊なモノを描いている、というふうに見えない。むしろ、否応なく自らに降りかかった境遇を引き受け、そのうえで自らにとても身近な品物を描くことで静かにそして激しく画業を出発させているように思える。この出発のようすは感動的だ。殿敷は「作家になる」とか「絵で食っていく」とかそういう出世欲で絵を描き始めたのではないことは明らかだ。ただ描くほかなかったのだと思う。この「ただ描くほかない」という境地は、その後の1980年代初頭の鉛筆やペンによる線の集積による平面作品にも、持続的に表われている。
美大に通うことは作家になることの必要条件ではないが、作家になるうえで、かなり有利な地点に立てることは確かだ。周囲には同じく作品をつくる友人たちがおり、また画材や機材が十分にそろっている。東京芸大や京都市立芸大など、主な美大は文化の集積地につくられており、そこで暮らすだけでも十分刺激的だろう。だがそうした刺激も、若者の内側に「描くほかない」境地がなければ化学反応にまでは到達し得ない。だからこそ、地方で生まれ、地方で美術活動を行なう者には殿敷のような作家の存在が救いなのであり、また同時に峻厳たる批判となるのだ。
多量のゴミを元にインスタレーションを制作し始めるのは1983年だが、殿敷がいわゆる「現代美術家」となるのがここからだ。友人をとおしてヨーゼフ・ボイス、トニー・クラッグの作品を知り、その手法を自らの作品に大胆に取り入れている。第37回山口県美展に出品した《黒の反逆集団》はその典型だが、これは見たところ古タイヤなど不要品の集積にしか見えない。造型することよりも「空間」を埋めつくすことそのものに主眼を置いたこの作品にも、「描くほかない」境地の変奏が見て取れる(余談だが、ゴミの集積作品をきちんと受け入れ、なおかつ「優秀賞」を与えた山口県美展のなんと鷹揚なことか! その約40年以上前、同じくゴミを蓆でくるんで読売アンデパンダンに出品しようとして事務局に拒否された九州派の時代とは隔世の感があります)。その古タイヤを、立ち枯れ寸前の松の木に引っ掛けた野外インスタレーションには、身近な環境破壊に対するストレートな怒りの表明があるし、赤い塗料を約5時間かけて透明ビニールに塗り込め、それを広島の原爆ドーム周辺に設置した《真っ赤に塗られてヒロシマが見えた》(1987)では、「描くほかない」境地をパフォーマンスとインスタレーションに変換し、さらに場所と自らの身体の歴史とを重ね合わせている。そこには洗練とかスマートとかいった、流行の現代美術様式に即座に当てはめたくなる言葉がまるでふさわしくない。作品のメッセージはストレートで、その外観は無骨にしてしかし雄弁である。東京の美術関係者の目にとまり、晩年に数々の展覧会に出品依頼があったのも、こうした作品の側面が逆に新鮮に見えたのかもしれない。その一方、同様に愚直な姿勢で作品制作を続けた地元作家たちにとっても、殿敷の姿勢は共感できるものだったのではないか。今、九州に殿敷侃のような作家がいて、地元で活躍し続ける一方、東京や海外の展覧会にも出品しているならば、地元美術シーンの牽引役となったはずである。残念ながら、現在そうした作家を見出すことは困難である。
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