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秋葉原へ/秋葉原から
──現代美術とオタク的世界の交錯する場所
中村政人×森川嘉一郎
●美術的フィギュア、オタク的フィギュア

森川――「秋葉原的」なものである「フィギュア」をテーマにして作品を作っている村上隆さんについてはどうお考えですか?
中村――フィギュアを作品にしたのは村上君が最初ではないんです。中原浩大という関西の作家が最初で、村上君はそれを真似たんです。当時は美術の動向にシミュレーショニズムがあったりして、村上君は作品にそれを導入したわけです。今、中原浩大は、どう思っているのでしょうね? ただ、私たちの世代はフィギュアに限った話ではありませんが、僕らはものをつくるとき、どこかである種の趣味性を通って、アート、もしくは専門的なものへと繋げていきます。誰しもプラモデルを経験し、ウルトラマンや仮面ライダーなどを見ながら大きくなってきたわけです。ヤノベケンジは中原浩大がフィギュアをつくっているんだから、自分も趣味的な感覚を持って作品をつくってもいいんだという勇気をえたわけです。彼はオタクです。その意味では中原浩大の出方が、ヤノベケンジというオタクを美術界に送り出したと言えます。中原浩大はもっと評価を受けていいと思うし、今でもそういったことが囁かれてはいるので、長い目で見ると、追々そういった評価が出てくるんじゃないでしょうか。
森川――村上さんは、アーティストというポジションからフィギュアに関与していますが、オタク系といわれる人たちから必ずしも歓迎されているわけではありません。よくぞ我々のフィギュアをアートにしてくれたという見方ではなく、なぜ我々の作り上げたものを借用して偉くなっているんだという見方です。中原さんの方が先だから再評価すべきだというオリジナリティ信仰が美術界にまだあるなら、同じ理屈でまずはオリジネイターとしてのオタク界の職人的作家達を評価するのかしないのかという問題を片付けるべきでしょうね。そこが棚上げされている。
中村――オタクが先だと言うと、造形的にはそこに行き着く歴史があると思うのでそれ以上言いにくいですが。中原浩大はフィギュアを彫刻的に扱っています。自分で手塗りしているんですが、それに対して当時、オタク側からはフィギュアの完成度として低く下手じゃないかという評価があった。しかし、確かにオタクとしてはダメなのでしょうが、中原浩大は彫刻として作っているわけだから別に構わないと思います。作品が彫刻的に成立した段階で終わってしまう話ですから。村上君は更にそれを先に進めオタクの人のあこがれている会社にフィギュアを発注して造ったわけですから、造形的にはオタクも文句が言えない訳です。
森川――中原さんや村上さんが、フィギュアが美術の文脈で面白く映ることを「発見」され、それを向こうに持って行ったら結構受けた。オタク達の反発も分かるけれど、その発見自体はとても面白いと思います。ただ一方で、中原さんと村上さんは、フィギュアを彫刻に見立ててアートにしている。セクシュアリティの問題とか、レディ・メイドやシミュレーショニズムといった、美術の文脈の評価軸を使っているところに、その限界もあるように思います。
秋葉原にあるフィギュアや美少女のポスターは、一般の人から見るとどれも同じです。しかし、オタクの人から見れば、各々が個別のキャラクターで一つひとつに物語があり、その物語を共有していることがフィギュアにアウラを帯びさせているわけです。だからそれは彫刻ではなく、一種のイコンです。例えば、海外の土産物屋に並んでいる聖母子像は、聖書の物語に余り詳しくない人ならキッチュな模造品だと思うような物でも、聖書の物語を知っているとありがたいと思わせるような効能を持っている。同じようなことがフィギュアやアニメにもある。オタクたちの反発は、そうしたコンテクストを劣位に置いて、アートの評価軸で見ることに対して向けられた部分もあるように思います。村上さんの《S.M.Pko2》は、両方のコンテクストに訴求しようとしていた点で、また違った方向性がありましたが。
逆に、そのオタクのコンテクストの方を、アートの文脈のオルターナティブとして持っていけるとするなら、そこにはさらに大きな可能性があるように思います。そうなったとき、オタク達はやはり反発するのか、それとも、アンビバレントな見方をするのかはわかりませんが。

●街をつくる因子

『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』
森川嘉一郎
『趣都の誕生
──萌える都市アキハバラ』
2003年3月発行
幻冬舎
1,500円
ISBN 4-344-00287-3 C0095
中村――森川さんは『趣都の誕生』で都市論、建築論の立場から秋葉原を論じているわけですが、そもそもは秋葉原のどこに関心があったんですか。
森川――以前から好きな街ではあったのですが、足繁く通う程ではありませんでした。建築学科に入るにあたっては、マンガを描いていたこと、模型づくりが好きだったことが動機となりました。だから吉祥寺や渋谷のガレージキット店に出入りしていたんですが、98年くらいから、そういった店が秋葉原に進出していったんです。
当時はそのように移っていくことが、ひどく自然なことのように思えました。秋葉原→マニアの街→マニアはガレージキットが好き→ガレージキットが好きな人たちがいっぱいいる街→ガレージキット店がたくさん進出してくる、と。マンガ専門書店も、同人誌専門書店も進出してきました。オタクの趣味のイメージ像とぴったり一致しているから、多分、秋葉原に繁く通っている人たちもそれを自然なことのように感じていて、特に変なことが起こっているとは思っていなかったのではないでしょうか。
しかしある時、ふと、この自然に見える変化を都市の側から眺め直してみたとき、なにかとても新しいことのように思えてきたんです。それで、秋葉原が都市の変化として新しいのではないかと色々な人に話してみたわけです。
話してみると、それはタケノコ族が原宿に集まっていたこととなにが違うのかと、しばしば聞かれました。例えば、タケノコ族はタケノコ族をやりに原宿に行くのであって、家に帰ってまでタケノコ族をやっているわけではない。銀ブラ族も銀ブラ族をしに銀座に行くわけで、家に帰ってまで銀ブラ族をしているわけではない。要するに、ある種のゾーニングがあり、それに従って、人々が役割を演じるために集まってくる、これが以前からあった現象です。しかし、オタクの人たちはオタクをやりに秋葉原に行っているわけではない。そこには明瞭な違いがあります。
街の変化の仕方そのものが、以前のそれとは異なっているのです。80年代の典型は、渋谷です。公園通りを中心とした地区が、セゾン文化に染められました。西武や東急が土地をブロックで買い占め、マーケティングしてゆく趣味に合わせて街を変えていく。そこに若者が来るようになり、その若者の需要を当て込むように、小判鮫のような小さな専門店が隙間を埋めていく。対して、秋葉原のオタク化街の場合、順序が逆なのです。大企業による組織的な開発などなしに、たまたまパソコンを好む人が性格的にアニメやゲームも好む傾向があったから、オタク系商品に対する需要が、店もないのに自然発生した。それに気づいた小さな専門店がまず秋葉原へ移店し、ものすごい売れゆきを示したから、他店もどんどん追従した。その後から、ラオックスのような大型店がオタク系を扱うようになったのです。官から民に移った街の変化の主体が、民から個に移ろうとしている。秋葉原はそうしたシフトの、萌芽的な事例なのではないかと考えています。
中村――経済至上主義的に街が変化してきているのでその意味での街の形成は強者が生き残るだけでしょう。しかし、ほんとうのオタクの人たちは、弱者になりたがり、よりマイナー指向に向くわけですから表にでてしまったものは、本当にはオタクの情報価値としては低いものではないのでしょうか? 言い換えれば、「アバンギャルドの市民化」ほど悲しいものはない。たとえばパンクファッションが流行して、パンクメッセージのないモヒカンファッションが街に溢れてくる。アバンギャルドが市民化して一般的な価値観にすり替わってしまったら、アバンギャルドでもなんでもないわけです。オタクも市民化してしまっているようでは単なる経済原理で動かされてしまっているだけでしょう。
僕は40歳くらいまではアジア圏の中に積極的にいようと考えていました。20代前半の頃から、潜在的に自分が培わなくてはいけないものを空間、環境的なものから取り入れていこうとする意識を非常に強く持っていました。韓国に3年いて、返還前の香港に1年間住んでいたことがあるのですが、そういった経験を積極的に計画的にやっていたわけです。コンビニ、マクドナルドに象徴されるように、アジア圏が欧米の文化の経済的な優位性に圧倒されてきたという近代があります。その中で定着してしまったことがあるわけです。それが組み込まれて以降は、それ以前とは全く違ってしまっていて、創造していく過程としてはそこから立ち上がらざるをえない。そこに目を向けない限り話は始まらない。風景を形成しているもの、僕自身を形成している環境を考えていくとき、今ある背景から話を始めていかないと伝わらないだろう、という前提があります。今、銀座の資生堂ギャラリーで見せているのは電柱が地中化することで出てくる配電塔です。景観を構成するものは結構なボリュームを持つものなんですが、誰も気付かない。銀座にも百個以上あるのですが、言われても気付かない。目立つものと目立たないもの、目立たせようとしているものと、目立たせないように置いてあるもの。色々な置かれ方があるわけですが、それらは誰かが作って置いたものなんです。景観学では、景観を形成している因子という言い方をしますね。物理的に外にあるものだから、それを景観として感じる場合、個としての内面を持っているものが外のものを判断するわけです。だから、因子は外にあるだけでなく、経験や知識のように、内にもあるわけです。それらが趣味性と微妙に関係してくる。景観を形成している外的なものと、それを見に行こうとしている人たちの内にある因子とが上手く噛み合わないと、いい景観は作れない。オタクの人にとって、最近、秋葉原はものすごくいい景観になってきていることでしょう。僕はアニメを好きでもないわけで、景観因子的には否定的な印象を持っている。街、景観を作るとすると、食物連鎖ではないけれど、上位と下位とがあるわけですよね。そして、必ずどこかに自分達のクリエイティヴィティが介入してくる。大手の代理店が大きなマーケティングをかけて、パッと広告を一枚出す。それが街の景観の一部となり、そこから連鎖していく。しかし個人の内面に宿る景観因子は、もっと根深い階層性を持っている。メッセージはその因子の派生する階層に届けなくてはならない。しかし、因子は環境のアフォーダンスに依存している。そう考えると堂々巡りになるような所もあるわけですが、街の中での自分の立ち位置を決め、そこから読みとりを始めるしかない。
なんか、だんだん私が頑固なマイナー指向のオタクのように思えてきましたね? 何のオタクなのかわかりませんが?(笑)
森川――オタク趣味を好む人と嫌う人は、かなりはっきりと分かれます。これは単純に個々人の好みの問題に帰せるものではなく、より構造的な背景をもっています。日本でアートとオタク趣味がもともと相容れなかったのは、それゆえです。秋葉原へのオタク趣味の集中は、その構造の都市的な反映です。そこに今後の日本の問題が立ち現われてくるように思います。
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