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プライバシーステートメント
展覧会レビュー
小吹隆文/福住廉
8/21-8/25
坂井淳二展
8/21〜26 番画廊[大阪]
坂井淳二展
厚みある支持体をグリッド分割し、その中を十字形で埋めた作品を制作している坂井淳二。作品はすべて《shape of the moon》と題されているが、それは作品に月の満ち欠け同様の普遍性を宿したいという思いの表われだ。スペイン産の顔料を用いた彩色が独特の深みを与えているのも印象深い。反復といえばポップアートやミニマルアートを連想しがちだが、それらとはまったく違う温かな風合いに満ちた心地よさが味わえる作品だった。
[8月21日(月) 小吹隆文]
館勝生展
8/21〜9/2 ギャラリー白[大阪]
館勝生展
無垢のキャンバスの一点に鉛筆でドローイングし、そこを起点に絵具の塊を落としてはペインティングナイフで抉り取る作業を繰り返して作られる館勝生の作品。やり直し不可能な作業から伝わる白熱の集中力と、無垢のキャンバスから漂う静謐感。両者の対比が深い余韻となって観客に伝わってくる。乾かないまま積み重なり、複雑な形象と模様を見せる絵具の山の生々しさは一見の価値あり。
[8月21日(月) 小吹隆文]
黒多弘文
8/21〜26 巷房地下[東京]
黒多弘文
赤いボールを透明のセロハンテープでぐるぐるに巻きつけた物体が床に置かれ、天井からは同じくセロハンテープの帯が無造作に垂れ下げられている。ぼんやりとした赤い物体はおぼろげな日の丸を連想させるが、それに近づこうとすると身体にまとわりついてくるテープのベトベト感とあいまって、粘着質なナショナリズムに巻き込まれる現在の状況を突きつけているようだった。
[8月23日(水) 福住廉]
深尾尚子──オプチミスト
8/21〜26 ギャラリイK[東京]
深尾尚子──オプチミスト
ダビデ像の上半身をインスタントラーメンで制作。頭部にはメキシカン・プロレスラーのようなマスクが被せられていたせいか、チープな素材のわりには人体のボリュームに異様な迫力を感じた。
[8月23日(水) 福住廉]
LIFE
7/22〜10/9 水戸芸術館現代美術ギャラリー[茨城]
LIFE
いのちにたいするリアリティを見失いがちな今日にあって、多様な生命力を喚起することをテーマとした展覧会。出品作家には西尾康之や棚田康司、川島秀明といった現代美術のアーティストだけでなく、マンガ家やアクティヴィスト、障害をもつ表現者なども含まれ、バラエティに富み多岐に渡っている。多様な生命力を励起させるために、多様な作家が選出されたようだ。
だが、現代美術の作家はともかく、それ以外の表現者たちの作品は、まさに作品として見せられているがゆえに、その生命力を半減させてしまっているようだった。たとえば暴走族の集会や暴走行為を撮影した吉永マサユキの写真群。控えめな照明と黒い背景のおかげで、典型的な「社会のアウトサイダーの写真」作品として見せられているが、逆にそのことによって当事者たちの暴走行為というリアルな生命の消尽との距離感を生み出してしまっているように見えた。むしろここで見なければならないのは、彼らの爆走と同じ速度を保ちながら撮影し続ける吉永自身の生命の躍動であって、それは「作品」とは別次元にあるものだ。吉永と対面させられている今村花子の絵にしても、「作品」としてみれば凡庸な抽象絵画になってしまうし、アイドルの肖像画ともいえる佐々木卓也の絵も、従来の「エイブル・アート」としてみなされがちである。
しかし、こうした現代美術の文脈には乗らない表現者たちが面白いのは、彼らの「作品」が優れているからではなく、その前の段階にある「活動」が魅力的だからではなかったか。たとえ「作品」の向こう側に「活動」を見通すことができたとしても、その経験からさほどの生命感は感じられない。なぜなら、彼らが命を賭けているのは「作品」ではなく「活動」だからだ。したがって重要なのは、吉永と暴走族の関係性を写真という形式によってではなく、その活動を丸ごととらえることのできる別のかたちで見せることであり、あるいは今村や佐々木の絵を「絵画」として見せるのではなく、絵を描く一連のプロセスを包含しながら見せようとすることである。そうした「作品」に依存することない見せ方は今のところ十分に開発されているとはいえないが、人間の生命をとらえる上で「活動」を無視することはできないのだから、生命を豊かにするはずの美術館がその任にあたることは筋違いとはいえない。
だからといって、アートプロジェクトのプレゼンテーションとして催される展覧会でしばしば見受けられるように、膨大な資料を黙読させるという形式がベストだとは到底言えないし(監視員の前で黙読することは苦痛以外の何物でもない)、トークショーによって作家の生の声を聞かせれば事足りるかといえばそうとも言えない。今のところ考えられるもっとも有効な方法は、人類学的な手法だ。とくに吉永の場合、民族誌的な方法論によって暴走族という対象をとらえるとすれば、その手段は写真だけではなく映像や音声、文字なども含まれるようになってくるので、それらを総合しながらみずからの生命と他者の生命の相克や調和について表現する手法が考えられる。今村や佐々木にしても、彼らの表現である「絵」を直接的に展示することより、そのあいだにエスノグラファーとしての第三者を介入させることで今村や佐々木を表象/代理させるほうが、彼らの生命をリアルに表現することができるかもしれない。
こうした見解にたいしては「それは美術ではない」という冷ややかな文句が返ってくることが予想されるが、じつはそのとおりである。だが現代の生命の多様性を把握するのに、美術という矮小な一システムに立脚することを自明視するほうが、そもそも不自然で無理がある。現代美術以外の表現者たちを美術館に召喚するのはよい。だが、それだけではあまりにも一方的で虫がよすぎるというものだ。そうするのであれば、美術の側もアートの規範や慣習から一歩踏み出す覚悟を示さなければならない。
[8月25日(金) 福住廉]
山下菊二展
8/24〜9/15 日本画廊[東京]
山下菊二展
いささか古い事例を持ち出すようだが、山下菊二こそはエスノグラファーとしてのアーティストの先駆者だったのではないか。そのシュルルポルタージュと呼ばれる絵は、きわめて現実的なモチーフにもとづきながらも、シュールの怪奇性を巧妙に取り入れることで、プロレタリアートほど直示的ではなく、かといってまったくの幻想世界というわけでもない、宙ぶらりんの奇妙な絵画空間を構成している。
[8月25日(金) 福住廉]
Index
8/21-8/25
坂井淳二展
館勝生展
黒多弘文
深尾尚子──オプチミスト
LIFE
山下菊二展
8/27-9/2
Ceramic Now+ 陶芸の現在、そして未来へ
アートバカンス!!展──今年の夏はバカに熱い
ex-PRESS──平林純展
篠垣美恵個展
西山美なコ──〜いろいき〜
小松敏弘──サナトリウム
太田三郎──On the Beach
ハガ*ユタカ写真展──19:45今夜
9/4-9/10
COCOA──現代美術の回廊
萌芽のとき2006──樫木知子展
タワー展──内藤多仲と三塔物語
藤田匠平展
篠原有司男展
今村源展・連菌術
ギィ・ブルダン写真展
9/11-9/14
池上将暢展
岩瀬ゆか個展──スティル
園部ミチオ写真展──OBLIVION
9/15-9/16
さとうひろみ──ピンクセレクション
中村江位子写真展──little mirror
西村康写真展──
Chinema
快走老人録──老ヒテマスマス過激ニナル
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