2019年12月01日号
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「第三の意味」ロラン・バルト

“Le Troisième Sens”(仏), Roland Barthes

フランスの批評家ロラン・バルトによって1970年に『カイエ・デュ・シネマ』誌に発表された論文。バルトはエイゼンシュテインの映画のフォトグラム(=スティル写真)を対象にして分析を行ない、映画には三つの意味のレヴェルがあるとする。それは物語の表面的な流れや関係を示すコミュニケーションのレヴェル、演出が生み出す象徴的なレヴェル、そして物語的な意味を必然的に逸脱するような「意味形成性」のレヴェルの三つで、第三の意味は「鈍い意味(le sens obtus)」と呼ばれる。それは情報的な内容を持たず、コミュニケーション的な把握から逃れてしまう、表象されえない表象である。そして物語のなかで語られながらも、むしろ物語性に抵抗するものである。この第三の意味が機能することによって、映画は単なる水平的な物語の流れから、垂直の意味を不断に紡ぎだす別な構造を持つものとなる。ここでバルトは映像の内部から映像の支配性・制度性に対して抵抗する、「詩的な政治性・批判性」とでもいうべきものを見ていたと指摘することができよう。このような「詩的な政治性・批判性」は、バルトに先立ってイタリアの詩人・映画監督ピエル・パオロ・パゾリーニが65年に行なった講演「ポエジーとしての映画」で、よりいっそう先鋭的なかたちで呈示されていた。パゾリーニは映画における「散文」と「詩」とを峻別し、散文的要素を口実としつつ現われ続ける詩的要素が映画には存在するとする。パゾリーニによればそれは物語よりもいっそう物自体の言語に近いのであり、そのようなものを抽出し見せるのが映画の詩的かつ政治的な役割なのである。つまりバルトの「第三の意味」もパゾリーニの「ポエジー」も、いわばシニフィエに回収されないシニフィアンと解することもできるが、単なる表層的な「シニフィアンの戯れ」の蔓延を警戒するかのように、彼らがそのようなものが映画に現われるのは稀であると述べていることは興味深い。まさに表層的で無秩序なシニフィアンの戯れが蔓延し、それが全体化に寄与している今日の電子映像の時代にあって、もう一度彼らの批判的思考の核心を捉え直すことが重要であろう。

著者: 河合政之

参考文献

  • 『第三の意味 映像と演劇と音楽と』, ロラン・バルト(沢崎浩平訳), みすず書房, 1998
  • 『映画理論集成』, 岩本憲児、波多野哲朗編, フィルムアート社, 1982

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